東京。ビルに天女に紫煙を
ちくわノート
第1話
「おおい、陽平。天女がおるぞ。今夜の晩飯にするか」
キヨ爺がそう言うので、俺はのそりのそりと移動して窓の奥に目を凝らす。空に何かを求めるように突き出している東京の雑多なビルヂングの中央に、神々しく輝く美しい天女が無駄にひらひらとした服をたなびかせながらふわふわと空を舞っていた。窓を開け、体を乗り出して猟銃を天女に向ける。
「だめだ。遠すぎる」
首を振ってそう言うと「おめえの腕が悪いだけじゃ」とキヨ爺は俺の手から猟銃を引ったくって天女に向けて発砲した。パアンと乾いた音がして弾は空に吸い込まれ、天女は音に気付いたのか、すうとはるか上空に昇っていってしまった。
隣のビルから巨大な顔が浮かび上がり「うるせえぞ」と文句を垂れる。
「ほら、当たんねえじゃねーか」
俺がそう言うと、キヨ爺は憮然として猟銃を投げ返し「手入れしとけッ」と宣った。果たして手入れだけの問題かなあ等と老人をいじめるようなことは言わず、俺は黙って弾を込める。
エンヤエンヤと声がしてそちらを向くと、どうやらビルの屋上で祭りをやっているようで大勢の人が屋上から溢れるんじゃないかというくらい群がり、豪奢な山車が見え隠れする。そのビルは今俺たちがいるビルの真向かいにあたり、こちらは三十六階建てなのに対して向こうは四十三階建てだった。なんだか見下されているみたいで気分が悪かった。
銃口をそのビルの屋上に向ける。
「バン!」
そう言った途端、屋上から人が一人落ちた。祭りの参加者たちは人が落ちたことなぞ気にもとめずにエンヤエンヤ騒ぎ続ける。
「なんや。撃ったんか」
「撃たねえよ。弾が勿体無い。人の波に押されて勝手に落ちていったんだ」
ほうか、とキヨ爺は煙草に火をつける。電子煙草が主流となっているのに未だに昔ながらの紙煙草を吸うキヨ爺はその煙草を一箱買うのに毎回二万八千円払っている。そんなに高価なものにも関わらず、キヨ爺はすぱすぱとティッシュを消費するみたいに吸ってしまって、地面に吸い殻の山を生成する。電子煙草なら二十五円で買えるからそれを吸ったらいいと何度も勧めるがそんなハイカラなもん吸ったら体が悪くなると言って断固として紙煙草を譲らない。
「そういやサイトウさん、死んだってね」
「サイトウ……?」
「ほら、渋谷区にいたろ。パチンコ屋で毎日セクシーな女を募集してた」
「ああ、あいつか。どげんした?」
「聞いた話だと東京タワーから飛び降りたらしい。最近、例の位置エネルギー教に嵌まり込んでいたもんな」
「ほうか。あいつの金庫はどうした。もう中身は取ってきたんか」
「まだ。金庫の番号わからんし、無駄にデカくて重くて持ち出すのも面倒。まあサイトウさんのことだから中に碌なもん入ってないでしょ」
「馬鹿たれ。きちんと回収せんか。碌なもんが入ってなくてもチリツモじゃ。チリツモ」
「チリツモ?」
ほれ、さっさと行けいと背中を杖で殴られる。俺は渋々立ち上がって猟銃をキヨ爺に手渡した。俺がビルを立ち去る前にキヨ爺は再び天女じゃあと叫んで発砲した。
サイトウさんに出会ったのは二年前の事だった。
俺は足を怪我したキヨ爺の代わりに闇市まで煙草を買いに出かけていて(当時の紙煙草の価格は現在よりも安く、一万六千円程で買うことができた)、その帰り道、渋谷の寂れたラヂオ店の前を通ったときに「今のコッカは腐っている! 目を覚ますのだ。我らで真のコッカを取り戻そうではないか。今のハシモトシタ首相はただの飾りだ! 俺を首相にしろ!」と聞き取りやすいとはとても言い難いしゃがれた声で演説をする萎んだじじいを見つけた。
俺はその時、じじいが何を言っているのかを理解できなくて、コッカコッカとじじいの言っていた単語を口の中でもごもごと咀嚼した後、ようやく言葉の音と意味がつながった。そうか。国家か。国の家って書いて国家。しかし今時国家について演説をするか? 普通。国家が力を持たなくなり、国会議事堂が隠居じじいのリッチな老人ホームと化したのはもう何年も前だと言うのに。
あの演説じじいもボケちまってるんじゃねぇかな、と思っているとそのじじいと目が合った。
しまった。絡まれたら面倒くさいぞ。
