第39話 さようなら

「うん。本当に、大丈夫だから。事情を知っている友達も一緒だから……。うん。気をつけるよ。それじゃあ、仕事中に、ありがとうね。うん。僕も愛してるよ。アイティ」

 休日出勤しているアイティとの通話を切って、スマートフォンを机の上に置いた。


 日曜日の今日、和希は六年ぶりに、男性の姿で街を歩く。

 十三時から駅前を待ち合わせに、絵美と累と一緒に遊びに出ることにしている。

 遊びというより、リハビリと言った方が正確である。


 一姫の死を受け入れた和希であったが、心の方は、スイッチを切り替えるようにはいかず、未だに男性の格好をすると吐き気と冷や汗が生まれる。

 そのため、休日を使って、少しずつ男性として――和希として生きることに慣れることになった。

 今日は、リハビリの成果を試すために、一姫ではなく和希として、初めて外出することになっている。


 鏡の前で上着を脱いでブラジャーを外そうと、手を後ろに回した。

「和希? もう着替え終わっ……」

 部屋の扉を開けた和葉が、丁度、ブラジャーのホックを外した和希の背中を見て、げんなりとした顔になった。

「兄がブラジャーを外している瞬間を目撃してしまった」

「ご、ごめん……」

「ううん。ノックしなかった私も私だし」


 そう言いつつ、和葉はズカズカと部屋に入り、ベッドに腰を下ろした。

 和希も兄妹なのだから気にする必要もないだろうと着替えを続行した。

 しかし……、


「和葉……。ごめん。下を着替えるから、一旦、外に出ててくれる?」

「え? なんで? 和希のゾウさんならもう見たことあるでしょ?」

「いやいやいやいや! 妹とはいえ、その、あの……、せ、性…………は! 見られたくない!」

 和希が言い淀むと、和葉は鼻で笑った。


「ええ? なに? なんて言おうとしたの? もう一度、ちゃんと言ってみてくださーい。わん・もあ・ぷりーず」

「せ、せめて、目瞑って!」

「はいはい。瞑っててあげるから、さっさと着替えてよ」


 和希は仕方なしと腹を決め、和葉に背中を向けて、履いていたパンティからトランクスに履き替えて、黒のアンクルパンツを履いたところで振り返った。

 目が合った。

「……見た?」

「見てないけど?」

「……大丈夫。兄は妹を信じるよ」

「どうでもいいけど、ブリーフじゃなく、トランクスなんだね」

「え⁉」

「うん?」

「…………よし」


 諦めをつけた和希はモノクロのボーダーシャツの上にコーディガンを羽織り、美容院で肩口まで切ってもらった髪を、ポニーテールのように結んだ。

 鏡を見て身だしなみをチェックするが、妙な違和感を覚える。

「不思議。男装してるみたい」

「男が男装することを不思議とは言わない」


 そう。和希は和希であるからして、男装することは特段不思議なことではないのだ。

 しかし、どうだろう。

 ポニーテールの金髪に、メンズの服に身を包んだ格好は、ボーイッシュな女子という印象で、到底、男性には見えなかった。


「髪、もう少し切ろっかな」

「この前、美容院に行ったでしょ?」

「行ったんだけど、いつも切ってくれるお姉さんにもったいないって言われて、結局、肩口まで残したんだよ」

「別に今時、髪の長い男の人だって珍しくないでしょ?」

「まあ、そうなんだけど」


 一先ず、今日のところは仕方がないため、これでよしとした。

 トートバックを手に持って、部屋を出ようとした。

 コーディガンの袖を、和葉が掴んだ。


「……和葉?」

「ごめん。そのまま、聞いて」

 和葉に背中を向けたまま、和希は和葉の言葉を待った。

「……ずっとね、和希のこと、嫌いだった」

 和希は、実の妹に、そう言わせてしまっている自分のこれまでを強く恥じた。


「でもね、和希は、根っこの部分は、全然変わってなかったって、今なら、分かる。一姫お姉ちゃんを演じてても、誰かを想える優しさは、和希の中に残ってた」

 胸の内側がくすぐったい。

「だから……、ごめんね。ずっと、ずっと、酷いこと言って、邪険にして……。でも、和希お兄ちゃんのこと、大好きだから……。その気持ちは、子供の頃から、変わってないから……」

 和希は振り返って、和葉を抱きしめた。

「うん。うん。僕も、和葉のこと、大好きだよ」

「……うん。おかえり。和希お兄ちゃん……」

 ほんの数秒、抱き合ってから、和葉が照れたように俯きながら離れて行った。


「和葉。これからも、和希お兄ちゃんって呼んでいいんだよ?」

「うん。分かった。和希」

「…………あれ?」

 その後、なんとかもう一度、和希お兄ちゃんと呼ばせようと奮闘したが、どうしても呼んでくれず、約束の時間が近づいてきたので、諦めて家を出た。


(きっと照れてるんだよね。うん、きっとそうに違いない!)

