02.遊ばれたねえ


 紅緒は末端士族・たちばな家の一人娘である。

 物心つく頃にはもう、母は亡かった。家族三人の思い出はなく、記憶にあるのは衰弱して臥せりきりになった母の姿と、捧げられるかぎりの時間を捧げて彼女に寄り添っていた父の姿。かつてその美貌で銀座に名を馳せたという母は、紅緒を産んで以来、身体を弱くしてしまったと聞く。


「許してくれ……何もかも私のせいだ」


 父はいつも、紅緒への懺悔を口にした。

 最愛の妻を喪うことを怖れた父は、資産を切り崩して古今東西の薬を求め、すぐれた医術を求めた。そうしてすがってしまったのが医師を騙る詐欺師。巧みな話術に引っかかった父は財産を騙し取られ、橘家は今、没落寸前の危機にある。

 それでも紅緒に父を恨む気持ちはなかった。

 食卓に並ぶおかずが慎ましくなっても、雨漏りのする屋敷になっても。それらは不幸になり得ない。


(なりふりかまわず、すべてを投げ打つ勢いの献身ができるなんて……どれだけすてきな恋をして、揺るぎない愛を育んだのだろう)


 父母の関係は憧れで、そのひたむきな心を娘にも絶え間なく傾けてくれる父の存在は、紅緒にとって幸福の象徴そのものだった。

 華族子女のような贅沢な暮らしができなくとも、たくさんの愛情をそそがれて育ち、自身もまた愛情深い人間になったと紅緒は自負している。早逝した母に代わって男手ひとつで面倒を見てくれた父には感謝が尽きない。溺愛されすぎて引いてしまうこともあるのだが、それはさておき満ち足りた毎日だ。


「好いひとを見つけなさい」――祈るように、父はよく紅緒に言い聞かせる。


 きっと、早く嫁にいってほしいのだろう。修繕も間に合わないみすぼらしい屋敷など早く巣立って、自分の人生を生きてほしいと。

 紅緒はこの時代にはめずらしく恋愛結婚を許されており、彼女自身、望んだ相手と家庭を築きたいという願望を強く持っている。けれどそれは、結婚が安定を得る手段のひとつだからではない。末長く愛しあえる伴侶を見つけて幸せになることが、父へのいちばんの恩返しになると信じているからだ。


 椿と出会ったのは、そんな折だった。


「――ごちそうしますよ。可愛らしいお嬢さん」


 銀座煉瓦街にできたばかりであった月季堂の窓を覗いて、異国から伝わった珈琲に紅茶、きらきら輝く宝石めいた果物が飾られた洋生菓子ケーキを食い入るように見つめていたときのこと。

 いきなり声をかけられた紅緒は驚いて薔薇の植え込みに突っこんでしまい、椿のはじける笑い声とともに救出された。葉っぱにまみれた間抜けな姿をさらしながら、呼吸を忘れて彼を見あげたのを紅緒は憶えている。


(なんて……きれいなひと)


 俗に言う、ひと目惚れ。

 生まれて初めての恋だった。

 すっきりと切られた黒髪、印象的な緑色の双眸。ふたりで入店した純喫茶カフェー・月季堂で、三つ揃えの背広を着こなした魅惑の青年は、造船業を牽引する実業家であると明かした。柔和で親しみやすい彼との対話は楽しく、あっというまに時間が過ぎた。

 薔薇のかたちのバタークリームがのった洋生菓子ケーキを食べ終え、紅緒が次に口にしたのは、


「あっ……あの! よかったらわたしとまた、お茶してくれませんか……!?」


 などという、脈絡のなさすぎる誘い。

 けっして運命的な出会いではない。それでも紅緒にとっては運命で。このひとしかいないと、本気で思っていたのだが――。


「遊ばれたねえ」


 ラジオ巻きにした髪が似合う級友・知世ともよが円窓にもたれて言った。彼女の部屋のなか、絹の長椅子ソファにぐったり横たわる紅緒には返事をする気力もない。


「元気出して……なんて簡単には言えないけれど。男のひとは星の数ほどいるんだもの、紅緒ちゃんを大切にしてくれる運命の相手はきっといるよ」


 あたたかな励ましが、身に沁みる。


 数日前、信じがたい事件が起きた。

 七曜の七日目、午後三時。いつものように赴いた純喫茶カフェーで椿とお茶をしていると、ひとりの貴婦人が月季堂に来店した。

 折り畳んだ蝙蝠傘を手に、豪奢なワンピースを揺らしてふたりの前に現れた貴婦人は、紅緒の頭からつまさきまでをじっくり眺めて言い放ったのだ。――「その子が十二番目? 子どもじゃない」

