数学研究部と衝撃
鐵有紀がその場を立ち去って、暫く経った。
肺に入った数割の空気を吐き出す。きっとそれは生温い。
「明日までに解いてみせる。」
鐵有紀に聞こえたかどうかは分からないが、俺は確かにそう宣言した。
鐵有紀が出した問題。
2n+1,3n+1,6n+1の中でただ一つが素数であるという性質を満たす自然数nは無数に存在するか?
正直に言って、いくら時間を与えられても解ける自信は無かった。
証明問題は適当に答えを探せるものではない。
例えば方程式の解を求める問題なら、適当な整数を代入して解を探すことができる。つまり解の候補が多数存在する。勿論それらを全て確かめることはできないことが多く、大抵の場合は代入して確かめることだけでは解けないのである。
しかし証明問題においては、答えの候補を適当に定めてそれを確かめることはできない。少なくとも俺の経験ではそうだ。
つまり時間さえあれば解けるという問題ではないのである。
それに加え、明日までに解くと約束してしまった。
どうしようか……。
色々と考えたが、何をすればいいかすら分からないままだ。照明の方針すら立たない。
迷った俺は、とりあえず部室に行くことにした。
部室には少なくとも掛布さんがいるだろう。部長代行をしている筈だ。
砺波が部室にいないのも見たことがないから、きっと彼女もいる筈だ。安藤はどうだろう……。あいつは数学教師や先輩相手に語っている(勿論数学の話だ)こともあるから、部室にいる可能性は5割くらいだ。
安藤や砺波や掛布さんに会えば、何か閃くかもしれない。
ただ、鐵さんの問題については話す気は無かった。安藤ならすぐに解いて、答えを俺に言ってしまうかもしれないからである。
この問題は俺が自力で解くのだ。
図書室は三階。部室は二階にあるから、階段を24段降りなくてはいけない。
俺はいつもより重い気がする鞄を背負って、階段へ向かう。
そこで珍しい人物に出くわした。いや、その人物が珍しいのではなく、その人物がここにいるのが珍しいのだ。
彼女は階段を一歩一歩、確かめるように上っている。
「おお……、砺波か。」
砺波が階段を上り切り、3階の床を踏み締めたところだった。鞄は背負っていない。部室においてきたのだろうか。
「やあ」
俺が声をかけると、数学研究部:無口キャラ代表:である彼女はこくりと頷く。
そしてまた静寂が訪れる。普段なら静寂と調和は望むところだが、今日に限ってはもう沈黙はごめんだ。
砺波から話しかけてくることはほぼ無いから、こちらがこの沈黙を破るしか無い。
だが何を話そう。
砺波が階段を上っているのを見るのは、クラス全体が行動する時を除くとこれが初めてである。
砺波は誰よりも早く登校し、掃除当番等が無いときは誰よりも早く部室にいるのである。したがって、砺波が移動している場面を見るのは珍しいことだ。
「ちゃんと掛布さんは部長してたか?」
頷く砺波。
ちなみに「部長する」はサ変動詞である。
「図書室に行こうとしてるなら開いてないぞ。」
砺波が眼鏡越しでこちらをまじまじと見る。一体どう言う感情なのか。
「そう。」
沈黙が嫌なので、助言を頂くことにする。数学は彼女を饒舌にさせる効果があるのである。答えを聞くのではなく、ヒントをもらおう。
「ある性質を満たす自然数が無数にあることを証明するにはどうすればいい?」
今度は沈黙は起こらなかった。俺が聞いた中で1番長いセリフを彼女が言う。
「まずは、その性質を満たす自然数を完全に決定するという方法。一般項を見つけるなど。この場合、与えられた条件がより簡単なものに言い換えられることが多い。また、その性質より強い性質を満たす自然数が無数に存在することを示す場合もある。」
すらすらと話した後で砺波はこちらをじっと見る。
分かったと言うように俺が頷くと再開する。
「次に、その性質を満たさない自然数が有限個であることを示すという方法。例えばそのような自然数を全て求める。」
じっと見る。頷く。再開する。
「あとは、具体的な方法を上げると、その性質を満たす自然数の逆数和が発散することを示すというものがある。もしくはその変型として、その性質を満たさない自然数の逆数和が収束することを示すという方法も考えられる。」
「ありがとう。これで終わりか?」
砺波は声を出そうとして、しかし逡巡する。なぜか腕時計に目を落とす。
「少し待って。」
釣られて俺も時計を見る。午後五時十二分。
それから数十秒経っただろうか。ようやく砺波は口を開く。
「……最後は――」
その瞬間、砺波がびくりと体を震わせた。
今にも眼鏡が顔から落ちそうである。
シャットダウンされたように瞳の輝きが消える。
「どうし――」
少しのタイムラグがあって、おそらく同じ現象が俺にも起きる。
まず激しい衝撃が身体の芯を貫いて、そして意識の回路が一つずつ順番に焼き切れていく。
けれども段々と遅くなる思考の中で俺は考えていた。
砺波が言おうとしたこと。「……最後は――」の続きを。
砺波や俺がどうなっているのか心配ではあったが、それを今考えても意味がないことだと分かっていた。
砺波が言うのをためらった、四番目の方法はいったい何なのか?
脳裏に浮かぶ(といっても意識を失いつつある俺にはほぼ現実に感じられる)のは過去の会話だった。
――ある性質を満たす自然数が無数にあることを証明するにはどうすればいい?――
そもそも本当に、無数にあるというのは正しい答えなのだろうか。もし間違っていたとしたら、証明に向けての努力は全て無駄になってしまうのでは無いか?
けれども問題を解くためには、どちらかに決めて走り出さなくてはいけないのだ。
いや、それでも数学ならまだやり直すことが出来る。試験でも無い限り、考える時間はいくらでもあるからだ。でも、今は違うか……。
そうだ。俺は明日までに解けるだろうか……。
そもそもこれはどういう状況だろうか?
――この性質を満たす自然数が無数に存在することを証明するのは、素数の無限性を証明することより難しいということだ――
しかし、素数の無限性を示すのはさほど難しいことでは無い。また、その命題が数多の人の興味を惹く理由はその難しさなどでは無い……。
安藤からは素数が無限に存在するという命題の証明を何通りも聞かされた。それらの中には、驚くほど簡単なものがあったり、仰々しい道具を用いるものがあったりした。
そうだ。けれどもそれら全てに共通するものがあった……。
――例えば素数に関連する種々の定理について。素数の無限性、フェルマーの小定理、ウィルソンの定理、素数の逆数和が発散すること、算術級数定理、双子素数、……。――
安藤の話は段々と難しくなっていき、しまいには命題の主張を理解するのさえやっとという感じになった。
これは走馬灯か?
そもそも砺波や俺に何が起きた?
これは人為的なものなのか?
もしそうだとしたら一体誰がこんなことをした?
意味はないと分かっていても考えてしまう。
こんな走馬灯は嫌だ。数学の話題ばかりじゃないか。
そうか。
砺波が言おうとしていたことが分かった。
そして……そう。
全てが繋がった。
必要な道具は全て揃っていたことに俺は気付いた。
後は計算するだけだ……。
しかしその瞬間、保たれていた糸が切れて、意識のベクトルはただ一つの成分のみが残り、別次元の空間へと沈んでいった。
そうして、一度開かれた突破口は消失して、二度と思い出されることはなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます