数学研究部と窓
放課後、部室に向かって歩いていた俺は砺波に出くわす。
―――――――――――――――――――――――――
「ありがとう。これで終わりか?」
砺波は首を横に振る。四番目の方法があるらしい。しかし、何故かそれをすぐには言わないで、腕時計に目を落とす。
もしかしたら砺波は図書室に行こうとしていたのではなく、別の用事があって時間を気にしているのだろうか。だとしたら、申し訳ない。
ところが違うようである。
「少し待って。」
そう彼女はつぶやいた。
待って、ということは何かタイミング的に不都合なことがあるのか。
例えば今日のこの時間には、全校放送で校歌が爆音で流れるといったような。もしそうだとしたら、砺波の声は簡単にかき消されてしまうだろう。
でもそんな予定を俺は知らない。
それから数十秒経っただろうか。その間、何も起きなかったように思えた。
ようやく砺波は口を開く。
「……最後は――」
しかしその言葉は最後まで出力されず、意識が突然切れたかのように砺波は膝から崩れ落ちた。
強制シャットダウンだ。スタンガンを当てられたのだ、と言われればそう見えるくらい、それは急なことだった。
とっさに体を支えようとしたが、俺の神経の伝達速度はかなり遅く、砺波は床に膝をついてしまった。
目の焦点が定まらず、今にも眼鏡が顔から落ちそうである。
「どうして……。」
急に動いたからか、眩暈がして視界が暗転する。
俺は足に全ての意識を集中させることで何とか立っていられた。
すぐに視界を取り戻すが、その頃には砺波も体勢を立て直していた。
「大丈夫か?」
砺波はこくりと頷く。
そしてこちらをまじまじと見る。
それだけ言うと、いつもの砺波と何ら変わりない。
でも、砺波のいつもは理知的な光を灯すはずの瞳は、何かに戸惑っているように揺らいでいる。
例えるなら、定期考査の問題を解く過程で導いた三次方程式に有理数解が無く、カルダノの公式を使おうか考えているような様子である。
問題なく進めるのだが、この状況にはそぐわないといったイメージだ。
「大丈夫か?」
思わず同じことを聞いてしまった。
何だろうか、この状況は。客観的に見て全く違和感はないのだが、何か重要なことが起きている気がするのは何でだろう。
実のところ、この予感は全く正しいものであった。
そう。この瞬間から、もしくは俺が数学研究部に入部したときには既に、俺は平和な日常から遠ざかり始めていたのだ。
数学は自由で壮大で未知である。
ただ数学さえしていれば良い部活。
そこでの日常もまた自由で壮大で未知なのだった。
そして、今から話すことはその始まりと言っていい。実のところ、俺が知らない物語の裏では既に幾つかの補題が作られていて、これはそこから導き出された必然の結果なのであるが、今はそんなことは知る由もない。
そう、話を戻そう。
砺波はしばらく動かなかったが、ついに口を開いた。
「どうして――」
そう言いかけて初めて自分の眼鏡がずり落ちそうになっているのを気づいたようで、眼鏡のツルを持って掛け直す。
「どうしてあなたがここにいるの?」
何だって?
何だその哲学的な質問は?
「それは……図書室が閉まっていたから部室に向かう途中だが……?」
「そういう意味では無い。」
ではどういう意味か?
そう俺が聞く前に砺波はますます変なことを言い出した。
「ここはさっきまであなたがいた学校では無い。私はあなたがどうして階段を降りようとしていたのかを聞いているのでは無く、あなたがどうして
「ここ」という部分を強調する。
「どういうことだ?」
ここは先程までいた場所じゃないって?
そんなことはあり得ない。眩暈がした一瞬の間に、別の場所に移動していたなんて、全く面白くないジョークだ。
第一、ここは確かに先程までいた三階。階段の手前なのである。
「よく見て。」
そう砺波は言う。
しかし何を?
「周りを。違う点があるはず。」
どういうことだ?何が違う?
今の俺は、人生で最大の戸惑い具合である。
きっと砺波が「今日の私、いつもと違うところがあるんだけど、当ててみて?」と聞いてきたとしてもここまで困惑しないだろう。
「具体的に教えてくれないか?何が違うんだ?」
「……」
砺波は無言で床を指差す。
床を見るが、何が変わっているのか思い当たらない。
実は床下暖房が装備されているとか?それよりもまずクーラーを付けてくれ。
「すまん。分からない。」
「床に、傷が無い。」
「気づかない」?違う、傷が無い、だ。
これはやっぱり冗談なのか?
よく見ると確かに、床は不自然なくらい綺麗だ。建てられてかなりの年月が経つのだから、傷のひとつくらい付いていても良さそうであるが。
埃や汚れまでも無い。
今日の掃除当番がひときわ気合を入れたのであろうか?
「あとは、窓。」
そう言われ、俺は窓の方を何気なく見る。曇りガラスが嵌められた窓と、その上にもう一つ。
背伸びしてそれを覗き込んで、俺は絶句した。
階段の手前にいる俺にとって窓というのは、階段に向かって左側、入り組んだ校舎の一部や駐車場に並ぶ車を見渡せる位置にあるものを指す。
ところが、だ。
車が一台もない。いや、それどころじゃない。
窓から望む景色は灰色一色で、そこにあるはずの何もかもが消失していた。
街路樹や、塀、遠くに見える筈のビル、スーパーマーケット、電柱……。縁石や白線までもが無い。
不思議なことに、窓からの眺めを一部遮る筈の校舎でさえも、見えなかった。
あとは……何が無い?
