数学研究部の日常
真性特異点
数学研究部とその部長、副部長
こんにちは。俺は数学研究部の部長をしている者だ。
部活勧誘をしよう。
といっても興味がある人だけ聞いてくれればよい。
数学研究部とは数学さえしていればよいというこの上なく楽な部活である。
もし君が数学研究部に入りたいなら、ぜひ二階にある部室に来て欲しい。職員室の隣にあるといえば迷うこともない筈だ。そこで俺に入部届を渡してくれれば君は数研部員となれる。記憶から色褪せないだろう経験が君を待っているだろう。
部長の座を賭けてもいい。
繰り返そう。もし君が数学研究部に入りたいなら、入部することで何にも勝る素晴らしい体験が出来ることを保証しよう。
どうしてそう自信があるのかって?
数多ある部活の中で、数学研究部なんていう極めて特殊でマイナーな部活に好んで入りたいと思う物好きな高校生がこの高校に5人以上いるはずがないからだ。
数学研究部の(
ということはつまり、「もし君が数学研究部に興味があるなら」という仮定が誤りであることに他ならない。
仮定が間違っているなら結論が何であろうとその命題は真なのだ!
……説明させてくれ。
今までのは全て俺の独り言である。確かに俺は数学研究部の部長だが、この時期はまだ部活勧誘をする必要は無い。何故ならば部活勧誘、そして部活動一斉入部は、つい一週間前に終わっているからだ。ついでに言うと俺を含め全5人の数学研究部員が一週間前に入部した新入部員なのである。
したがって全く意味のない語りかけである。意味のない語りをすることは俺の現実逃避の手段なのだ。
何故数学研究部に先輩がいないのか、そして何故俺が部長になったのかという他人からしてみれば極めてどうでもいいことは今は置いておこう。
それよりも気になるのは、何故俺が一人語りを始めたのかと言うことだろう。
ん?こちらに話しかけておきながら今までのは独り言だと言うのはおかしいって?
はじめに、興味のある人だけ聞いてくれればよいと言った筈だ。つまり俺は、俺の話に興味がある人などいないとみなしているのである。いや、そもそも今まで全ての文章は俺が心の中で語ったものであるから、聞いている人がいないのは当然。独り言というよりは独白というのが正しいのだろうか。
そもそも他者とコミュニケーションを行うか、何か作業をするか、それともひたすらボーッとしているのでない限り、人は心の中でどうでもいいことを語っているのだ。今まで俺が内容のない独白を続けてきたということはすなわち、俺がとてつもなく退屈であるということ以外何も示していないのである。
では何故俺が退屈であるかというと、これまた何者の興味も引かない話題かもしれないが、それはつまり今のあなたと全く同じ状況である。
つまらない話を聞かされているという点だ。
現実では俺は部室の椅子に腰掛けて、黒板を使いながら意気揚々と語り続ける同級生と向かい合っていた。
「……というわけでfはこの閉円盤に不動点aを持つ。これはf(a)=aつまりP(a)=0を意味する。したがって複素数を係数に持つ代数方程式は必ず複素数の根を持つというわけだ……。不動点定理の応用性の深さがよく分かる。どうだ、素晴らしい証明だろう?」
俺は数学の話を延々と聞かされていた。
大変つまらない。
語弊があるかもしれない。俺は別に話の内容が数学だからつまらないと言っている訳ではない。その内容が俺の理解できる範囲から大きく逸脱しているためつまらないと言っているのだ。
それはともかく、少し懸念すべきことがある。
最後の数秒だけ抜き出してもその壮絶な退屈さは理解できないかもしれないということだ。
できることなら一週間にわたって俺が聞かされてきた計5時間ほどの話を全文抜粋して、その退屈さを実感して欲しいが――この文章の書き手であるという特権は聞き流していたセリフを一言一句挿入することを可能にする。
考えてみて欲しい。物語の語り手が他の登場人物との会話を正確に認識かつ記憶することが可能だろうか?
不可能である。それでも文章中では主人公が体験したことが(特に会話文が)正確に描写される。もちろん物語というのは大半が主人公が自分に起きた出来事を書き留める形をとっていないのだが、そういった形式の文章でさえ場面描写は正確に行われることが多い。
そういった会話文の正確性から主人公が(というより作者が)自分(または作中人物)の周りで起きたことを詳細に描写できる能力を有していると考えるほかない。
俺は特段文章に詳しいわけではないので以上のことは今でっち上げた駄文に過ぎないのだが――
とにかく、この文章に5時間分の数学的かつ一方的な講義の内容を全て掲載することはないから安心して欲しい。といっても何度も繰り返すようだが、興味がない人は聞かなくていいのだ……。
黒板一面にグラフや数式を書き付け、ブラウアーの不動点定理を用いた代数学の基本定理の証明を朗々と解説していたのは安藤である。俺の旧友であり、つい最近数学研究部の副部長となった。
「おい部長、感想を聞いているんだが?」
この一週間ですっかり短くなったチョークを右手に、安藤がこちらを鋭く見つめている。
物思いにふけっていたせいで安藤の講義が終わったことに気付かなかったようだ。
なに?感想だって?
「いや、感想なんてあるか。」
「?」
どういうことだ、という表情である。つまり視線がもっと鋭くなる。
「どういうことだ?」
「つまりだな、俺はまだ高校に入学したばかりなんだ。」
「ああ。」
それがどうしたんだ、という表情。
「いいか?そんな俺が、位相空間や連続写像、閉区間、道、ホモトピー、同値類、集合、基本群、群同型、積分、距離関数、射影、ワイエルシュトラスの近似定理、単射、全射、レトラクト、n次元ユークリッド空間、複素数、三角不等式、二項定理……こんな用語が頻発する証明が分かる筈がないだろう!」
普通分からないよな?それとも高校一年生ならこれくらい分かって当然なのか?
なにしろ安藤の難解な講義を聞いていても他の4人の部員は平然としているのである。一瞬自分の数学的能力が平均より並はずれて低いのではないのかと疑ってしまう。いや、確かにこの部室内で考えると低いことは確かなのだが、それは俺以外の部員が平均を大きく超えているからに他ならないのだ。
そんな俺が安藤の難解な抗議について感想があるとしても、それは「つまらなかった(理解不能のため)」くらいのものである。どう考えても俺には一朝一夕に理解できるようなものではないし、そこまで理解したいものでもない。正直に言おう。全く興味がない。しかしいくら旧友であってもそれを言うのは気が引ける。
ここは俺がこういった難解な数学の話に興味がないことを安藤に察してもらいたいものだ。
「単語が難しくてな……」
「???全部説明したじゃないか。」
安藤よ。数学とは論理であり、記号の奔流にひとたび流されてしまえば理解するのは不可能なのだ。所詮俺には難しすぎたというわけさ。
それを聞いた安藤は目線を上に逸らして考え込む。
「分かったぞ。」
「おお、分かってくれたか。」
「つまりだな……」
安藤はさっきの厳しい目線から一転して、輝くような目をこちらに向ける。
「もっと詳しく説明して欲しいということだな!」
「勘弁してくれ」
結局、俺は数学の予習を進めることになった。
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