早足でじじいの前を通り過ぎようとすると案の定、話しかけられた。想像外の角度から。
「お前、セクシーな女知ってるか」
てっきり演説の内容から国家がどうたらこうたら頼んでもないのにぺちゃぺちゃとまくし立てられると思っていたものだから反応するのに時間がかかった。固まった俺を見て阿呆だと思ったのか、じじいは地面に唾を吐き、「セクシーな女だよ。セクシーな女。聞こえねーのか。耳が悪ぃのか、口が悪ぃのか、頭が悪ぃのか」と続ける。
「セクシーな女? 何を言ってんだあんた」
ようやくそう反応すると、じじいははぁー? と無駄にでかい声を出す。その声の大きさやら声のトーンやらその時のじじいの顔やら全てが不快なレベルでさっさと無視をして逃げてしまえばよかったと後悔が生まれた。
「セクスィーな女も知らねーのか。お前男だろ? 頭おかしいのか? インポテンツなのか?」
しわくちゃの手でぎゅっと玉を握られ、俺は飛び退く。じじいに触られて嬉しいはずがない。
「セクシーな女という言葉の意味は知ってる。唐突にセクシーな女を知っているか、と訊かれたら誰だって戸惑うだろ。あんたはなんだ。ある特定のセクシーな女を探しているのか。それとも売春斡旋してるのか。ただ道行く人にセクシーな女のことを知っているかどうかアンケートを取っているだけなのかさっきの質問だけだとわかんねぇだろ。意図を教えろよ。その質問の」
「探してるんだよ。セクシーな女を」
「なぜ」
「平和の象徴だからだ」
「平和ァ?」
「そう。平和だ。鳩なんかが平和の象徴なはずあるか。セクシーな女なんだよ。セクシーな女さえいれば全ての争いはなくなる。世界は平和になる」
なかなかぶっ飛んでいる。
「一人のセクシーな女をめぐって争いが生まれそうだけどな」
「阿呆か。お前は。五人のガキに飴玉四個しか渡さなかったら争いになるのは生まれたての赤ん坊でもわかる。セクシーな女を人数分用意するんだよ。多すぎても少なすぎても駄目だ。きっちり人数分。一人につき一人だ」
「へぇ。それで平和のためにセクシーな女を集めてるってわけだ。でも仮にじいさんの理論が正しいとして男はそれで平和になるかもしれないけど、女たちはどうするんだ。セクシーな女をあてがっても効果は薄いように思えるけど」
「女のことなんて知るか。俺は男だ」
なかなか、どころではない。相当ぶっ飛んでいる。
これ以上関わっても無駄だと思い、セクシーな女なんて知らない、あんたの活動の成功を祈ってると適当くっちゃべって立ち去ろうとすると、腕をむんずと掴まれた。思ったより力が強かった。
「平和を望んでいるんだ」
じじいは言った。その言葉は子どもが言っているみたいに青臭くて、それでいて妙に真剣味があった。俺はその手を振りほどいて、足早に住処の廃ビルに戻った。
その頭のおかしいじじいの話をキヨ爺にすると「サイトウさんか」と言う。
「知ってんの」
「渋谷でわけわからんこと演説してるじいさんだろ。煙草買った帰りにいつも通るからな」
ふうん、と俺は煙草と一緒に買った牛乳とみかんの缶詰、レーズンパンを袋から取り出す。
「仲良くしとけよ。ああいうじいさんはすぐくたばるからな。仲良くして恩を売ってじいさんがくたばった後で貰えるもん全部貰っとけ」
へぇーい。生返事。
それからキヨ爺の足の怪我は良くなるどころかむしろ悪くなり、自分で煙草を買いに行くことは叶わなくなった。俺はキヨ爺の代わりに煙草を買いに行き、キヨ爺の言いつけ通り、サイトウさんによォ、元気ィ? と会う度に声をかけた。
サイトウさんは最初の数回は俺を認識していなかったが、声をかけるうちに俺の顔を覚えたようだった。声をかける前に俺の姿を認めてオゥと手を上げ、俺がぶらぶら揺らしながら運んでいたくたれたビニール袋の中にある買ったばかりの煙草をせびるようになった。
サイトウさんが話すことの九割はまるでドブネズミに脳みその殆どを食われちまったかのように支離滅裂で意味をなさないことだったが、ごく稀にまともに会話をすることが出来て、そこでサイトウさんが埼玉の生まれだということ、五人兄弟の末っ子だということ、十八歳で印刷業を営む会社に入社したこと、結婚をして娘が生まれたが、その後離婚し、娘は母親に引き取られたため、両親と兄弟が死んだ今は天涯孤独だということを知った。
