03.ゆっくりと……
「初手でグリセットとは良い趣味してるわ」
運ばれてきたグラスを手にして、しずりが微笑んだ。
「あれ、もしかして強いビールだったんですか?」
「飲んでみればわかるよ。ほら」
注文を挟んでしずりはすっかり余裕を取り戻しているみたいだった。うながされてまなかもグラスを手に取る。
「じゃ、乾杯」
「か、乾杯」
ビールグラスが涼やかな音を立て、淡い黄金色の上に立った泡がわずかに揺れる。
「わ、良い匂い~。ん、あれ——」
一口飲んで、まなかは思わず声を漏らした。鼻先をくすぐったのは柑橘系の香りで、飲んでみると予想していた苦味はほとんど無く代わりに強い酸味が口の中で踊った。
「え、これビールなんですか」
「そう、これもビールなの。香りはオレンジとコリアンダーシードね。ベルギービール。飲みやすいでしょう?」
こくこくとまなかはうなずいた。じわっと染み通るように華やかな風味が広がってきて、ついついグラスを傾けてしまう。でも、酸味が強いのでゆるゆると飲むことになるのがよかった。ごくごく飲んでしまったら、徐々に浮ついてくるアルコールの気配にあっと言う間に飲み込まれてしまうかもしれなかった。
まなかにとって驚きだったのはビールにオレンジを使うことで、しずりの解説によればそれが珍しくないということだった。
グリセット・ブロンシュ・ビオ。横に写っていたボトルの青い鳥に惹かれて選んだけれど、まなか的には大正解だった。美味しく感じたこともあるが、なによりしずりが楽しそうだ。
「あ、そう言えば、聞きたかったことがあるんです」
「どうぞ」
「バルとバーってどう違うんですか?」
まなかの素朴な問いに、しずりはうなずいて歌うように告げた。
「バーはお酒を楽しむところ。バルはお酒とお食事を楽しむところ」
「ええ?」
「バーではね、基本的に食事は提供されないの。でも、バルは居酒屋みたいに料理のメニューも充実していて、お酒と料理を一緒に楽しめるようになってるのよ。たとえば、こういうのはバーでは出てこないかな」
しずりはそう言って、テーブルに置かれたフライドポテトとウインナーの盛り合わせを指した。
「あと、バーは食事処と言うより社交場としての面が強くて——この社交は社交界の社交ね——バルの方はもっとカジュアルな感じ、と言えばいいかしら。バルの方がお気楽ね」
「あ、たしかに」
まなかはうなずいてグラスを傾ける。店内の席をちらほら埋めている客は皆カジュアルな私服姿で、見たところ友人同士あるいは一人客という感じがする。しずりが〝お気楽〟と評するのもわかる。
「でも——」
まなかは壁のアナログ時計に視線を走らせ、ずいずいっとグラスを傾ける。
「こんな時間からお酒を飲んでいると、なんだか悪いことしているみたいですね」
「ふふ、背徳感はあるわね」
「じゃあ、しずりさんが私を悪の道に染めたのだ」
冗談めかしたまなかの言葉に、しずりが真顔になる。
「——嫌?」
恐れるようなあるいは怖がるようなまなざしがそこにあった。さっき見かけた少女の顔が兆している。
(なんでだろう?)
そこにある不安を感じ取り、まなかはアルコールに揺られはじめた頭で問いを立てる。今日はしずりの意外な一面を見てばかりな気がする。
ただそれが、自分の中にあったほのかな憧れを打ち消すものではなくて、勝手に描いていた幻想を上書きする好ましい現実だったのはたしかだった。
だから、その不安を解きほぐしたい、と思った。
「あ、すみませ——ん」
少しペースが速すぎただろうか。まなかはグラスを置くと、喉の奥からこみ上げてきたガスの塊を口の中で押し殺した。
しずりはなにも言わない。
そして、まなかは無意識に右手を伸ばしていた。
「良かったと思ってます」
「え?」
「手を引いてくれたのが、八郷先輩で。良かったと思ってます」
まなかは差し伸べていた右手を引っ込めて、感触を確かめるように左手で包んだ。
「やっぱり、好きですから」
しずりが息を呑む。しかし、まなかはそれに気づかずにほんのり赤くなった頬を緩めて笑った。
「好きですから、こういう時間」
「それは……都合良くとらえちゃう、よ?」
指先をグラスの縁に這わせて、上目遣い気味にこちらを見るしずり。まなかはつとめて朗らかに「いいですよぉ」と笑いかけ居住まいを正す。
「お気に召すままに……なんて、ちょっと偉そうですかね」
いつもしずりがしているように芝居がかった言葉を選んでみたけれど、まなかは途中で気恥ずかしくなって苦笑いに逃げてしまった。
しずりは目を瞬かせ、ふふっと微笑した。
「〝As You Like It〟じゃあ、そうさせてもらおうかしら」
「え、なんて?」
「ん、シェイクスピアでしょ?」
問い返すしずりの言葉に、まなかは会話を巻き戻して考える。考えてようやく『お気に召すまま(As You Like It)』が繋がった。基礎英語のテキストが思い出される。
