先輩と私 ①
私が探し求めていた「南2A教室」には、なんとも言えない気持ち悪さがあった。少し黄ばんだカーテンが閉め切られていて、中の様子はまるで見えない。耳を立ててみても物音一つ聞こえない。まだ綺麗な廃バスのようだった。
もしかして、ここに入らなきゃいけないのか。すごく嫌だ。寝坊して授業に少し遅れてから教室の扉を開けるみたいじゃないか。開けた瞬間一斉に視線を飛ばされたらどうしよう。
スカートのポケットから八つ折りにした塊を取り出して開く。確かに場所はここで間違いない。顔を上げて窓の外を見れば、夕焼けはもう沈みかけの光を放っている。迷っている暇もなさそうだ。
扉をコンコンと中指の第二関節で叩き、確かノックを二回するのはトイレとか聞いた事があるのを思い出してもう一回だけ叩いた。返事は無い。もう三回叩いてみたけど、やっぱり人の気配は感じられなかった。
ふと、扉とサッシの間にほんの僅かにだけ隙間がある事に気が付いた。鍵が開いている。私は一瞬迷い、もう一度だけプリントにある文字が「南2A」なのを確認し、そして恐る恐る扉を開けた。
弱々しい風が吹き抜けたのは、部屋の中にあった窓が開いていたからだ。緑を思わせる自然が確かに香ったし、それに得も言われぬ懐かしさを覚えた。
「その人」は突然に吹いた風に、手元の文庫本から顔を上げてこちらを見た。不思議な事に、私が最初に思ったのは「この人は誰だろう」とか「部員だろうか」とかじゃなく、「何の本を読んでいるんだろう」という事だった。
扉を開けた態勢のままの私と、椅子に座って本から顔を上げた彼。しばらく見つめ合い、やがて静けさを最初に破ったのは彼の方だった。
「……寒いから閉めてくれる?」
「あ、はい」
私は言われるがまま、部屋に入って扉を閉めた。それを見届けた彼は突然の来訪者である私に目もくれず、さっさと手元の本に顔を戻す。表紙も裏表紙も真っ黒な、よく分からない本だった。
話しかけるタイミングを見失った私は、彼と机二つ分を隔てた位置にある椅子に腰をかけ、なんとなく部屋を見渡した。薄白く汚れた黒板に、角に磁石で留めてあるプリントが二枚、その上で私を急かすように秒針を鳴らす時計。部屋の後方にはパソコンや書類の束が入った四角棚、その上に並んだ文庫本やハードカバーの本。半分くらいこの人が私物化してるんじゃないかと思わせる部屋だった。
人差し指と親指でページを捲るその人にもう一度目をやる。もちろん私は彼を一度も見た事がない。後輩かもしれないし先輩かもしれないし、あるいは同級生かもしれない。同じクラスにいたとしても卒業してしまえば顔も思い出せないような、雰囲気も含め取り立てて特徴の無い人だった。
私も彼も口を開かぬまま、遠くの生徒の喧騒が耳に入ってきた。無言が嫌いなわけじゃない。けど、いきなり放り出されたような空気に耐えられなかった私は、一つ息をついて話しかけてみる事にした。
「あの、ここってなんなんですか」
あまりにも抽象的な質問。彼は本に顔を落としたままゆっくりと間を置いて小さく口を開く。
「教室」
「そうですけど、何をする場所なのかなって不思議で」
「学校に教室があって何が不思議なの」
……帰りたい。「失礼しました」って言ってこの部屋を出たい。けどもうそんなタイミングですらない。何しに来たんだろう。思わず零れそうになった溜め息を寸前で飲み込む。
「今は部室だよ。だから来たんじゃないの?」
彼が突然言った。私は少し驚き、「そうです」と首を縦に振る。
「案内書にここって書いてたんですけど、何の部活かも知らなくて」
「知らないのに入部しようとしてたの?」
彼は「君らしいね」と言って少しだけ微笑んだ、ような気がする。分からないけど、なんとなく雰囲気が柔和になったように感じた。
「僕もここが何の部活かは知らない。もう忘れた」
「なんですかそれ」
「分からないけど、ここが僕の居場所だって感じる。もしかしたら前世の話かもね」
彼はその本に栞を挟んで静かに閉じた。その所作になぜか言い様も無い懐かしさが込み上げる。さっきの風が吹いた時と同じ感覚だ。
「それ、何の本ですか?」
私は彼の手元にある本を指差す。彼は「これ?」と本を掲げた。
「短編集だよ。内容は簡単だけど少し難しい」
その言葉に私が眉をひそめると、「君は難しい話が苦手だからね」と更に訳の分からない言葉を重ねた。
「君は分からないだろうけど、世界がどうなろうと変わらない二人の関係ってあるもんだよ。この部室みたいに、僕が君に懐かしさを覚えるのにも理由はいらない」
そこで初めて、私は彼と目が合った。まただ。今朝見た夢を思い出せないみたいに、ふと吹いた夏風の香りに何かを思い出しそうになるみたいに。その瞳になぜか見覚えがあるような気がしている。
「……あの」
その瞬間、帰宅を促すチャイムが響く。私は驚いて一瞬身体が跳ねた。彼は「時間だ」と言って立ち上がる。
「よかったらその本、貸してあげるよ」
「お気持ちは嬉しいんですが、その」
「ああ、君は貸し借り作るの苦手だっけ」
「正確にいえば貸しを作るのはいいけど、借りを作るのはちょっとみたいな……。あれ?」
私はそこでようやく、初めての違和感を覚えた。彼は「なら」と言って私に手を差し出す。まるでダンスを申し込むみたいに。
「君の右ポケットにあるものと交換しよう」
私は右ポケットに手を入れる。出てきたのは案内書と、一枚の入部届。彼にそれを差し出すと、「これで貸し借りは無し」と小さく言った。
「じゃあまた明日」
彼はそれだけ言い残すと、さっさと部屋から出て行ってしまった。
部屋には耳が痛くなるような静けさだけが残る。机の上にあった本が目に入る。表紙も背も裏表紙も、真っ黒な一冊。私は手持ち無沙汰にそれを開き、なんとなく中を見てみた。
風が強く吹く。開いていた窓から木々が揺れて擦れる音が聞こえる。
私は目を細める。冷たいような、生温いようなそれが髪をなびかせる。
鼻腔を風の香りが通り抜ける。懐かしさは感じなかった。だって、もう全部分かったから。
弾けるように、飛び出していた。椅子が音を立てて倒れる。身体ごとぶつけるようにして扉を開ける。部室を飛び出してまず左を見る。廊下の先には誰もいない。
確信していた。遠く離れた星々を駆け巡ったって、世界が終わってまた新しい世界が始まったって、どんな扉をいくつも開けたって、その先に彼はいる。
何が「貸し借りは無し」だ。私に黙って、どこかに行こうとしたくせに。私は思い出せなかったのに。それなのに、〝こんな未練がましい事するなんて〟。
後ろを振り返る。そこに彼はいた。何より見つめた、その人の背中だった。
彼はなんて言うのだろう。「今世はお終い」なんて言って、また静かに微笑むのだろうか。なら、私はやっぱり叫びたい。最後の最後に、彼を叫びたい。大きく息を吸って、喉を震わせて、その言葉で彼を呼ぶ。
「先輩」
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