俺のかち?

羽川明

これがかち?

 仕事帰りに電車に揺られていると、隣に座る紫の髪の太った男が舌打ちをした。


 僕の仕事用のカバンのひもが、太ももにかかっていたらしい。

 男が僕のカバンのひもを引っ張ってにらんでくるので、僕は「すいません」と小声でつぶやいて、隣の車両へ移った。


 そのあとは何事もなく、自宅への最寄駅で降りる。

 雨が降っていた。

 一緒に降りたおばあさんが困った様子で独り言をつぶやいている。


 どうやら傘が無いらしい。


「どこまでですか?」



 僕はカバンから取り出した折りたたみ傘をさして、おばあさんと近くのタクシー乗り場まで相合あいあい傘をした。


 屋根のあるタクシー乗り場のに着くと、おばあさんに何度も感謝された。


 気分がいい。

 電車でのことなんか忘れて、僕は軽い足取りで家へ帰った。


 玄関に上がると、母さんの金切かなきり声が聞こえてきた。


 リビングで実家のおばあちゃんと電話しているらしい。

 耳が遠くなったおばあちゃんのために声を張り上げているのだ。


 家のどこにいても、母さんの金切り声ははっきりと聞こえる。


「疲れてるんだけどな」


 休みたい気分だった。

 母さんの金切り声がうるさくて、気分が落ち着かない。


 部屋の扉を閉めても母さんの声はちっとも小さくならなかった。

 母さんの声自体がもともとよく通る声なのだ。


 布団に顔をうずめて、目を閉じて耐えるしかない。


  *


 夕飯の時間。

 うっかりコップを倒してしまい、お茶がテーブルの上にこぼれた。


「なにやってんだお前は!?」


 すぐに、母さんの金切り声が飛ぶ。

 散々怒鳴り散らしても怒りがおさまらないようで、母さんはテレビを消して自分の部屋へ消えていった。


 あとには暗い静寂せいじゃくだけが残って、耐えきれなくなった僕はテレビをつける。


 すぐに母さんがリビングに戻ってきて、


「誰がテレビつけていいって言ったんだ!? なぁ!?」


 とまた金切り声を上げた。


 僕はただ黙ってやりすごすことしかできなかった。


  *


 アラームで目が覚める。

 夢だったらしい。


 今日も平日だ。

 会社へ行かなくちゃならない。


 疲れているはずなのに、不思議といつもより仕事がはかどった。


 事務職の僕は退職した社員の私物を整理したり書類をファイルにまとめたり、パソコンにデータを入力したりと、いつもより忙しかった。


 昼休憩の時間も先輩に仕事を振られ、ほとんど休みなしで働いた。


 あっという間に定時が目前に迫ってきた。

 契約社員なので、正社員の上司や先輩たちより早く帰れるのだ。


 それでも、みんな同じオフィスで必死に働く僕の姿を見ていたはず。


 僕はいつもより格段に多い今日の実績を報告書にまとめて提出し、期待に胸をふくらませて、「お先に失礼します」と頭を下げた。


 誰も何も言わなかった。


 僕は逃げるように職場を後にした。



 きっと誰かが見てくれている。

 いつか誰かが認めてくれる。


 そうやって期待し続けたまま、僕は社会人になった。


 ほめてくれる人なんていなくて、見てくれている人も認めてくれる人も、誰もいない。


 恋人もいない、友達もいない、家族だって、誰も僕を見ていない。


 今日も帰れば母さんが、金切り声でおばあちゃんと電話をしていることだろう。


 おじいちゃんが入院して寝たきりになってから、おばあちゃんはボケはじめた。

 母さんが話し相手になってやらないといけないらしい。


 だから母さんは耳が遠いおばあちゃんのために、あのヒステリックな金切り声で、毎日のように電話するのだ。


 学生時代、何度あの声に苦しめられたかわからない。


 テストで悪い点を取った、お茶をこぼした、箸を落とした、ゲームをしていた、友達と遊んでいたら宿題をやるのを忘れた──


 ──全部、「なにやってんだお前は!?」と怒鳴られる。


 友達はみんな僕の母さんが怖い人だと知って、だんだん遊んでくれなくなった。


 ゲームをすると怒られるし、漫画も雑誌も買ってくれない。

 買うためのおこづかいももらえない。


