明治恋獄綺譚

青造花

◇act.1―薔薇輝石の乙女

01.あの男はやめておけ


「絶望だ……おまえは絶望的に男を見る目がない」


 紅緒の前に現れたが言った。

 太い弦をつまびいたような低く麗しい青年の声で、いたく嘆かわしげに。

 幻覚ではない。何度目をこすっても、白い毛皮のもふもふはそこにいる。銀座煉瓦街の街路樹、満開を迎えた桜の枝上でちょこんと四つ足を揃えた小狐が、たしかにこちらを見おろしているのだ。


「あの男はやめておけ。ろくな奴じゃないぞ」


 そんなわけないでしょう、わたしは運命の恋をしたの。あのひとと添い遂げると決めたんだから――初恋に熱をあげる紅緒を案じた級友からの忠告であればきっと、そう反論していただろう。

 けれど目の前で説教を垂れるのは、おっとりした笑顔の愛らしい友でなく、人語を操るちいさな獣。やけに馴れ馴れしい態度の喋る小狐は、薔薇色の瞳を眇めて続ける。


「聞いているのか、紅緒。あの男は」

「――いやあああ! 物の怪!」


 悲鳴をあげて紅緒は逃げた。晴天のもと、リボンで飾り立てたマガレイトの黒髪が跳ねる。


(何、今の!? 狐が話しかけてきた!)


 春爛漫の昼さがり、桜吹雪舞う銀座。光と花が降りそそぐこの麗らかな日に、人ならざるものと邂逅した女学生など紅緒だけだろう。

 いったいなんだったのか。

 背中に貼りつく視線を感じながらも振り向かずに駆ける。何せ紅緒は、逢瀬の場所へ急いでいたところだったのだ。油を売っている暇はない。


昨夜ゆうべはなかなか寝付けなかったから、そのせいで白昼夢でも見たんだろうな。うん!)


 不可解なできごとを半ば強引に片付けて、紅緒はブーツの靴音高く銀座をゆく。

 視界を流れる煉瓦造りの街並みは、約十五年前に起きた銀座大火をきっかけに不燃都市として復興されたものだ。辺りに建つ家屋をはじめ、社交場サロン珈琲茶館コーヒーハウス、瀟洒な商業施設のいずれもが西洋建築を見本モデルにつくられている。文明開化によって吹きこむようになった異国の風は、かつて焼失した銀座一帯をも華やかによみがえらせた。紅緒が駆ける歩道もよく整備され、炎の痕跡などは一切見られない。


 ほどなくしてたどり着いたのは〝月季堂〟の看板が掲げられた純喫茶カフェー。甘い芳香を放つ春薔薇の植え込みに囲まれた扉をあけようとして、いけない、と紅緒は踏みとどまった。


(乙女たるもの、身だしなみはしっかり)


 扉に嵌めこまれた硝子を鏡にしてそわそわと前髪を整える。一張羅である矢絣の着物と、海老茶色の行燈袴の乱れを直すのも忘れずに。はずむ息を落ち着かせ、にこりとほほえめば、十六歳の小娘もそれなりに淑女レディに見える。


(……よし!)


 左右のこぶしを握って意気込んだとき、くすりと背後で笑う声がした。

 身繕いに夢中で気づけなかったが、硝子のなか、紅緒の数歩うしろに佇む青年がいる。


「こんにちは、紅緒さん。見るつもりはなかったのだけど、ごめんね。あまりに可愛いものだから」

「つ、椿さん……!」


 顔から火が出る、とはまさにこのことだ。

 紅緒は熱を帯びた真っ赤な顔で振り向いた。

 そこにいたのは白皙の美丈夫。仕事の空き時間に来てくれる彼――椿は今日も三つ揃えの背広を着こなした凛々しい姿で立っていた。その黒髪はやわく艶やかに、花がそよめく風情でなびく。血色のいいくちびるは常に紅を刷いているようなあざやかさ。

 性別を超えた美貌の持ち主であるこの青年こそ、紅緒が週に一度、密会デートしている相手だった。


「あれ、新しいリボンをつけているね。珊瑚色か。明るくて華やかで、よく似合ってる」

「え……うれしい! リボンってどれも同じようなものなのに、どうしてわかるんですか」

「君のことならよく見ているから。いつもおめかししてくれてありがとう」


 椿はするりと紅緒の腰を抱き、店の扉を引いた。

 流れるような先導エスコートはいつものことだが、やはり慣れない。涼やかな鈴の音に出迎えられて店内へ足を踏み入れた紅緒は、今にも腰を抜かしそうだった。

 着物越しに密着する肌がとてつもなく熱い。このうつくしい青年の瞳に映り、言葉を交わすだけでも精一杯なのに、彼はこうして軽い調子でふれてくるから困りものだ。


(あああ、なんて心臓に悪いひとなの……)


 七曜のうち七日目の、午後三時。それがふたりの約束の日になってから二ヶ月が経とうとしている。

 忘れ去られた古城を題につくられた純喫茶カフェー、その薄暗い照明のした。高貴な木目調の店内を進みながら、椿がささやいた。


「楽しいひとときにしようね」

「は、はいぃ……」


 先ほど会った狐のことなど、紅緒の頭にはすでになく。思考を埋め尽くすのはただひとり、椿だけ。

 羅紗緬らしゃめん――西洋人の相手をする洋妾だった母と、お雇い外国人である英吉利イギリス人の父のあいだに生まれた椿は、この国ではめずらしい緑の目をしている。鉱石のような彼のまなざしに囚われると、たちまち心がとろけてしまうのだった。


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