 家を出て駐車場に行くと、トゥイクの自動車が止まっていたので乗り込んだ。

 運転席に座っていたトゥイクが振り返って、にやりと笑った。


「おおっ! いいじゃない、和希くん! 似合ってるねえ。これじゃあ、女の子も放っておかないよ」

「そうかな? 全然、男らしくないと思うけど」

「まあ、身内贔屓なのは否定しないけどね」

 トゥイクはそう言って、車を発進させた。

 駅まではいつもの登下校で歩いているので、本当なら車を出してもらう必要はないのだが、和希として外に出るのは初めてであるため、一人で出歩かせるのは心配ということだった。

 駅に行けば、絵美と累がいるため、そこまで送ってもらうことになっている。


「……トゥイクは、ずっと僕のこと和希……男の子として扱ってくれてたけど、違和感なかったの?」

「ないねえ。むしろ、一姫ちゃん扱いする方が違和感があるってものさ。和希くんは、どうなっても、俺のかわいい甥っ子だからね」

「トゥイクらしいや」

「そっ。いつだって、自分らしく生きることが肝要だよ。たとえ、駄洒落がスベりまくって、女子大生から白い目で見られたってね」

「いや、そこは自重しようよ」

 とはいえ、トゥイクのそういう場を和ませようとしてくれる態度は、和希にとって好ましいもので、彼のように、朗らかな態度で日々を生きていければいいなと思った。


 自動車が駅前のこぢんまりとした駐車場で止まり、和希は降りた。

「帰りはどうするんだい?」

 窓から顔を出して、トゥイクが聞いた。

「大丈夫。絵美と累に送ってもらうから」

「逆送り狼に遭わないようにしなよ」

「ないない」

 トゥイクに別れを告げて、駅の構内に入ると、人通りの少ない改札付近に、絵美と累の姿があった。


「わあ、二人とも、私服すごく似合っているね」

 絵美はバルーン袖の赤ニットに、黒のスリムパンツ、スエードタイプのローファーという出で立ちで、非常にかわいらしかった。

 累は薄手のボーダーのシャツの上にネイビーカーディガン、パンツは丈短めのジーンズを履いて、格好いい女性という印象だった。


「絵美はかわいいし、累はかっこいいし……」

 和希が素直に感想を吐露すると、累からチョップが振ってきた。

「どうしてチョップなの?」

「お前な! 異性に向かってそういうこと平気な顔で言うな!」

「そ、そうね……。変な勘違いされるわよ……」

「ええ……。絵美にはあんまり言ったことなかったけど、少なくとも累には、今までだって『かわいい』とか『綺麗』とか、しょっちゅう言ってたじゃん」

「おめえが女だと思ってたから、別段、気にならなかったんだよ」

「じゃあ、今から女装してこよっか?」

「今日の目的忘れてない?」


 和希という男性として街を出歩くという本来の目的を見失うところだった。

 目的を再度見失う前に、三人で改札を潜り、この辺りでは一番大きなショッピングモールに向かうことにした。

 電車で数駅揺られ、駅の外に出ると、ショッピングモール以外にも、飲食店や服飾店など多くの店が立ち並ぶ大通りに出た。


 タイル張りの舗装された広めの歩道を、歩行者がはしゃぎながら歩き、道路ではひっきりなしに自動車が行き交っている。

 絵美と累と、他愛のないお喋りをしながら、道行く人たちに混ざって歩道を歩いた。

 個人経営の服飾店の前を通り過ぎようとすると、マネキンが立ち並ぶショーウィンドウに和希の姿が映り込んだ。


 違う。和希ではない。

 そこに映り込んでいたのは、女子高生の制服を着たかずきだった。

 思わず、立ち止まった。


 突然立ち止まった和希を、他の歩行者が不思議そうな顔をしながら避けて通り過ぎていく。

 ショーウィンドウに映ったかずきは、ただ和希を見つめているだけだったが、次の瞬間、和希が口を動かしていないにも関わらず、ショーウィンドウの彼女は唇を動かした。

 音として、和希の耳に届いた訳ではなかったが、その意味を、和希は理解できた。


「和希?」

 立ち止まっていた和希に気がついたのか、絵美と累が引き返してきた。

「……大丈夫?」

 絵美が心配そうに顔を覗き込んできた。


 和希は、そっと頷いた。

 悩み、惑い、苦しみ、痛み、膝を折って、自分を見失った。


(それでも、僕を、きちんと見てくれていた人たちはたくさんいた。声をかけてくれて、一緒にいてくれて、心配してくれて、自分ですら分からなくなっていた僕を、見捨てないでいてくれた。そして僕は、僕に戻れた)


『もう、大丈夫だね?』

 そう、彼女は聞いた。

「うん。もう、大丈夫」

(一人じゃないから、大丈夫。

 だから、さようなら。六年間、ありがとう。かずき――――)

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そして僕は妹になった 中今透 @tooru_nakaima

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