数学研究部とその部員1名

 

 数学研究部には5人の部員が所属している。部室は職員室の隣にあり、普通教室よりも狭い。何せ引き戸がたった一つしかない。


 狭いことに不平を言っているのではない。数学研究部は黒板とそれぞれの席さえあれば活動できるのだから、部室は部員が入れる大きさなら十分だ。


 教室の壁には本棚が2つ並んでいる。歴代の部費で購入したのだろうか、ぎっしりと数学の本が並んでいた。古い教科書なども置いてあって、それは俺が予習に使うことになっている。昨日そう決まったばかりだ。


 何と俺以外の部員は皆、高校数学の予習を終わらせているというのだから驚くばかりだ。高校一年はまだ始まったばかりなのに。


 反対側の壁には黒板があって、それは主に安藤が使っている。


 安藤というのは数学研究部の副部長であり、俺の旧友である。彼はどうやら数学の証明を他者に伝えることが何にも勝るくらい楽しいらしい。


 しかし彼がその楽しさを知ったということは間違いなく、その楽しさを知る前から他人に説明できるほど数学に精通していたということであり、一体彼がどのようにして数学に触れることとなったのかは依然として謎である。


 彼は数学以外のことは何も話さないのだ。安藤の今までの発言から数学関連のものを全て除いたら、おそらく彼は生まれてから一度も発声していないことになるのではないか。小学生の時の自由研究発表の場で、2元2次不定方程式の整数解についての研究を堂々と語り出したやつであるが、そんな発表の機会がない限り同級生らは安藤の声を聞くことができるだろうか?


 数学の魅力を聞いたら答えてくれるが、数学が好きである理由については答えてくれない。一体どういう線引きをしているのだか。


 とにかく俺が安藤の口から、彼が数学好きとなった所以を聞かされることは一生無いと考えてよい。


 小学生の頃から安藤の話を聞いてきたおかげで、俺は高校の数学の内容をある程度は知っていたりするが、その内容はかなり偏っている。加えて登下校の最中に、半ば聞き流していた内容である。身についたとは言いがたい。


 というわけで前述の通り俺は高校数学の予習に臨んだ。安藤に言われて半ば強制という形を取ってはいるが、この2時間以上もある部活の時間を過ごすにはちょうどよいと思い始めていた。一方的な安藤の数学講義をずっと聞かされるよりは自分のペースで進められる分マシである。


 安藤は暇な時間を全て数学の知識を蓄えるために使っているのだろう。彼の講義のネタは日毎増えていくのだ。


 数学研究部に入部してからはさらに勢いがつき、安藤はとうとう大学数学について語り出し始めた。


 俺がそれに一週間付き合わされたのはご存じだろう。


 さて安藤は、俺がしばらく予習をするということで暇なのだろう。昨日の定理の証明を色々いじるのだと言ってノートに向かっている。


 部室の中はたいそう静かである。


 講義をしないとき、つまり平常時には安藤は静かな人間なのだ。なぜか数学の話をする時に限って威勢が良くなる。


 俺は集合について予習していたが、新出の用語が多くてなかなか頭に入らない。


 教科書によると集合とは範囲がはっきりとしたものの集まりらしい。しかし範囲とは、はっきりしているとは何か?そこに属する要素を全て把握できるということだろうか。曖昧である。


 集合は要素を書き並べることで表せるが、例えば{1}と{1,1}は同じ集合なのか?それとも別の集合なのか?この書き方自体が間違っているのか?


 いやそうか。集合があってそれを{}を使って表すわけで、同じものを書き並べて集合とすることはいけない?


 集合の全ての要素を{}の中に書き並べて集合を表すことはできるが、その逆は成り立たないということか?何かものを{}の中に書き並べてもそれは集合たり得ないことがある?


 二つの集合から和集合が作れるが、この和集合は「範囲がはっきりした」と言えるのか?


 そもそも教科書に登場する集合は要素が全て整数や実数なのだが、集合の要素は三角形や関数ではいけないのか?


 {1,{1},{{1}}}は集合なのか?



 しょうもない疑問が浮かぶたびに手が止まる。


 それに、「含む」だとか「含まれる」、「属する」などの述語が厄介である。含まれると属するは違うのか?


 まあでも、数学用語は安直な付け方のものが多く覚えやすい方である。いや安直というのは訂正する。きっと歴代の数学者たちが、その概念を的確に表現する名前を付けて、或いはそれをまた日本の数学者が考え抜いて日本語に訳したものなのだから。


 それよりも(すなわち数学用語よりも)固有名詞の方が覚えるのが難しい。特に人名である。


 俺は人の名前を覚えることが苦手だ。あまりに苦手なので嫌いでもある。


 どうして苦手なのかというと、覚える必要がないと思っているからである。家族、友人、教師などはまだしも、ほとんど話さない同級生や、一生出会わないだろう歴史上の人物などの名前を覚えようとは思えないのだ。


 いやしかし、覚えようと思っても覚えられないこともあるから原因はもっと他のところにあるのだろうか?