「いい人よ。サイトウさんは。頭がちょっとおかしいのが玉に瑕だけど」
『とら』と書かれたネームプレートを首から提げた女が、俺のグラスにウォッカを注ぎながら言う。彼女はサイトウさんが集めていたセクシーな女のうちの一人だった。彼女は血のように真っ赤でてらてらとしたドレスを好んで着た。
サイトウさんが住み着いている寂れたパチンコ屋の奥はキャバクラのように改造されていて、俺はたまにそこで酒を飲むことがあった。そこではサイトウさんが集めたセクシーな女たちが酒の相手をしてくれた。それは仕事というよりは彼女たちの暇つぶしとして。
「なんでこんなとこにいんの? サイトウさんがいくらあんたの言うようにいい人だとはいえ、あんたならもっといい稼ぎ場があるだろ」
「風俗とか?」
「まあ、それもひとつ」
『とら』は首を振る。人工的な甘い香りがふわりと舞った。
「ここなら誰にも見つからないもの」
しばらくして『とら』はサイトウさんの財産の殆どを盗んで姿をくらました。もっともサイトウさんが持っていた財産などたかが知れていて、サイトウさん自身も気にしていなかった。少なくとも俺には気にしていないように見えた。
大通りまで出てタクシーを捕まえる。「どちらまで?」と訊かれるよりも前にサイトウさんが住み着いていたパチンコ店の住所を伝える。
ドライバーの髪の毛はまるで迷路のように禿げていて、生え際をスタート、つむじをゴールと定めて解いていると、あとちょっとでゴールに辿り着くというところで目的地に到着した。金を払い、車から降りる時に写真を撮らせてくれと頼み込んで、ドライバーの禿げ頭を撮った。これでタクシーに乗っていない時でも迷路を楽しむことが出来る。
パチンコ屋の前には女が一人立っていて、サイトウさんが募集していたセクシーな女だろうか、と訝った。しかしその女はどう見ても発育がよろしくなく、まるで中学生のようだった。セクシーな女ではなさそうだった。すると、この女は俺のようにサイトウさんの金庫を狙いにきた輩ではないかと推察され、もしそうだった場合、鉢合わせるのは面倒なので電柱の影に隠れてやり過ごそうと考えたが、上からばちばちと電流を垂れ流す電線がずどんと落ちてきたため、俺は飛び上がってそれを避け、その拍子にその女と相対した。
女は不審者を見るような目つきで俺のことを見て、まあ実際不審者なのは正しいのだが、少なくともどんな相手であれ友好的に接する方がいいと考え、「こんにちは」と挨拶をした。しかし女は小さく会釈をするだけで「こんにちは」と返されたら「こんにちは」と返す日本の伝統的な文化をどうやら知らないようだった。
エンヤエンヤと聞き馴染みのある声がしてそちらを向くと頭を綺麗に剃り上げた輩たちがでかい山車を担いでこの細い道を通ろうとしているところで、道端で眠っていただらしなくスーツを着崩したおっさんはそのハゲの群れに踏み潰された。
「位置エネルギー教だ」
俺がそう呟くと女は頷いて「取り敢えず中入りますか」と言った。
俺たちがちょうどパチンコ屋に入ったところで位置エネルギー教はパチンコ屋の前を通り過ぎ、スーツのおっさんの死体が山車に引き摺られて行くのが見えた。
昔は耳を塞ぎたくなるくらい爆音をかき鳴らし、酒を飲みすぎた時のようにだばだばと銀色の玉を吐き出していたであろうパチンコ台は人が変わったかのようにしんとしていた。
「見てんじゃねぇよ」
パチンコ台のひとつがそう力なく言った。
「えーと、初めまして。君はサイトウさんの知り合い?」
気を遣ってそう話しかけると「知り合いと言われたらそうではないんですけど」とどうにも要領が得ない回答が返ってくる。
「じゃあなんなの」と訊くと今度は黙りこくってしまい、俺はその女について気にすることをやめた。仮にこの女が俺と同じようにサイトウさんの金庫を狙っているとしても腕っぷしでねじ伏せればいい。いや、そもそもサイトウさんの金庫のためなんかにこういう怪我をしそうな奪り合いはしたくないので譲ってしまってもいいかもしれない。キヨ爺にはどやされるだろうが煙草を買ってやれば落ち着くだろう。