(あれはどんな話だったっけ……)
「もしかして、無意識だった?」
「ええっと……はい」
素直にうなずくとしずりは笑みを深くして、椅子にもたれる。
「かなわないわ。あなたには」
しずりの言葉の意味を図りかね、まなかはきょとんと首をかしげる。その肩越しに見えた窓の外は静かに雨が降り落ちていた。
「それじゃ、手始めに二つお願いしていいかな?」
「はい」
ないしょ話でもするように膝を詰めてきたしずりにつられて、まなかも同じようにテーブルに体を乗り出す。
「一つは、もう少し雨宿りに付き合ってくれること」
「ええ、良いですよ」
しずりはうなずいて身を引くと、自分の胸に右手を置いた。
「もう一つは、さっきみたいに〝しずり〟って呼んで」
気のせいかこちらを見つめる瞳は潤んでいるように見えた。いつの間にかすっかり乾いていた喉を感じて、思わずグラスを取ろうとしてまなかは留まる。口の中の水分を集めて飲み干す合間に、しずりは言葉を続けていた。
「それからあなたのこと〝まなか〟って呼んで良い? あ、これじゃ三つだ」
はにかむ笑みが新鮮だった。
(この人もこんな風に笑うんだ)
憧れの幻想がまた一つ好ましい現実に上書きされるのをまなかは感じる。胸を熱くするのは調子に乗って飲んだビールはずだった。
「良いですよ、どっちも。その……」
わざとらしく口ごもると、わずかにうつむいたしずりの瞳が揺れる。こっちの様子を窺うのが可愛らしく思えて、まなかはゆっくりとその五文字を送り出した。
「しずりさん、でいいですか?」
意地悪をしたつもりだった。それなのに、自分の言葉を噛みしめるように目を伏せたしずりの仕草に、じれったさを覚えてまなかは切なくなる。
「ありがとう、まなか」
しずりの発する自分の名前がなんだかくすぐったくて、まなかはグラスを手に取って残りを一気に乾した。
「やーもーなんなんですか、これ。……まるで今日初めて会ったみたい」
まなかが顔に両手を当てて指の間から覗くと、しずりも右手を頬に当てていた。
「あるいはそうだったのかもしれないわね」
「え?」
「なんだか知らないあなたをたくさん見た気がするの。たった一杯の間なのにね」
しずりは静かにグラスを口元に運んだ。そうして、上品にグラスが空けられる。
ことり、とコースターに当たる音が高く響いた気がした。その音を聞いたとき、まなかの心の中でなにかが噛み合った。
「良いですね、それ」
まなかは目元から頬に手を下ろして、ぽつりと漏らした。
「ん?」
「こんな短い時間にも出会いがたくさん詰まっている感じがして。いまこうしてしずりさんと話している私は、ちょっと前まではこんな風にしずりさんと話す私と出会う前の私でもある気がして」
「じゃあおあいこだ」
しずりは微笑しメニューを手に取った。
「まだ飲む?」
「はい」
ふわふわする酩酊を感じながら、まなかは思ったとおりの言葉を舌に乗せる。
「今度はしずりさんが選んでください。お気に入り、教えてください」
「——ん!」
その言葉にしずりは肩を震わせ、先ほどとは少し違った角度でまなかを上目遣いにとらえた。
「もしかして、あなた……まなか、酔ってる?」
「少し!」
明るく答えると、しずりはため息を吐いて「いったん水行きましょう」とさりげなく店員を呼んだ。
いつもの落ち着いた所作だった。
「慣れないうちはゆっくり飲んだ方がいいよ」
「そうですね」
答えつつ、まなかはひそかに思う。
(私はきっと、ううん私達はきっと……)
「そうします」
(惹かれている)
でも、そう自覚しても慣れない気持ちを言葉に変換するのは急ぎすぎる気がして、まなかは笑みを向けるだけに留める。
ゆっくり楽しむべきなのだと思う。
いつもと違って初々しい反応を見せるしずりも、奇妙な跳ね方をする自分の心も、いまはまだわかりやすい言葉でまとめなくて良いのだと思う。
「ゆっくりでいいんですよね……」
まなかのつぶやきはバルの喧噪に飲まれて消えた。
「ん?」
「いえ、楽しいなって」
問い返すしずりに、まなかは満面の笑顔で答える。
「雨宿り」
しずりの肩越しに見える空からは陽が射していたけれど、見ない振りしてまなかは笑う。
「……そうね」
わずかに目を伏せたしずりはふふっと微笑。逆光の中に浮かんだ微笑みはただまっすぐにまなかへ向けられていた。
(楽しもう。うん、ゆっくりと……)
チェイサーを運んできた店員の声を遠くに聞きながら、まなかは目を伏せて思いを噛みしめた。
水を一口含む振りをしてグラスを戻す。
いまはまだこの熱を冷ましたくなかった。
雨宿りはお気に召すままに 蒼桐大紀 @aogiritaiki
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