本編
“本編”
「なるほど、これが……」
目的地が視界に入ってきたところで私は、ちょっとした感嘆の声を上げていた。
交差点の北西の
全体的には黒っぽい茶色だが、いくつかの珠だけは色が違っていた。今年の西暦「2024」を示すように動かされた珠が、赤く塗られて目立っていたのだ。
おそらく毎年、その西暦に合わせて塗り直しているのだろう。気の利いた演出ではないか。
――――――――――――
そもそも私がこんな場所に来たのは、深い理由があるからではない。ちょっとした気まぐれみたいなものだった。
そろばんには二つの名産地があるという。「雲州そろばん」の島根県奥出雲と「播州そろばん」の兵庫県小野市だが、元々前者は銀行用、後者は学校や個人商店で使用されるそろばんを作っていたそうだ。ならば私が子供の頃、習い事のそろばん教室で使っていたのも、播州そろばんだったかもしれない。
そして、そろばんを
私鉄の小野駅に降り立ち、東口から駅の外へ。三階建ての駅舎は横に長い造りで、屋根と窓枠の赤色がアクセントな白い建物。少しお洒落な感じの外観で、ちょっとした駅ビルになっていた。学習塾や美容院などがテナントとして入っているらしい。
ただし駅前にあるのは、バス停が一つと小さなロータリーの植え込みのみ。あまり大きな駅ではない印象だ。
歩き始めたところで見上げれば、青い空に白い入道雲。典型的な夏空の下、早くも汗が出るのを感じていた。
バス通りらしき通りを駅前から道なりに進むと、左右に見えるのは商店ではなく民家ばかり。しかしそれは最初だけで、県道18号との交差点に近づけば、電気屋やレストラン、医院や郵便局などが並んでいた。
交差点で北へ曲がり、今度はひたすら県道18号を行く。大きな商店街は見当たらないが、ポツリポツリと点在したり、時には何軒か並んだりという形で商店があり、それなりに栄えている感じだった。
そうして駅から十数分くらい歩いた辺りで、がらりと風景が変わる。通りに面した右手に、大きな池が広がっていたのだ。
地図には「大池」と記されている。県道18号の左側にも「権現池」という池があるようだが、そちらは通りと接しているわけではなく、大きさも大池の1/4か1/5程度なので、ちょっと見えにくかった。
とはいえ、道の両側に池があるとなると、大きな橋を渡っている気分。ちょうどその「橋」を渡り終えたところで、目的地が視界に入ってきて……。
――――――――――――
私は少しの間、ボーッとモニュメントを眺めながら、この場所に至るまでを軽く振り返っていた。
すると突然、後ろからポンと肩を叩かれる。
驚いて振り返れば、小さな女の子が立っていた。クリッとした大きな目と黒髪のおかっぱが特徴的で、年齢は5、6歳くらいだろうか。
他にパッと目につく点として、イチゴ柄の長袖シャツと、裾長の真っ赤なスカート。「暑くないのかな?」と少し心配になるけれど、汗もかいていないようだから、おそらく薄手の生地なのだろう。
そんな幼女が、人懐っこい笑顔を浮かべながら、私に声をかけてくる。
「おじさん、そろばんが好きなの?」
どうやら自分で思っていた以上に長い時間、ここに突っ立って巨大そろばんを見つめていたらしい。
もちろん私は、そろばんマニアでも何でもないのだが……。今日が「そろばんの日」だとか、この街がそろばんの産地だとか、小さな子供にきちんと説明するのは大変そうだ。
だからこの場は、彼女の言葉を肯定しておく。
「うん、そうだね。大好きってほどじゃないけど、そろばんは好きだよ」
「じゃあ、これあげる!」
彼女が伸ばした右手には、小さなそろばんが握られていた。珠が5つしかない、つまり一桁分しかない特殊なそろばんだ。
これは子供用の玩具か何かだろうか。少なくとも、大人の私がもらったところで使い道はなさそうだが……。
私が一瞬、困惑している間に、
「お守りのそろばん! いっぱいもらったから余ってるの。だから一つあげるね!」
そう言い残して、彼女はパタパタと駆けていく。
よほどの早足だったらしく、そろばんから私が顔を上げた時には、もう彼女の姿も足音も消えてしまっていた。
「お守りのそろばん……?」
一人残された私は、独り言を口にしながら、改めて手の中のそろばんに視線を向ける。
小さなそろばんをよく見ると、その上枠のところに「合格」と彫られていた。ならば合格祈願のお守りなのだろう。
指で珠を動かそうとしても、上段に1つある珠は動かない。ずっと「5」の状態だ。
一方、下段の4つは動くものの、その4つ同士はくっ付いていて、まとめて動く状態。その4つで示せるのは「0」か「4」のみであり、上の珠と合わせれば「5」か「9」……。
そこまで考えたところで、ピンときた。
「なるほど、『「
そろばんの街ならではのお守りだ。そう思うと、私の苦笑いも微笑みに変わるのだった。
――――――――――――
ふと気づけば、心地よい風が吹いていた。真夏の太陽の下でも、暑さを感じずに済むほどだ。それどころか逆に、汗が冷えて寒いくらいだった。
このまま立ちすくんでいるよりも、とにかく動いた方がいいだろう。ブルッと体を震わせた私は、駐車場のある交差点を西に曲がって、再び歩き始めた。
来た道とは違うルートならば、何か目新しいものが見つかるかもしれない。そんな期待も込めて、今度は権現池を大回りする格好で、県道18号を通らずに駅へ向かおうと考えたのだ。
私が奇妙なものを目にしたのは、それから数分の後。右手に畑が広がる道に入り、少し歩いた辺りだった。
電柱の根元に、たくさんのそろばんが置かれていたのだ。
最初は「捨てられているのか?」と思ったけれど、それにしてはきれいなそろばんばかり。続いて「これも一種のモニュメントだろうか?」と考えたところで、そろばんと一緒に置かれた花束が視界に入る。
その段階で、ようやく理解できた。これは交通事故の現場で、そろばんもお供え物に違いない、と。
いくらそろばんの街とはいえ、一般的な供物としてそろばんが使われるわけではあるまい。おそらく被害者がそろばんと
改めて供物のそろばんをよく見ると、普通のものだけでなく、合格祈願のそろばんも混じっていた。いや「混じっていた」というよりも、小さいから最初はわかりにくかっただけで、むしろ合格祈願の方が普通のそろばんより数が多いくらいだ。
「なぜ事故現場に合格祈願のお守りが……? 被害者は何かの試験を受けに行く途中だったのか……?」
――――――――――――
後でインターネットで探してみると、該当する事故のニュースが見つかった。
私が想像した「被害者は何かの試験を受けに行く途中」というのは部分的に正解で、正確には「そろばんの昇級試験を受けに行く途中」だったという。「そろばんの昇級試験」だからこそ、そろばんを使った合格祈願のお守りが供物として使われているらしい。
天国でもそろばんの昇級試験を受けて、そこで合格してね! ……みたいな意味だろうか。
亡くなった被害者の写真も、ネットの記事に掲載されていた。写っていたのは、イチゴ柄のシャツを着たおかっぱ幼女。そろばんのお守りを私にくれた彼女だった。
「なるほど、『いっぱいもらったから余ってるの』とは、そういう意味か……」
あの日もらったそろばんは、今も私の部屋にある。棚の一番上なので目にとまりにくいところだが、あれが視界に入る
彼女は今でもあの街で、成仏できずに
(「幼女のそろばん」完)
幼女のそろばん 烏川 ハル @haru_karasugawa
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