花の名前
丸毛鈴
花の名前
グリップが、手に食い込む。歯を食いしばって車椅子を押すたび、私の唇から白い息が立ち昇る。
「オトン、あと、ちょっとやから。きっと、梅、咲いとる、よ」
ホスピスの裏山の梅林で、蕾がほころびかけているのを見つけたのは四日前。そろそろひとつぐらいは咲いているはず。そう信じて、坂を登る。気になるのは、開花に響くであろう寒波がやってきていることだ。でも、父の容体が落ち着いている日など、この先あるかどうか。無理筋なこの外出が許されたのも、つまりはそういうことだ。
花の好きな、父だった。なかでも冬枯れの中、いち早く花を咲かせる梅は、父にとって特別だった。記憶の中で、父が自慢の一眼レフを構えながら言う。
「昔、山歩いとってな、ええにおいがして、顔上げたら梅やった。草とか全部枯れとるのに、白くてほんまにきれいでな。悲しいことぜんぶ忘れてしもて」
シャッターを切りながら、父は続ける。
「あんたが生まれた日も、梅が咲いとったら、名前、梅にしたかったんやけど」
「ダサ。はよ生まれてよかったわ」
そして、父は毎年の決まり文句を言うのだ。
「あと何回、梅、見られるんやろうなあ」
五日前。「父はあとどれぐらい」と問うと、回診の医師は「あと一、二週間」と言いかけて、言い直した。「梅の季節までは、ひょっとしたら」。
「着いたで」
坂道を囲んでいた雑木林が尽き、開けた視界に入るのは、裸の枝と枯草ばかり。希望の蕾も、四日前と変わらなかった。視界がゆがむ。
「中まで行ったら、ひとつぐらい!」
梅林の中まで車椅子は入れそうにない。私は焦りのままに父の体を強引に背負った。成人するよりずっと前から、父の体に触れたことなんてなかったのに。
「絶対」
さっき坂道に悲鳴をあげた太ももが重い。そんなことより、梅を。
「咲いとるから」
まだ固い蕾ばかりが目に入る。あと三日もあれば。
「なんで……」
私は、父に梅を見せたかったんじゃない。一緒に、梅が見たかった。それを自覚したら、もう力が入らなかった。父の重みと熱を背中に感じたままへたりこみ、枯草に私の涙が、鼻水が垂れた。
我に返ったのは、背中を弱々しく叩かれたからだった。肩越しに振り返ると、父が震える手で空をさした。ひらりと舞い落ちたものが、父がはめた手袋の上に落ちる。結晶が目視できるほどの、大きな雪片。
「りっ、か」
骨と皮ばかりになった頬をゆっくりと上げて、父は笑った。梅を待つことなく生まれた、私の名前。空から降る、六つの花弁をもつ冬の花。
「
その花の名を呼びながら父が笑い、私の涙に、雪片が溶けた。
花の名前 丸毛鈴 @suzu_maruke
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