03.おまえが欲しい


な」


 聞き憶えのある声が耳朶を打った。

 太い弦をつまびいたような低く麗しい青年の声。

 いつ潜りこんだのか、紅緒の着物の袖のなかから白い小狐がころがり出る。板張りの床をまりのように跳ねたそのもふもふは、紅緒の数歩先に着地して、知世と対峙した。


「目をつけていて正解だった。この娘はまだ浅い、救える。だがそれにはおまえの力が必要だ」

「――ひゃあああ! 物の怪!」


 思いがけない再会に紅緒は悲鳴をあげた。

 その間にも、青い茨はずるずる這って知世を侵す。たちまち彼女の身体に異変が起きた。うごめく蔓に絞めあげられた胸、首の白くやわい肌が、蔓と同じきらめく青に変色してゆく。徐々に氷結するように――否、これは結晶化だ。


「朝桐さん……行かないで。あなたに好きになってもらえないのなら、私に価値なんてない」


 焦点も光も失った知世の瞳から、涙がこぼれる。

 結晶化の迫る口元には引きつれた笑みがあった。


「愛してよ、愛して。足りないの。もっと、もっともっともっと――私を望んで!」


 とめどない涙を流しながら哄笑をあげる、知世の変わり果てた姿に紅緒はあとずさる。人格の豹変も青い茨も結晶化する肉体もすべて、現実味がなくておぞましい。


「しっかりしろ。この私が――水銀がついている。おまえのことは必ず守り抜く」

「! やっぱりあなた、わたしの守護動物だったんだ……!?」

「守護者という点ではそうだな」


 宿主ともよを喰らうのに集中しているのか、茨は、距離を取っているかぎりは攻撃してこないようだった。

 水銀と名乗った小狐が紅緒を振り返る。


「あの茨は恋心に毒を垂らされたあかし。私と同じ妖魔のしわざだ。彼女の命が結晶化する前に救う」

「わ、わかった。色々とまだ呑みこめてないけど、知世ちゃんは操られてるだけ……なんだよね?」

「そうとも言えるし、そうでないとも言える。暴走させられてはいるがその根源は、彼女自身のなかにある感情だ。おまえが目を覚まさせてやれ」

「どうやって!?」


 混乱する紅緒へ知世の手がのばされる。

 茨と青い結晶に侵食されつつある彼女はもはや、人ではなかったが。一瞬――その一瞬だけ、知世は自我を取り戻して訴えた。


「助け、……苦し……」

「知世ちゃん!」


 たまらず駆け寄ろうと踏み出してしまった瞬間。知世の胸からのびる茨が二又に分かれ、空気を引き裂いて紅緒へ襲いかかった。


「あ――」


 心の臓を貫かれる、串刺しにされる――そんな、最悪の末路が瞬時に頭に浮かぶ。

 人は、死を悟るとほんとうに走馬灯というものを見るらしい。十六年の短い人生の記憶が泡のように湧いては消えてゆく。愛しい生家で過ごした日々、女学校の思い出、儚く散った初恋……。


(死にたくない。わたしを愛してくれる運命のひとを、まだ見つけられていないのに)


 絶望のさなかで聞いたのは、水銀の声だった。



 麗しい詠唱が紡がれた直後、銀色に輝く巨大な薔薇が紅緒を守るように現れた。獲物を喰らう肉食獣の口蓋のごとく、幾重にも重なった花びらががぱりとひらき、大きな口となって茨に噛みついた。

 喰いちぎられた茨は青くきらめく破片を撒き散らし、鉱石で構成された断面をさらす。

 すっかり腰を抜かした紅緒は尻もちをついたまま頭をかかえた。


「怖い! よく考えたら妖魔なんて生きものが存在するわけないし……夢なら覚めて、今すぐに!」

「頑固な奴だな。開国によって色々なモノが入り混じる時代になったんだ。妖魔の一匹や二匹や三匹、いて当然だろう。おまえが椿とやらにうつつを抜かし、叙情的なポエムを綴って眠れぬ夜を明かすようになった以前から、私たちはこの国に存在していたさ」

「喋る獣が三匹もいてたまるか……って、そんなことまで知ってるの!?」

「もちろん。見守っていたからな」


 水銀はため息をついた。


「まったく。あんな男のどこに惚れたんだ」


 目の前では切断された茨が再生しはじめている。意識を失った知世を抱きこみながら。

 やけくそになって紅緒は叫んだ。


「うつくしいお顔! あんなにきれいなひと、世界じゅう探したってほかにいるはずない!」

「面食いめ。おまえの目は節穴か?」


 水銀の姿が掻き消えた。もふもふに代わり一瞬にして現れたのは、凄まじい造形美を持つ青年。

 夜露を紡いだような白銀の髪がふわりとなびく。高い鼻梁、薄いくちびる、長い手足に睫毛が落とす繊細な影まで、精巧な人形さながらに隙がない。

 紅緒が骨抜きにされていた椿の服装を真似たように、白菫色をした三つ揃えの背広をまとった彼は、椿をも霞ませる美貌で紅緒を魅了した。その匂い立つ存在感といったら財閥の御曹司か、どこかの国の王子と言われたほうが頷けるほど。

