数学研究部と問題


「最高の暇つぶしを教えてあげよう。」


 鐵有紀が俺にそう言ったとき、彼女は平常よりも輝いて見えた。金属光沢ではない。高温発光だ。


 鐵有紀は数学研究部員である。そして図書委員でもある。


 それはともかく、折角放課後に空いた時間ができたから図書室に来たというのに、閉ざされた無人の図書室の前のホールで数学の話をすることになるとは……。


 こんなふうに表現すると大袈裟か。誤解を招かないように書いておくと、図書室はただ大人の事情で閉まっているだけである。


 金曜日の放課後だからだろうか。丸机と椅子が並んだ空間には俺と鐵さんしかいない。


 だから彼女の声はよく響いた。


 複素関数の話を断った俺は、そろそろ帰宅しようと思っていた。まだ出会って一、二週間も経っていない同級生の女子との会話は、俺には荷が重い。


「図書室が閉まっているなら仕方ない。部室にでも寄って帰るか。」


「まあ待てよ部長。」


 そう言って対面に座る彼女は微笑んだ。否、微笑とも冷笑とも違う。掛布さんのような満面の笑みでも無い。


 例えるなら、彼女のその表情は自由電子が飛び回っているようなものであった。


 まあともかく彼女はこう言ったのである。


「最高の暇つぶしを教えてあげよう。」


 最高の暇つぶしとは?

 

 俺は、空いた時間にするのに最適な、準備をせずに一人でもできる遊びを教えてくれるのだと解釈した。


「なんだ?それは。」


 聞く前から予想はついていた。なんたって目の前に座っているのは数学研究部員である。


「それは――」


「数学とかいうんじゃ無いよな。」


「数学だ。」


 鐵有紀は俺にセリフを遮られたことなど無かったように続けた。鋼鉄の意志を感じる。


「まあ聞け。数学は紙とペンさえあればできるんだよ。それすら必要がない人もいるが、まあそれは上級者だ。」


 そう言って彼女は俺の目の前に手帳を置いた。


 真ん中辺りで開かれたそれは制服のポケットに入るような大きさである。


 一行だけ。開かれたページには整った文字列が一行だけ書かれていた。




 2n+1,3n+1,6n+1の中でただ一つが素数であるという性質を満たす自然数nは無数に存在するか?


 針金のように鋭い筆致である。



「さあ部長。これが解けるかな?」


 そう言って彼女は今度こそ悪戯っぽく笑った。


 そんな鐵さんの顔を見てなんとなく、数学研究部員で眼鏡をかけているのは俺と砺波だけだな、と思う。

 

 ……また数学の問題か。それも昨日のような値を求める問題じゃない。


 無数に存在するか、否か。


 それを確固たる自信を持って判断するには、無数に存在する、もしくは有限であるということを厳密に証明しなくてはいけない。


 つまりこれは実質、証明問題なのだ。


「これを俺に解けと?」

「そうだ。」


 素数。


 これは小学校で習った。2以上の整数でその約数が1とそれ自身しか無いという性質を満たすものを示す。


 小学校で習う知識だが、正確に理解している人は少ないイメージがある。


 例えば2は素数だが1は素数でない。


 素数については安藤に俺が理解するまで聞かされたという苦々しい思い出がある。例えば素数に関連する種々の定理について。素数の無限性、フェルマーの小定理、ウィルソンの定理、素数の逆数和が発散すること、算術級数定理、双子素数、……。


 まあそれは置いておこう。


「この問題。もし無数に存在するなら、素数が無限に存在するという定理よりも強いことを主張しなくてはいけないな。」


 つまり、こういうことだ。


 もし無数に存在するなら、そのことから素数の無限性が導ける。つまり言い換えると、この性質を満たす自然数が無数に存在することを証明するのは、素数の無限性を証明することより難しいということだ。