俺が店の奥に向かうと何故かその女もひょこひょことついてきて、やはり俺の考えは正しかったのかもしれないと思う。しかし金庫を取りに来たのならサイトウさんが死んだという情報をどこかで得る必要があってその情報を手に入れるルートは限られている。すなわちサイトウさんと生前交流のあった人間くらいしかサイトウさんが死んだという情報は回ってこない。するとこの女はサイトウさんの知り合いなのか。いやしかしこの女は先ほど自身でそれを否定したし、と考えていると豪華なシャンデリアが彩り、真っ赤なカーペットが一面敷かれた大きな部屋に入る。ガラスのテーブルの周りに半円の椅子が置かれたセットが全部で五セットあり、中央のテーブルの周りにセクシーな女が三人座っていた。三人の前に置かれたテーブルの上には半裸のおっさんが寝そべっており、ヒイヒイと苦しそうに呼吸をする。
俺はその女たちが全員顔馴染みであることを確認して「ヨオ」と小粋に声をかけると女たちは俺の方を見て怪訝そうな表情を浮かべた。
「何の用?」
ぶっきらぼうに俺から見て左に座っている『へび』と書かれたネームプレートを提げたセクシーな女が訊いた。
「あいや、なんでも。それ何してんのかなと思って」
「これ?」
中央に座る『さる』がテーブルの上に寝そべるおっさんを指す。こいつは『さる』のくせして何故かバニーガールの衣装を着ていた。
「そうそれ」
「こいつ位置エネルギー教の信者だから拷問してんの。暇つぶしに」
「へえ」
よく見るとおっさんの顔は赤紫に変色し、斑点がぷつぷつと浮き出ている。近辺で流行っているドラッグの中毒症状だった。アヘンやコカインなんかよりもずっとキくんだ。闇市の商人がそう言っていたのを思い出す。カプセル三つがラインだと彼は言っていた。それ以上呑むとこのおっさんのように中毒になる。身体に斑点まで浮かび上がるともう死ぬしかない。
位置エネルギー教はドラッグの使用を禁止しているから、このおっさんに無理やりカプセルを飲ませたのだろうか。
「それは復讐的な?」
「復讐的?」
「ええと、サイトウさんが位置エネルギー教にハマって死んだことに対する」
そんなわけなくね。『へび』がそう一蹴する。
『ひよこ』がおっさんの乳首をつねった。あっふぅんとおっさんは気味の悪い声を出す。『ひよこ』はけらけらと笑って言う。
「ただの暇つぶし。それで五分時間をあげるから面白いことしてって言って今こんな状態なの。私たち三人を笑わせたら助けてあげるよって言って。まあそんなのできっこないんだけど。…………あ」
『ひよこ』が口を滑らせ、それを聞いた半裸のおっさんの顔色が変わる。
「へへ、やっちゃった」
『ひよこ』は可愛らしく舌を出す。てへぺろ。
自分が死へ向かう列車から降りることが出来ないと悟ったおっさんは気力を振り絞り、ウオーッと叫んで立ち上がるとガラスのテーブルを持ち上げて三姉妹に投げつける。女たちには当たらなかったが、ガラスのテーブルは勢いよく床に落下して粉々に砕け散った。辺りにきらきらとしたガラスの破片が飛び散る。おっさんは椅子やらボトルやら手当たり次第に物を投げ始め、女たちはキャアキャアと部屋の中を逃げ回る。
「不味そうじゃないです?」
入り口で出会った幼児体型の女がそう言い、俺は頷く。暴れるおっさんが気づかないうちにそそくさとさらに部屋の奥に進んだ。
「そういえばお前名前は? なんていうの」
そう訊いたのはその女に興味があるというよりも利便性の問題だった。「女」と呼ぶと他に女がいる空間では余計な女まで反応してしまうし、「お前」と呼ぶと男も女もみんなが振り向くかもしれない。
「ショーコです。タカギショーコ」
そのような理由で名前を訊いたので、苗字まで覚える気はさらさらなかった。「ショーコね。ショーコ。工藤翔子と同じ名前」と一昔前の銀幕スターの名前に紐づけて覚える。
「あの、あなたは?」
「タナカ」
と適当に返事をして、自分がタナカではないことに気がつく。訂正するのも面倒なのでしばらくの間タナカで過ごそうかとも思ったが、いざタナカと呼ばれた時に恐らく俺は反応できなくてそれこそ不便であるから仕方がなく「キダ。キダヨーヘイ」と訂正する。