 そうだ。きっと名前など覚える必要ないというスタンスで幼少期を過ごしていたせいで、名前を覚える能力がすっかり衰えてしまったのだろう。


 そう思うことにした。


 何を隠そう。入学して一週間ほど経ったが、名前を覚えている同級生は自分のクラスの中に2人しかいない。


 もともと俺があまり会話に積極的でないからだろうか。会話したことがあるクラスメイトもその2人だけだ。どうも俺には口に出す前にあれこれと頭の中で考えてしまう癖があっていけない。


 その2人というのは、1人は安藤であり、もう1人は……。


 俺は部室の長机の、本棚に1番近い位置に座っている女子生徒の方を見る。


 短い髪と、ごくたまに眼鏡の奥からこちらに見せる理知的な瞳の輝きが特徴的である。


 彼女は確か砺波という名字だ。残念ながらフルネームまではまだ覚えていない。


 砺波は、高木貞治著:初等整数論講義(第2版)を読んでいる最中だ。


 俺には数学書を読むことが小説を読むことより楽しいとは思えないが、彼女はこの一週間ほどずっと部室で数学の書籍を熟読しており、どうやら砺波にとって数学書を読む時間は、安藤にとっての数学講義の時間ように至福のもののようである。


 奇しくも我が一年四組には数学研究部員が3人いるのである。


 少し入学式の直前、ホームルーム時の自己紹介を振り返ってみるとしよう。


 まず担任の先生――そうか名前を覚えなくては……――が、「では安藤くんから(安藤は出席番号が1番なのだ)自己紹介をお願いします。1人1分は喋ってくださいね。(これを聞いた時に思ったことはひとつだ。すなわち、『40分も興味がない他人の情報を聞かされるのか……。』)」などといった内容のことを言ったら、安藤はつかつかと教卓の前まで歩いていき、こう告げた。



「正多面体は5つしかない。これを証明せよ。」


 あっという間のことで、タイマーが10秒もカウントしないうちに安藤は席についた。


 まあ九年間も安藤に付き合わされている身からしたらこれくらいはなんてことないが、同級生たちや先生にとってはあまりに異質な自己紹介(?)だったようだ。異質さを忘れ去ろうとするようなしばらくの静寂の後、何事もなかったように自己紹介のリレーは再開した。


 賢明なことだ。もしここで先生が安藤に自己紹介をせがんだとしても安藤が答える筈は無いし、下手をすると安藤が長々と問題の解説を始めるだろう。


 現にあとで、俺が安藤に「さっきの自己紹介はどういうことだ。」と尋ねたら、返ってきた答えは「ん?……ああ、正多面体とは全ての面が合同な正多角形であり、一つの頂点に集まる辺の数が全て等しい多面体のことだ。」であった。


 そんなこと分かってる。……いや違う。そんなことは聞いてない!


 

 一体安藤がどういった意図でこのような自己紹介(?)をしたのか、俺は安藤ではないので分からないが、もしかしたら安藤はこの退屈な40分間の暇つぶしとして問題を提供したのかもしれない。


 それはともかく俺の自己紹介はつつがなく行われ、見事俺の第一印象は誰の記憶にも留まらない地味なものとなることに成功した。


 ここには省略する。


 さて、砺波の席は俺の隣である。初めて俺が教室に入ったとき砺波はすでに自分の席に座っており、何やら表紙が赤い本を読んでいたのだが、今思えばあれも数学書だったのだ。


 自分の番が来ると砺波はすくと立ち上がり、てくてくと教卓の前まで歩いて行き、こう告げた。


「砺波――。好きなものは……数学。」


 (名前は忘れたため省略。)


 1分以内というルールは何処へ行ったのだろうか?


 自己紹介を終えて、やっぱり10秒もカウントされないうちに隣へ戻った砺波にそう言ってやりたくなった。


 とはいえ初対面なので遠慮する。

 

 その他2人の数研部員は他のクラスに所属している。まだ名前は覚えていないためにここで紹介はしない。


 望まずして数学研究部の部長をやっている俺だが、いま最も困難なことは、自分が数学に興味を持つことではなく、部員の名前を覚えることであると言ってよい。


 他人からすれば心底どうでもいいとは思うが、俺にとっては切実な問題である。


 

 

 

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