 「例えばn=4,7,8,9のときはこの性質を満たすようだ。」


 俺は不承不承、鞄から出したノートに具体例を書き付けた。

 n=1; 3, 4, 7 2個

 n=2; 5, 7,13 3個

 n=3; 7,10,19 2個

 n=4; 9,13,25 1個

 n=5; 11,16,31 2個

 n=6; 13,19,37 3個

 n=7; 15,22,43 1個

 n=8; 17,25,49 1個

 n=9; 19,28,55 1個

 n=10; 21,31,61 2個


 1番右には素数である数の個数を書いた。


 そこで気づいたことがある。


「なあ、くろが――、有紀。」

「何だい?」


 どうやら機嫌がいいのか睨んではこない。


 数学好きは、鐵さんも御多分に洩れず、皆自分の作った問題に苦戦する人を見るのが楽しいのだ。きっと。


「この問題、『ただ一つだけ』のところは『全部』だったり『ただ一つを除いて全て』としても問題は成立するよな。」


 2n+1,3n+1,6n+1の全部が素数であるという性質を満たす自然数nは無数に存在するか?


 2n+1,3n+1,6n+1の中でただ一つを除いて全てが素数であるという性質を満たす自然数nは無数に存在するか?


 2n+1,3n+1,6n+1の全てが素数でないという性質を満たす自然数nは無数に存在するか?



 「しかしこの問題では『ただ一つ』となっているのはどうしてだ?」


 鐵有紀は肩をすくめる。


「出題者、つまり有紀の立場になって考えるとその答えは推測できる。」


 つまり、そのパターンが1番


「例えばその他の場合だと簡単すぎる、もしくは難しすぎるとか。」


 例えば、全てが素数になるというパターンはいかにも難しそうである。


 双子素数予想。


 n,n+2が両方素数となる自然数nは無数に存在する。


 この問題が未だ解けていないのに、2n+1,3n+1,6n+1が全て素数となる自然数nが無数に存在することが簡単に示せるとは思えない。


 二つの場合も同様である。


 逆に、全てが素数でないnが無数にあるという主張は示すのが簡単そうである。


 なんたって数ある整数の中でたった一つでも非自明な約数があったらそれは素数ではないのだから。



 それで、確信は持てないが『ただ一つ』の場合はきっと無数に存在するのだろうと思った。


 それはどうしてか?


 存在することを示すことは、存在しないことを示すよりずっと簡単そうだからである。勘だから根拠は弱い。


 ただ、門外漢による非直接的な議論はここまでで行き詰まる。確信が持てないのだ。


「これは俺に厳密な証明まで求めているのか?」

 

「当たり前だよ。二択で迷うくらいじゃ暇つぶしにはならないだろう?」


 そうだろうね。鐵有紀は俺に、この問題を宿泊研修中にも解けということを言っているのだ。


 確かにこの問題、そう簡単には解けないだろう。時間を消費する手段にはなるだろう。しかし、安藤や砺波ならまだしも、俺は一週間考えて解けるかも怪しい。


 さて、どうしたものか……。


 少し考えたが、何の進展も得られなかった。


 降参だ。

 