「ええと? タナカキダヨーヘイさん? ええとどこまでが名字なんでしょう」
余計ややこしくなったのを察するが、もうどうでも良くなり「ヨーヘイでいいよ」と言ったことで解決させた。
サイトウさんが使っていた書斎の前まで来たときに「ショーコさんさあ、いつまでついてくる気?」と訊いた。いくら俺でも死人の金庫を漁るような場面を赤の他人に見られたいと思うほど変態的な趣味を持ち合わせていなかった。
「ええと、もう少し」
「もう少しってどのくらい?」
「ええと……もう少し」
話にならず、俺は諦めて書斎の扉を開いた。書斎では何匹かの金魚が周囲を悠然と泳いでおり、一匹が俺が開けた扉の隙間から外に出ていった。
まっすぐ書斎を横切り、裸の女が刺繍された布がかけられている棚の前まで行くとその布を剥ぎ取る。重厚な黒々とした金庫が姿を現す。
俺を餌だと勘違いして近寄ってくる金魚を手で払い除けながらダイヤルを回した。それは八桁の番号が必要で、00000000から順にダイヤルを回したが000000091まで来て俺は諦めがついた。
「やめるんですか」
「うん、やめる」
「じゃあ私やってみていいですか?」
俺はお好きにどうぞと顎をしゃくるとショーコはダイヤルを迷いのない手つきで回し始める。カチカチカチカチ。ダイヤルを回す音。俺は部屋の中央にあった椅子に腰掛け、ゆらゆら書斎の中を泳ぐ金魚を観察する。金魚は自分の主人が死んだことなぞ全く気にしていない様子でケツから長い糞をぷらぷらとぶら下げていた。
「あ」
ショーコが声を漏らし、そちらを見ると金庫は呆気なく開いていた。
「え、なに。知ってたの? 暗証番号」
唖然として訊くとショーコは「知っていたわけではないんですけど」とまた要領が得ない。
まあどちらにせよ、金庫を開けたのはショーコで俺の取り分はないと帰ろうとしたところ、「要らないんですか。金庫の中身」とショーコが訊く。
「開けたのはお前だろ」
「じゃあ私がこの金庫の中のもの頂いてもいいんですか」
「好きにしろよ」
俺がそう言うとショーコは少し考え込む素振りを見せて「じゃあこの中身差し上げます」と言う。
「はあ?」
「差し上げます。これは私のものなので、中身をどうしようが私の勝手ですもんね。その代わりこれだけは貰っていきますね」
ショーコが手に持っているのは一枚の古い写真で父、母、娘と仲良さそうに笑っている家族写真だった。それを見てはあーそういうことかと合点がいった。
「サイトウさんの娘か。お前」
ショーコは答えずに微笑み、書斎を出ていこうとする。
「あ、待って待って」
ショーコは振り返り、小首を傾げる。
「何だったの、暗証番号」
「誕生日です」
「ええと、君の?」
「どうかな」
彼女はそう言って背中を向ける。
「あ、待ってもうひとつ」
「なんですか」
「君の名前、たしかタカヤマとかヤマダとかハシモトとか言ってたと思うけれど少なくともサイトウではなかったよね? 結婚して苗字変えたの? それとも偽名?」
「タカギです」
「ああそうそう。確かそんな感じ。それで? 質問の答えは?」
「もしかするとあなたの言うサイトウさんの名前がタカギサイトウだったかもしれません」
「馬鹿言うなよ。サイトウさんの下の名前は確か、テルヨシとかショウヘイとかまあそんな感じのニュアンスだったはずだ。サイトウテルヨシみたいな感じ」
「じゃあタカギサイトウテルヨシだったのかもしれませんね。そうでしょ? タナカキダヨーヘイさん」
彼女は今度こそ書斎を出る。最後まで要領を得ない会話をする女だった。
その背中を見送った後、金庫の中身を確認する。煙草、お菓子の食べ残し、位置エネルギー教の教典、エロ本、数枚のボロボロに擦り切れたお札。
「やっぱ碌なもん入ってねーじゃねーか」
そうぼやいて煙草とエロ本、金だけを、ポケットの中からくしゃくしゃにつっこんでいたビニール袋を取り出してその中に放り込んだ。