 自らを「二番目」と称する彼女と椿のやりとりを呆然と見るうちに知ったのは、椿が十一人もの恋人を持つ女たらしであることと、彼が歓楽街では有名な遊び人であることだった。

 二番目ならまだしも、十二番目の女だったと判明したときの衝撃たるや……三日寝込むほどだった。


「お父様には言ったの? 椿さんのこと」

「ううん……言えないよ。十二股かけられたなんて知ったら何しでかすかわからないし」

「それもそっか。紅緒ちゃんのお父様、ものすごく子煩悩こじらせてるもんねえ」


 父の溺愛ぶりは級友もよく知るところである。

 ふたり揃って遠い目になるのも仕方ない。


「はあ……初恋だったのに……」


 失意の底、膝をかかえて縮こまる。

 そのとき紅緒の脳裏によみがえったのは、煉瓦街で会った白い小狐の姿だった。


『あの男はやめておけ。ろくな奴じゃないぞ』


 複雑なことに、あの忠告は正しかった。

 思い返しても馴れ馴れしい物の怪だったが、椿の本性を見抜いて教えてくれたのだから、きっと悪い存在ではないのだろう。

 守護動物というものかもしれない。


「……知世ちゃんのほうはどうなの?」


 沈む気持ちに蓋をすべく、紅緒は話題を切り替えた。おっとりした笑顔の愛らしい級友もまた、恋をしている乙女のひとりなのだ。


「ほら、警察の朝桐あさぎりさん。酔漢に絡まれたところを助けてもらって、好きになったっていう」

「特に進展してないかなあ。そもそもうちは、紅緒ちゃんみたいに自由な恋愛を許してもらえるかわからないし……お散歩とか、お茶に誘うのが精一杯。片想いだよお」

「でも頻繁にふたりで会ってるんだよね? お誘いに乗ってくれるってことは朝桐さんも気がありそうだし。最近はどうなの、知りたい!」


 紅緒は恋愛話を聞くのが好きだった。厳密に言えば、恋する乙女のきらきらした瞳を見ることが。

 親しい友ならなおさらのこと。だから前のめりになってしまったが――知世のまなざしが翳る。


「朝桐さん、街で女の子とぶつかって怪我させちゃって。小料理屋の看板娘さんなんだけど、その子、足首を痛めたんだ。彼は責任感の強いひとだから、お店にかよって色々お世話してるみたいで……この一ヶ月は会えてないの」

「そうだったんだ……」

「会えないってこんなに不安になるものなんだね。初めて知ったよ」


 恋は多幸感を生むが、ときに悲しみも生む。

 相手に寄せる想いが深いほど悲しみの度合いも深くなり、より傷つくことになると紅緒も身をもって知ったところだ。

 かける言葉を決めあぐねていると、知世はゆらりとうつむいた。薄桃色のくちびるがかすかに動く。呪詛でもささやくように。


「私をいつまでも不安にさせて……何考えてるの。地味で鈍くさい私より、元気で愛嬌のあるあの子に気が移った? こんなに簡単に捨てられるなんて、私、おかしくなりそう……っ」


 紅緒は思わず眉根を寄せた。

 知世の様子がおかしい。もともと内気で自信のない子ではあったものの、不安定になったり、卑屈になったりする日はなかったから。


「私は所詮、その程度の女だったってこと……? もっと一緒にいたい、なんて言っていたくせに!」

「と、知世ちゃん落ち着いて。ごめんね、わたしが余計なこと訊いたから」

「どうしてほかの子を優先するの!? 私だって、私だって、腕や足の一本くらい切り落とせるわ! あなたが気にかけてくれるなら……!」


 戸惑う紅緒の目の前で、知世の言動が激化する。大きな目を血走らせて喚き、喉を掻きむしって――何かに取り憑かれたような異常な姿に慌てた紅緒が長椅子ソファをおりたとき。ずるり、と知世の胸から這い出たものがあった。

 蠕動する蛇と錯覚したが違う。

 それは、鉱石でできたように青くきらめく茨の蔓だった。


「……知世ちゃん?」


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