藪の外
狂フラフープ
お姉さんがニコニコしながら眺めるガキに取られる謎の虫
間違いなかった。
一番レアな奴だった。
覗き込んだ草っぱら、セイタカアワダチソウの根元近くにお姉さんの欲しがってたヤツがとまっていた。ぜったいに捕まえたと思う。だって今も手のひらの内側に、かさかさと動くそいつの感触を感じる。
ボクらの間で、その虫の実物を見た奴はひとりもいない。
いや。いなかった。だが今は違う。興奮のあまり手をギュッとしたくなるのを我慢して、ボクは一目散に来た道を引き返して駆ける。
その虫のことを教えてくれたのはもちろんお姉さんで、草むらのどの辺りを探せば見つかりやすいかも、捕まえるときどう忍び寄れば良いかも彼女に教えてもらった。
お姉さんはボクらの誰より虫取りに詳しい。捕まえた虫を見せると自分のことのように喜んでくれる。捕まえた虫がどのくらい生きるのか、何を食べさせればいいのか、オスとメスの見分け方、もっとたくさん取れる捕り方の工夫。
もちろんお姉さんはボクらのヒーローで、けれど何故だかボクらは誰もお姉さんが虫取りをするところを見たことがなかった。いつだって彼女はニコニコと、虫取りに参加せず遠くからボクたちを見ている。
お姉さんは虫のことが大好きだ。それはたぶんそうだと思う。
ボクらはお姉さんのことが大好きだ。それは間違いなくそうだ。
だからボクは他の子らを出し抜いて、お姉さんが一番喜ぶだろうその虫を捕まえられたことがうれしくてたまらなかった。
ボクたち施設の子どもには、流行りのゲームを買ってくれる親などいない。
だから溺れるようなたくさんの遊びを与えられた他所の子たちと違って、ボクたちはいつでも遊びに飢えている。
お姉さんが普段何をしている人なのか、どんな家に住んでいるのかも分からないけど、それでも彼女がボクたちにとって神さまみたいな存在なのは変わりない。
共用のおもちゃやお下がりの服じゃなく、自分のものと呼んで差し支えない私物をボクたちはそれほど持っていない。つまらない教科書、短くなった鉛筆、使いかけのノート。それからお姉さんのくれた図鑑。
図鑑に描かれているのは、ボクたちが自分の力で手に入れることのできる宝物だ。
図鑑には奥付とか発行年月日なんて書いてないし、そもそも作者や出版社の名前さえ載っていない。ひょっとしてお姉さんが作ったのかと聞いたことがあるけれど、お姉さんはどうだろうねと曖昧に微笑むだけで、真実はわからずじまいだ。
確かなのは、この図鑑がこの辺りにいる虫だけが載った図鑑なのだということ。
写真と一緒に名前と特徴が書かれているのはカマキリやトンボといった見慣れたものばかりだけれど、その中に一種類だけ、ボクらの誰も実物を見たことのない珍しい虫がいる。
けれど、図鑑に載っているからには必ず居る。お姉さんはその虫がめったに見つからないのは、もともと珍しくて、しかもほとんど取り尽くされてしまったからだと説明した。けれど探せば必ずいるから、お姉さんはそれを探しているの。
その言葉を聞いて、ボクはお姉さんにその虫をプレゼントしようと思ったのだ。
なぜってお姉さんは、ボクらに一番の宝物をくれた人なのだから。
藪を抜けた先、砂利道の車道を挟んだ木陰で、お姉さんはいつものように麦わら帽を被ってクーラーボックスに腰掛けている。
お姉さんは真夏でも長袖の服を着ていて、一緒に虫取りをしようと誘っても決して草藪に足を踏み入れることがない。みんなは大人の女の人はそういうものだと言うけれど、ボクにはそれがやっぱり不思議に思える。
ボクの姿を認めた途端、お姉さんはニコニコと笑みを浮かべて立ち上がった。
「おつかれさま。なにかいい虫は見つかった?」
ボクの汗をタオルで拭いながら、お姉さんが尋ねる。息を切らせた呼吸の隙間から、ボクは必死にあの虫を捕まえたことをお姉さんに告げた。
お姉さんはひたと、一瞬だけ動きを止めて、それから優しく目を細めてボクの手元に目を向ける。
隙間を作って握り込んだボクの両手を、お姉さんがゆっくりと開かせる。
中の虫を逃がさないように、恐る恐る指をずらし、握りこぶしを開く。けれどそこには捕まえたはずのあの虫の姿はどこにもなく、小さな赤黒い染みが残っているだけだった。
「嘘じゃないよ、ほんとに捕まえたんだ」
まるで、高いところから落ちて覚める夢みたいな心地になる。ボクは言い訳みたいな言葉を口にして、けれど本当にそれは嘘ではなくて、でもそれを証明する手立てもない。顔を上げて、すがるようにお姉さんと目を合わせた。
そのときボクは虫を逃がしたことよりも何よりも、いつもニコニコしているお姉さんが、その一瞬だけ、なんだか悲しそうな顔をしたような気がしたことが辛かった。
