数学研究部と図書委員
金曜日の放課後というのは、授業が終わった後の開放感が段違いだな。
金曜日の5時間目が終わるまで残り二十分というのは、月曜日の5時間目が終わるまで残り五分に匹敵するだろう。
廊下で熱運動を行う粒子のような生徒たちの間をかいくぐりながら俺が向かうのは図書室である。
数学研究部の部長ということで毎日部室に通わされていた俺だが、昨日の勝負に勝ったことで部長の座を一時的に掛布さんに押し付けることに成功していた。
掛布零音。問題を作ってそれを出すことが好きらしい。数学研究部員である。
普通の部活は部長という役職を罰ゲームとして用いることはないだろうが、数学研究部はそこら辺は何でもありなのだ。何たって、数学さえしていればいい部活である。
もちろん、数学オリンピックで優秀な成績を収めようと特訓したり海外の論文を読み込んだりする数学研究部もある。
ただ、俺の通う高校の数学研究部は違うというだけだ。
というか、ガチガチに数学の高みを目指すような部活だったら一度でも俺が部長になることなどなかっただろう。入部さえしないだろう。
俺は特に数学が好きではない。別に嫌いでもないが。
他の数学研究部員にとって数学が友達であるならば、俺にとっては数学は毎朝同じバスに乗り合わせる会社員程度の親近感しかない。
俺が数学研究部に部長に選ばれたのは、部長という肩書きでもない限り俺は幽霊部員と化すであろうという、周りの推測によるものである。
事実、こうして部長の座から一時的に解放された今、俺は部室ではなく図書室に向かっているのだ。
掛布さんが部長(仮)なら、俺は幽霊部員(仮)というわけだ。
この一週間はたまに部室に顔を出すくらいにしよう、
さあ、一週間の幽霊部員(仮)生活を満喫しようではないか!
いつだったかの全校集会で校長先生がおっしゃったことだが、この高校は図書室に力を入れているらしい。
それを聞いて興味を持たない生徒がいるだろうか。(いや、いるけど。)これでも俺は中学生頃までは読書が趣味だったのだ。といっても月に一、二冊読む程度だったが。
しかし数学研究部の部長になってからは放課後の大部分の時間を数学に割いている。
そろそろ本が恋しくなる頃だ。
来週は宿泊研修があることだし、その移動時間に読む本を借りるという目的もある。
待てよ。今気付いたのだが、来週は三日間も部活がない日があるのか。すると部長を代わってもらう期間は四日に減るなあ。何か損をしたような。
ここは切実に聞いて欲しいところだが、何と数学研究部の活動日は週七日間全てなのである。
基本的に自由参加であるとうたっておきながら部長の毎日の活動は義務付けられている。(多数決によって決まった。これが多数者の専制というやつか。)
これは文部科学省の文化部活動における総合的なガイドラインに違反しているのではないか?