そうか、雲だ。
空中に浮かぶ水滴までもが消えている。
おかしい。これは快晴に分類される天気のはずなのに、一筋の日光も見当たらない。
空には星も、月でさえ無い。
そもそも空とは何だ?
そう思えるほどに、地面から、遥か高くまでの空間は均質に灰色だった。
とにかく、俺と砺波がいる校舎以外の全てのものが無くなっている。
校舎でさえも完全には残っていない。窓から覗いた限りは、俺と砺波がいる三階部分を除いた、一切が消失している。
地平線は今まで俺が見た何よりも真っ直ぐだった。
地球は球じゃなかったっけ。
どこまでも平面だ。ここら一帯が全てアスファルトで舗装されたようである。
「どういうことだ?」
この疑問は砺波に向けたものではなかった。この状況のことを砺波が説明出来るとは思えない。
いや、違うか。
俺に指摘したということは、砺波もこの窓の外の異常事態に気づいていたということだ。
しかし、それにしては狼狽えている様子がなかった。
まあ砺波も内心は驚いていたのかもしれない。
彼女の表情は天然のポーカーフェイスみたいなものだから、そこから何かを推察するのは難しいのである。
どうしてあなたがここにいるの?
この質問がそもそもおかしい。
自分がこの謎空間にいることに対して、疑問に思っていないということか?
そうだ。どうして砺波は窓の外の異常事態に気づけたんだ?
砺波の身長は、俺よりも頭ひとつ分は低いのである。その俺でも覗き込むのに少し苦労したくらいの位置にある窓だ。砺波が窓の外を目にしたとしたら、それは砺波が意図的に覗き込んだということを意味している。
もしくは、窓の外がこのように変質していることを覗き込むまでも無く知っていたのかもしれない。
それはさておき、砺波はさっきの俺の独り言を自分への質問と受け取ったらしい。
「この空間は単純化されている。」
そう彼女はつぶやいた。
「単純化?」
まあ単純になったと言われればそう思えてくる。
「問題を考える上で不必要なものは、ここでは全て省略される。」
「問題って?」
問題といえばこれだ。
2n+1,3n+1,6n+1の中でただ一つが素数であるという性質を満たす自然数nは無数に存在するか?
しかしこれのことではないだろう。
この問題を砺波は知らない筈である。
何を言っても俺が質問しか返さないことから、詳細な説明が必要だと察したのだろう。砺波はこの状況に対する説明を語り始めた。
「決して数学の証明のように正しい説明はできないけど、それでも聞いてほしい……」
――
――――
集中していると、あっという間に時間が経ってしまうことはない?
もしくは、何時間にも思える数秒を過ごしたことは?
私はよくある。
数学に夢中になって、定理に魅せられて、問題に没頭する。
そんなときは、周りの状況が全く気にならなくなる。空腹も眠気も、暑さも寒さも、騒音も静寂も、全ては私に干渉出来なくなる。時間の経過でさえも。
干渉できないなら無いものとみなしても問題ない。
余計なものが何も無い世界。
そこで数学だけしていたい。
気づいたら、それは現実になっていた。
タイミングはランダム。
集中して数学の問題を解いているとき、周りの環境が消失していることに気が付いた。無いものと見做せるのではなく、本当に無い。
まさに今がそう。
誰もいない。
何も無い。
机と椅子と、ノートとペン。そして黒板とチョークを除いて。
数学だけできる空間。
最初は夢だと思った。
私はよく、数学をする夢を見るから。
だけど、現実……私が今まで現実と見做していた空間に戻ってきたとき、殆ど時間は経っていなかった。
夢の中で見つけた解法は、はっきりと覚えているのに。
そう、もしかしたら私は、私の意識は、無限に細い思考の間隙の中に落ち込んでいたのかもしれない。
私は数学が好き。
もし狭い部屋に閉じ込められても、ノートとペンさえあれば何日でも、何週間でも気が狂わないと思う。
それは、数学に没頭できるから。
数学をしている間なら私の精神はどこにも縛られない。
どこまでも自由で魅力的な場所にいるから。
それが、ここ。
――
「つまり、砺波の意識は、数学に没頭しているとき別の世界に移動しているということか?」
「そう。私は、私に限らず大抵の人に、自覚できないだけで同じようなことが起きていると思っている。集中している間も、集中が切れた後も、気付くことはないだけで。」
「夢みたいなものか。」
客観的にみて長さ0の夢。普通の人は起きたら忘れてしまう。夢を見ていたことさえ気付かない。他者は夢をみていたかどうか判断できない。
砺波はその記憶を覚えていられる。
「そう。ここに来る前、つまりあなたと話している間、私はずっとある問題を考えていた。掛布零音にあなたをよんでくるように言われて――」
「ちょっと待った。砺波が言うように、ここが集中した砺波の意識の間隙であるなら、一体どうして俺の意識はここにあるんだ?」
「分からない。だからあなたに聞いた。」
――どうしてあなたがここにいるの?
そうだ。
俺は問題を解こうとしていた。
それが原因で、ここへ来てしまったのではないか?
いや、反証ができない仮説に価値は無い。
俺は現実を受け入れることにした。
しかし、現実とは何だ?
俺は再び窓の外を覗く。
やっぱりそこには完璧な平面が広がっていた。
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