 挑発的に、とろりと甘く――薔薇色の瞳を細めて青年が笑む。


「私に乗り換えろ。後悔はさせない」


 絶句した紅緒が瞬いたときには、青年は小狐の姿に戻っていた。キュウ、と小馬鹿にしたような鳴き声をあげると、水銀は肉球を踏みしめ跳躍する。



 ふたたびの詠唱。刹那、張りめぐらされた無数の赤い糸が茨ごと知世の肢体を拘束した。金唐紙でえがかれた花柄のきらびやかな壁に、知世は蝶の標本のように縫い留められる。

 すべては瞬きひとつのあいだに起きたこと。愕然とする紅緒の頭に、ちいさな四つ足が着地した。


「紅緒」


 頭上から、水銀の声が降る。


「おまえが欲しい。戦乙女になってくれないか」

「戦……? え? え?」

「この娘を正気に戻すには茨を断たねばならない。だがその辺の武器ではだめだ。目の醒めるような、恋心の輝きでなければ」


 紅緒が戸惑っていると、水銀はいきなり四つ足を踏ん張った。威嚇の姿勢――そう感じた直後、けたたましい音を立てて円窓が砕け散る。

 散乱する硝子のつぶてのなか飛んできたものを紅緒は視認できなかったが、それが漆黒の矢であったことを彼女はのちに知ることになる。


血玉髄けつぎょくずいめ……!」


 地を這う唸りをあげ、水銀が吼えた。


「邪魔をするなッ!」


 雷鳴にも似た一喝が空気を震わせると同時、窓を割って飛来したものが粉々に砕けた。

 青い茨が喰いちぎられたときと同様、辺りに漆黒の破片が散らばる。


「今度は何!?」

「気にするな。友を救うことだけ考えていろ」

「でも……どうすればいいの?」

「直感にゆだねるんだ。おまえは知っているはず」


 何を言われているのかわからなかったが、水銀の次のひとことで紅緒は覚醒する。


「知世を侵したのは丹礬たんばんという妖魔だ。私たちとは性質の異なる悪しきモノで、乙女の恋心を利用し、命ごと結晶化させて喰いものにする。丹礬は多くの結晶を求めていて、まだ表沙汰にはなっていないが知世のように犠牲になった乙女が何人も存在する。そしてこれからも増えるだろう」

「これから、も……?」


 紅緒の目がひらかれる。

 心臓がひときわ熱く脈打って叫ぶ。

 聞き捨てならない、と。


「妖魔だか悪魔だか知らないけど、人の恋路を邪魔する無粋は許せない。だって恋はすてきなもの――誰かを大切に想う心が、弄ばれるだなんて!」


 怒りに駆られたくちびるが、ひとりでに動く。


「――応えて、薔薇輝石ばらきせき!」


 紅緒の胸に亀裂が入った。

 硝子細工が砕けたような音とともに、心臓よりも深い場所が一気に割りひらかれる感覚がする。循環する血液、全身に張りめぐらされた脈の一本一本が煮えたぎるように熱くなり――矢絣の着物のした、裂けた胸から薔薇色のまばゆい光があふれ出た。

 自身の身体に起きたことを理解できぬまま、紅緒はぼんやりと胸に手を伸ばす。乱反射するあざやかな光を掴んだとき、それは彼女の手のなかでかたちを変えた。

 末弭うらはずから本弭もとはずまでが薔薇色の鉱石で構成された、目の醒めるあざやかな武器に。


「弓矢――どこまでもまっすぐな恋に生きる、愚かな乙女のかたちだ」


 水銀が目を細める。いたくまぶしげに。

 鉱石の弓矢を手にした瞬間、紅緒は自身の使命を悟った。誰に教わることもなく矢をつがえる。赤い糸に縫い留められた、知世へ向けて。


「死者は帰らない。お母様は遠い日に炎に抱かれ、灰になってしまった。どんなに望んでも取り戻せはしないけれど……今を生きる恋なら、守れる」


 かつての自分は病床に臥せる母に何もしてやれず、彼女のもとに死が訪れるのを見つめることしかできなかった。――だが、今は。

 今の紅緒には己のゆく道を選択できるだけの力があり、信念がある。

 行動しなければ何も守れない。逆境にぶつかったとき、それを運命として抗わず身を任せるなんて、嫌だ。悪しき妖魔に恋心を利用される乙女がいるのなら、自分はそれを救える乙女になりたい。


「奪わせない。絶対に……!」


 紅緒は輝く弓を引き絞った。

 自身を取り巻くあたたかな気配に、導かれるようにして。


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明治恋獄綺譚 青造花 @_inkblue

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