帰る時に例のキャバクラ部屋を通ると嵐はすっかり収まっていた。部屋の中央でおっさんがうつ伏せに倒れてピクピクと痙攣し、『さる』は頭から血を流しテーブルの脇に倒れていた。椅子の陰には顔がぐしゃぐしゃに潰された女の死体があって、近くには『へび』と書かれた血に染まったネームプレートが転がっていた。死屍累々。
『ひよこ』の姿はどこにも見えなかった。彼女だけ上手いこと逃げ出したのかもしれない。そういえば『ひよこ』も赤いドレスを好んで着ていたな、とふと思った。
パチンコ屋の前のアスファルトから黒くぼこぼことした顔が出ていて「動けねえ」と言っていた。その顔は位置エネルギー教の信者たちに踏み潰されて死んだスーツの男のものだった。
「動けねえ」
男はもう一度言った。自分の存在を確かめるように。
タクシーを拾ってビルに着いた時、既に日は暮れかかっていて、辺りはオレンジ色に染まっていた。
エレベータの調子が悪く、ボタンを押してもゴウンゴウンとどこかに引っかかっているのか一向に降りてこない。仕方がなく、俺は三十六階まで階段で登ることにした。
汗だくになりながら階段を登り切ると強い風が吹いてきて、キヨ爺が窓を開けっぱなしにしているのかと思って「キヨ爺」と声をかけたが返事はなかった。
フロアの窓の近くにキヨ爺はいた。キヨ爺の上には天女が覆い被さり、キヨ爺の肉を貪り食っていた。
俺は部屋の隅に投げ捨てられていた猟銃を拾い上げ、弾が入っていることを確認すると照準を天女の頭に合わせて引き金を引いた。
天女の頭が破裂し、真っ赤な血が部屋一面に飛び散った。
天女の死体を退かしてキヨ爺を見ると、顔の半分と右手、腹は天女によって食い荒らされており、既に事切れていた。
俺は持っていたビニール袋の中から戦利品である煙草を取り出すと、一本を咥え、残りをキヨ爺の近くに置いた。マッチを擦り、火をつけようとするが中々火が付かない。キヨ爺が吸いながら火をつけるんだと言っていたのを思い出し、試してみるとようやく火がついた。
慣れない煙に咳き込む。
向かいのビルでの祭りは佳境に入ったようで、屋上のへりに数人の男女が手を繋いで一列に並び「エイヤエイヤエイヤ!」と叫んでいた。
平和。
昔、サイトウさんが演説していた場所の近くにあったラヂオ店の壁に、男女が仲良く手を繋いでいる拙いイラストで平和を謳っているポスターが貼ってあったのを思い出した。なんでそんなものを覚えていたんだろう。初めてサイトウさんに出会って、腕を掴まれた時にそのポスターが目に入った。それはしこりのように俺の頭に存在し続けていた。
その男女の列は「エイヤエイヤエイヤ!」と叫び続ける。声は次第に大きくなっていく。
そして次の瞬間、その男女は一斉にビルから落下した。大縄跳びを全員で息を合わせて飛ぶような感じで。さらにその奥からまたもや一列に並んだ男女が出てきて前の列を追うように屋上から飛び降りる。
次に出てきた列で、端っこに並んでいた女がさあ飛び降りるぞという時になって急に座り込んだ。周りの人間たちはその女を取り囲んで何かを言っているように見えたが女は立ちあがろうとしない。すると後ろから豪華絢爛な袈裟を身につけた偉そうな坊主が出てきて「我らが主のために勇気を持つのです。重力に身を委ねなさい。位置エネルギーの偉大さを知りなさい。自分よりも遥かに超越した存在に身を委ねるのは最初は怖いことです。しかしそれを乗り越えて勇気を持った者こそが救われるのです」とこちらにまで聞こえるくらいの大声で説教をすると、咳払いをするような仕草を見せた。それから手を大きく広げて言った。
「世界の平和のために!」
その言葉とともに、坊主は座り込んでいた女を蹴り飛ばした。女はなすすべもなくビルから落下した。
女が落ちると「エイヤエイヤエイヤ!」と何事もなかったかのように祭りは再開する。
隣のビルから浮き出た顔が「ああ、うるせぇ」とぼやく。その顔は俺の顔に似ていた。
俺は口から煙草を離すと、キヨ爺が作っていた吸い殻の山の頂点にその煙草を立てた。
紫煙がゆらゆらと立ち昇り、もともと存在なんてしていなかったみたいに、空っぽの宙に溶けていく。
東京。ビルに天女に紫煙を ちくわノート @doradora91
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