 僕は学校での話題についていけなくなった。


 そして友達がいなくなった。


 大人になれば、何か変わると思ってた。


 雨の中、困り果てるおばおさんに傘をさして上げたら、いつか自分に返ってくるって本気で思ってた。


 違った。

 そんなわけなかった。


 僕はそこそこ名の知れた大企業に就職した。

 そのとき、だって思った。


 だ。


 ようやく認められた気がした。


 違った。


 僕は契約社員。

 時給はコンビニバイトより低くて、業務内容は事務処理。


 頑張っても手を抜いても、誰も何も言わない。


 僕の仕事はたいてい「暇なときにやっておいて欲しい」とか、「期限はいつでもいい」と言いながら渡される。


 僕が今やらなくても、


 誰も困らない。

 誰も傷つかない。

 誰も死なない。


 誰も僕を必要としていない。



 母さんはそこそこの歳になっても働き続けている。

 じいちゃんの介護費用が高いらしく、働いても働いても、貯金を切り崩さなければ払えないのだという。


 実は僕は、家にお金を入れていない。

 携帯代も家で食べる夕飯代も光熱費も家賃も全部両親が払っている。


 まぁ払えって言われても僕の給料じゃ無理なんだけど。


 そんな日々が続いたある日の夜。

 布団の中でふと思った。


「僕のって、なんだ?」


 僕が生きていたら、誰かの役に立つだろうか?


 僕がいなくてもあの大企業は潰れないし、業績だって微塵みじんも変わらないだろう。

 同僚も先輩も、誰も困らない。


 だって僕の仕事には実質期限がない。

 いつか誰かがやればいい仕事だけで一日が終わる。


 僕がやらなくても、どうせ誰かやる。



 僕が死んだら、誰かの役に立つだろうか?


 僕がいなかったら家計はかなりマシになる。

 母さんは今より無理して働かなくてすむようになるし、貯金を切り崩す必要もなくなるかもしれない。



 僕のいったい、何がだ?

 僕のいったい、何がだ?



 何もない。

 僕には、勝ちも価値も、何も。


 そう気づいてから、僕はになった。



 ある日の仕事帰り。

 電車に揺られていた。


 偶然すいていて、席に座ることができた。


 隣に座るむらさきがみの太った男が舌打ちをする。

 どうやらこの前の一見で味をしめたらしい。


 わざとらしくまたを開いて、隣に座る僕に太ももを押しつけてくる。

 僕を見て邪魔そうにしている。狭いからどけとでも言いたげだ。


 また、舌打ちをした。


 僕は立ち上がって、男の胸ぐらをつかむ。


「なんか文句あんのかよ!?」


 叫んだ。母さんよりも低い、殴りつけるような金切り声だった。

 赤ん坊が泣き出す。うるさいと思った。


「お前がくたばればすむ話だろうがっ!!」


 息がかかるほど顔を近づけて、僕は男が言い返してくる前に怒鳴りつける。

 太った紫髪の男はキョロキョロと見回しながら立ち上がって、隣の車両に消えていった。


 気まずくなって、僕は逆方向の車両に逃げた。



 自宅の最寄駅につく。

 りると、雨がっていた。


 予報外れの雨。

 あのときと同じ時間帯。


 駅の改札を出た屋根の下に、あのおばあさんがいた。


 傘が無いらしく、困った様子で雨宿りしている。


 僕はおばあさんのそばを通り過ぎる。


「あ、あの……」


 声をかけられた。

 僕は構わず、雨の下に出る。


 カバンには折りたたみ傘が入っている。

 だから、傘を持っていないをした。


 おばあさんがどんな顔をしているのか気になったけど、振り返ることはしなかった。


 雨に沈んだほの暗い街を歩いていく。

 誰にも聞こえない声で、吐き捨てるようにつぶやいてみた。


「俺の勝ち」


 僕はいったい、何を悩んでいたんだろう。


 役に立ったら、

 認められたら、

 必要とされたら、


 それは勝ちなのか?

 そうだとして、だからなんだ。


 勝つことになんの意味がある?


 

 勝ちなんて、こんなにも無価値だ。

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