まあいつもそんなことを考えてながら歩いている。
そのまま気付いたら図書室の中にいて(一体考え事をしているときは、誰が俺の体を制御しているんだ?)本に没頭しているうちに閉館時間が差し迫っていることに気づき、適当に数冊借りたのちに怠惰に休日を過ごす……つもりだった。
ところが、だ。
俺は図書室の入り口の前に立っていた。
図書室の前はちょっとしたホールとなっていて、丸机と椅子が並んで読書や自習ができるようになっている。
飲食は禁止のようだ。
いや、それはどうでも良い。もっと重要なことがある。
俺を待つ五万冊の本。薄いガラス戸一枚を隔てて目の前にある。
閉まっていた。
ピッタリと閉ざされたガラス戸からは、薄暗い部屋の内部が見てとれた。当然、明かりが付いていないのだから誰もいない。
平日放課後のこの時間は開館の筈なんだが、どうやら図書室は開いていない。
しばし図書室の戸が開いていない理由を考察する。しかしどれも蓋然性に欠けると気づき、止めた。図書室自体は空いているんだな、と考えたが少しも面白くない。
どうしようか。家に帰っても特に何もすることはないのだ。
これは部室に行くしかないのではないか。
いや、それは認めたくない。
誤解がないように言っておくが、俺は数学研究部の活動が嫌なのではない。
部室で各々が数学をする部活と聞いたら無機的で面白味がないと思われるかもしれない。しかし、数学研究部員たちは(俺を除いて)例外なく変人であり(これは侮蔑ではない。褒め言葉のようなものだ)その各々の活動を見ているのは楽しい。
したがって部室へ行くこと自体に抵抗がある訳では無い。
強制されて部室へ行かざるを得ない状況に反発しているだけなのである。
レンツの法則というやつだ。
「やあ、部長。残念だったね。今日は開いていないんだ。」
無人の部屋の前で数分ほど考え込んでいた俺に話しかける者が一人。
彼女は、当然俺の知り合いである。そうでなければ薄暗い部屋の前に佇む男子高校生に誰が声を掛けるのか。
「鐵さん」
俺がそう呼ぶと、彼女はいつもこう返す。
「有紀と呼んでくれと言わなかったか?」
鐵有紀。数学研究部員である。
最初に名前を聞いたときは「クロガネ」という漢字が頭に浮かばなかった。彼女が生徒手帳を見せてくれてようやく分かったのだ。
「まあ、座ろうじゃないか。」
そう言って鐵有紀は席につき、片方の椅子を俺にすすめる。漆黒の長髪は銅線のように艶やかで、金属光沢すら感じさせるほどである。
無粋なことを言うが、もちろんそれの大部分はタンパク質である。
「図書室は先生がいる時しか開かないんだよ。担当の先生が忙しいときは閉まっているんだ。まあ大抵はいらっしゃるんだけどね。」
鐵有紀が席についた俺にその鋭利な眼差しを向けて話しかける。
「君は運が悪かった。」
「やっぱり今日は開いてないか。」
彼女は数学研究部員だが、図書委員でもあるのだ。
「なるほど。宿泊研修の待ち時間に読む本を借りにきたんだろう?」
「鐵さんも……有紀も。」
睨まれて言い直す。
「有紀も移動時間に読む本を借りにきたのか?」
「その通りだ、部長。いや今は部長じゃないのか。まあ、とりあえず部長と呼ぶことにしよう。」
この章の中では。
そう鐵有紀はつぶやいた。
「ん?何で知っている?」
「数列の問題を解いて賭けに勝ったんだろう?フレネから聞いたよ。」
フレネとは掛布零音の愛称である。鐵有紀しか使わない。二人はニックネームで呼び合う仲なのだ。
ニックネームの由来は言わなくても分かるだろう。
「私も参戦したかったよ。」
そういうの数学研究部員はみんな好きなんだな。
楽しそうじゃないか。
そうか?
「鐵さん……有紀ならどう答えた?」
「私なら安藤くんの一般項にcos2πnを掛ける。」
少し考える。nが整数のとき、cos2πnは1だ。
俺は昨日の一件で、三角関数やら漸化式やらド・モアブルの定理を掛布零音に教わったのである。したがって余弦関数の基本周期くらいは知っているのだ。ちなみに複素関数の説明を聞くのは丁重に断った。
「それはずるくないか?一般項はすでに解答されたものとは異なる方法で構成しなくてはいけないというルールだ。」
そう指摘しても鐵有紀は狼狽えない。
「それは知っているよ。場合分けをしてその式自体を証明すれば問題ないだろう?」
自分で導いた過程は除いて、その証明方法だけを伝えると。
「……なるほど。例え同じ式であっても証明が異なっていれば異なるアイデアではあるな。」
「それに君や砺波さんの式のnは整数でなくてはいけないが、安藤くんの式のnは実数全体を動くからね。この場合『cos2πn=1』という等式は必ずしも成り立たないだろう?だから完全に同じとは言えないのさ。」
「ん?何故整数じゃなくてはいけないんだ?」
「複素関数の話になるが――」
丁重にお断りした。
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