「これは俺に解ける難易度と思えないんだが……。」


 鐵有紀は何も答えなかった。


「俺には難しすぎる。」


 彼女は目を伏せている。


「私は……」


 彼女は手帳を閉じてセーラー服の胸ポケットにしまう。


「私は……。」


「どうした?」


「……いや、部長。解けないというのは言うべきじゃないよ。」


 少し震えた声で、それでもはっきりと彼女は話す。


「これは部長に向けていうことじゃないかもしれないが。そもそも、見ただけで解けてしまう問題なんて解く価値はあるかな?部長も今更、九九表の穴埋めなんてしないだろう?そういうのをわざわざ何度も解いているのは、自分がそれができているというのを確認して安心するためだ。そして、少し考えて解けてしまう問題。これはただ、自分の知っている解き方を当てはめたり、その時習った公式を思い出したりしているだけじゃないか?これは確かに演習という点では適しているかもしれない。けれども、何か面白いところはあるかな?本当に面白い問題というのは、片手間で解けるものじゃないんだ。自分がそのとき持っている知識を全てぶつけて、それでも太刀打ちできない。それだから楽しいんだ。いいかい?『楽しい』なんていうのは個人が感じるものであって、私がどうこう言うものじゃないけど、明らかに間違っていることはあるよ。例えば見ただけで、もしくは少し考えただけで難しいと気づいたら考えるのをやめてしまうこと。そりゃあ確かに、試験中ならいい。自分が解けるものだけ解けばいい。けど、いつも時間制限がある分けじゃないだろう?自分が解けないな、と思って諦めてしまうのは良くない。問題を解くっていうのはこと数学に限っては試行錯誤をすることさ。何も考えないで解けるなら、それは計算問題と同じなんだ。それのどこが楽しいんだい?いかにミスをしないか、いかに速く解けるか、公式を使いこなせるか。そういった範疇に属する。けど、本当に『数学の問題』を解くっていうのは違う。解く速さも、正確さも、公式を使った効率の良い解法で解くと言ったことも、全て意味はないのさ。そう、効率といえば、数学に限らず問題にはさまざまな解答が考えられるわけだ。私はね、解法に優劣は無いと思う。あらゆる解法には、例えそれが冗長だったり、とてつもなく複雑だったり、あっけないくらい簡単だったりしても、そこに至るまでの非自明な努力があって、その裏にはより深い構造が隠れているのだと思う。……脱線したね。そう。『本当の数学』なんていう言葉は不適切だったかもしれないね。別に高校で解くような数学の問題が偽物と言いたいわけじゃ無い。でも、学校での数学は、何でだろう?解法を知ってから、類似の問題を解くということをするだろう?受験にはともかく、数学の力を高めるという点では、それに何の意味があるのかと思ってしまうね。……まあ基礎を学ぶのは大切なことだ。色々な考え方、解法を知るのは良いことだ。だが、行き過ぎがあるように感じられる。クラスメイトたちが、数学の問題で『解き方がわからない』と言っているのを聞いたら、私は悲しくなるんだ。『解き方』ってなんだい?まるでそれは問題に決められた解き方があって、それを知らないから解けないというような言い草じゃないか。君は数学研究部員だろう?数学の問題に、『解けない』なんて言っちゃダメだ。少し考えて分からないなら、三十分考えるんだ。それでも分からなかったら、一週間考えて。分かるまで一年、五年と考えるんだよ。『一時間考えたけど解けない』なら分かるが、本当に『解けなかった』なんていうセリフは死んでから言おう。なんなら死んでからもその未練でこの世に残り続けるような、そういう感じだよ。別にここまで君に求めてるわけじゃ無い。ただ、私がそうありたいというだけで。けれども、言いたいことは分かるかな?だから、これは私からのお願いだ。解けるまで、考え続けてくれないか?私も、きっと数学も、途中で諦められてしまったら寂しいよ。嫌ならもう問題は出さないから、せめてこの問題だけでも考え続けてくれないか?私は部長に、数学の楽しさを知ってほしいと思っている。」


 しばらく、この場の空気の振動は殆ど0に近い状態まで抑えられていた。


 確かに、この世にはそうそう数学好きはいない。ここで言う数学好きは、側から見て特技・趣味共に数学であるような人を指す。


 自分が作った問題に応えてくれる人は彼女の側に今までいなかったのかもしれない。


 掛布零音が出した問題は数学研究部員に受け入れられた。俺も、部長の座を押し付けるために全力を出した。


 鐵有紀は参加出来ず残念そうであった。


 そんな彼女が出した問題を、数学研究部員である俺がすぐに諦めてしまったのは、彼女を傷つけた……だろうか?


「じゃあ私は帰るよ。」


そう言って彼女は立ち上がる。


「待て。有紀。」


 彼女はもう歩き出していた。


「明日までに解いてみせる。」


 それが彼女に聞こえたかどうかは分からない。


 

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