「……勘違いじゃない?」
お姉さんに尋ねられて、ボクは頷く。
お姉さんはボクの手を取ると、もっと良く手を見せて、とその手を覗き込んだ。
「お姉さん、信じてくれる?」
ボクの手のひらをじいっ、と見ていたお姉さんは顔を上げ、信じるよ、と頷きボクの頭を撫でてくれた。いつも通りのニコニコした顔だった。
お姉さんは足元のクーラーボックスを開くと、中からアイスを取り出してボクに差し出す。ふたつでひとつの、ソーダ味の棒つきのやつ。何も捕まえられなかったのにアイスを貰ってもいいのかと思ったけれど、お姉さんは黙ってボクにアイスを握らせた。
ふたつに割って半分をお姉さんに手渡そうとすると、お姉さんは何も言わずに首を横に振る。お姉さんは、ふたつ食べていいよ、と内緒話をするような小さな声で言った。そんなことは初めてだった。
それはアイスを食べるとき、いつだって願うことだったけれど、いざ目の前にふたり分のアイスが並べられるとボクはなぜだかそれを受け取る気にはなれなかった。
「いっしょに食べたほうがおいしいよ」
ボクがやっぱりアイスを差し出すと、お姉さんは困ったような顔でごめんね、と言い、それからボクと隣に並んでアイスを食べた。
「どこに行くの?」
手を繋いでボクを連れ歩くお姉さんに、ボクは少し不安になって尋ねた。
他の子たちをほったらかしてボクだけを連れてどこかへ行くなんて、いつものお姉さんなら考えられないことだからだ。
お姉さんは質問に答えず、何かの敷地を囲うフェンスに沿って歩く。
そこはいつもなら近付くだけで怒られる場所で、けれどお姉さんはゲートの人にあいさつもしないまま、ボクを連れて敷地の中へ歩いていく。
芝生を横切って入り込んだ建物は冷房がひどく効いていて、ボクは少し身震いをした。
お姉さんはここに住んでいるのだろうか、と思うけれど、それにしてはそこには少しも生活の気配というものがない。
「お姉さんは、ここに住んでいるの?」
「そうだね」
「お姉さんは、ここで働いているの?」
「そうだね」
お姉さんはボクの質問に、昆虫について話すときの饒舌さとは似ても似つかない簡潔さで答えると、前だけを見てどんどんと建物の奥に進んでいく。
ボクはその歩幅について行けずに、握った手に引きずられるように歩き続けた。
機械ばかりで人間のいない部屋を横切って、廊下の突き当りの部屋にたどり着いた。
「さ、入って」
お姉さんは扉を開けると、部屋の中を示してボクを促した。繋いだ手が放されて、その手は代わりにボクの背を押す。
「お姉さん」
ボクは一言お姉さんに声を掛ける。
お姉さんがボクを見る。
ここはなんなのか、どうしてここに来たのか、聞こうと思っていたことはいっぱいあったのに、口から出てきたのは別の言葉だった。
「怒ってる?」
虫を捕まえられなかったこと。期待させて、がっかりさせたこと。お姉さんに嫌われてしまうのが、ボクは何より怖かった。
お姉さんが、少し黙る。
怒ってないよと、お姉さんは目を合わせずに答え、ボクの両肩に手を掛けた。
なぜだか一瞬、お姉さんに抱きしめられるかと思ったけれど、お姉さんの手はボクをくるりと向き直らせると、部屋の中へと優しく押しやった。
窓のない部屋。天井に嵌め込み式の灯りがある以外、椅子も机も何もない小さな部屋だった。
振り返るとドアがゆっくりと閉まるところで、お姉さんはボクといっしょには部屋に入らない。どんなに誘っても草藪にいっしょに入らない、いつものニコニコとしたお姉さんだった。
扉が閉まると、音も気配も、今まで感じていた何もかもが遠くなる。
分厚い扉のこちら側にはドアノブが無くて、どうやって開けていいのかもわからない。
どうしようもないので、ボクは床にぺたんと座り込んで扉に背を預けた。扉の向こうから、どこかに電話を掛けるお姉さんの声がかすかに聞こえた。
――そう。一匹捕獲して、宿主は虫かごに入れた。そろそろ子供の補充をおねがい。
何の話をしているかはわからなかったけれど、お姉さんが少し怒っているような気がするのはボクのせいなのかもしれなかった。
嘘ではないのだ。お姉さんにあげようと思ったのだ。
少し泣きそうになる。
手のひらを照明にかざす。痛みがなかったので気付かなかったけれど、染みだと思っていた手のひらの赤黒いそれが、小さな切り傷だったことにボクは気付く。
分厚い扉の向こうから、お姉さんの気配が消える。
傷口をぺろりとひと舐めして、ボクは確かに捕まえた虫がいったいどこに行ってしまったのかを考えている。
藪の外 狂フラフープ @berserkhoop
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