何が二人を別つとも、私は彼の手を握る
ふと思い立ってガスマスクを外した。中々に思い切った行動だったけど、部室に充満していたのは毒ガスなんかじゃなくて新鮮な酸素だった。心底安堵する。
マスクの内に籠っていた熱がどこかへと追いやられ、途端に冷たい空気が曝された肌に突き刺してくる。悴んだ手が熱を求めて虚しく震え出した。
僕がなぜそうしたのかと言えば、この学校の、この部室が丁度日本を東西に分ける境界線上にあったからだ。西側の連中は僕らが攻めてこられないよう、境界線付近に毒ガスを撒いていると聞いていた。だから僕らはそれを警戒する。でもそれはあちら側からしても同じだったようで、つまりこの学校はお互いに不可侵領域に近い状況にあったわけだ。
部室は誰かが足を踏み入れた形跡も無いようで、まるで時が止まったかのように静かで神聖な場所だった。一体どのくらい放置されていたのだろう。日本が東西に別れて七十年近くだから、少なくともそれ以上は忘れ去られている。
いくつか並んだ机のうち、一つをそっと人差し指でなぞってみる。指の腹に白い埃が付着し、机に一本の線が引かれる。この空間の寿命を悟るには、それだけで事足りた。
部屋の後方にある棚には、今ではもうすっかり見られなくなった紙媒体の本がいくつか並んでいる。まさかこの国で国内紛争が起こるなんて露知らず、ただ静かな部屋で本を読むような時間が当たり前にあった時代だったのだ。
並んでいる本の中に一冊、特別に薄いものがあった。埃を被ったそれを取り出し、表紙を開いてみる。
『東西がどうとかで、東日本生まれの人間と西日本生まれの人間が一日置きに学校に来るよう措置が取られた。私は東日本生まれで、先輩は西日本生まれだから、つまりそういう事だ。何があったのかとか、そういう難しい話はよく分からない。これをしたためているのは、先輩の提案で置き日記をする事になったからだ』
どうやらそれは、ここにいた人間の交換日記のようなものらしかった。この時点でもう既に東西の亀裂が入りつつあったらしい。何か有益な情報はないかと、適当にページを開いてみる。
『先輩はどちらがお好きですか』
『似合っていればどっちでもいいと思うよ』
『うわでた。一番つまらないやつ』
『つまらない人間だからね』
『同じ顔が二つ並んでるとして、ロングとショートならどっちを選ぶかっていう単純な話です』
『長くもないけど短くもない、それくらいが一番いいよ』
『私にはどっちが似合うと思いますか』
『どっちでも似合う』
こんな内容ばかりが綴られていた。どうやらここにいたこの二人は、ある日突然こういう運命を背負わされたらしい。それでも、何の根拠もなく以前のように戻れると確信していた。悲しく、寂しい事だった。
『僕は何かを決める事が苦手なんだ。前を進みたいわけでも、後ろを振り返りたいわけでもない。いつだって「何も選ばない」という選択肢を持ち合わせているつもりだよ』
『優柔不断なだけでしょう』
そこまで読んで、僕は「先輩」と呼ばれている彼に妙な共感を覚えた。人は生きている限り、必ず何かの選択肢に苛まれるような生き方を強いられる。何かを選ばなきゃいけないなんて、そんなはずはないのに。
中間地点は心地が良い。どうして誰も彼も、白黒付けるような生き方しか知らないのだろう。どうして曖昧に生きてみようとは思わないのだろう。
『じゃあ先輩は東と西ではどちらがお好きですか?』
『南かな』
『絶対言うと思いました。どうしてですか』
『陽の昇る方角だから』
『そうですか。珍しく意見が別れましたね。私は北が好きです』
『へえ。理由は?』
『寒そうじゃないですか。私は寒いのが好きなんです』
『どうして?』
『今度会ったらちゃんと教えてあげますよ』
「動くな」
声のした方へ顔を向ける。こちらに銃口を向けていたのは一人の少女だった。ガスマスクは付けていない。
「東の人間ですね? ここで何をしているんですか」
「ちょっと人様の日記を盗み見してただけだよ。それ降ろしてくれないかな。僕は丸腰なんだけど」
「貴方の言葉なんて誰も信用しません。少なくとも西では」
「西は君みたいな少女を狩り出すくらい人手不足なの?」
僕はそんな軽口を叩きながら、手に持っていた日記を投げて寄越した。少女は警戒したままゆっくりとそれを拾い上げる。どの道、この場所は東も西も管轄外の場所なのだ。僕らが何をどうしたところでどちらの得にも損にもならない。
「これは?」
「七十年前の人間の交換日記みたいなものだよ。貴重な情報が書いてあるかも」
「……それを分かっていて、どうして渡したんですか」
少女は眉をひそめて訊ねた。僕はそれに「意味なんて必要?」と少し笑って応えた。
「貴方がこれを渡した事で、西に戦力が傾くかもしれない」
「別にいいんじゃないかな。僕には東とか西とか割とどうでもいいみたいだ」
僕はどうでもいいようにそう言った。実際どうでもよかったから。この戦争で勝とうと負けようと、僕はこの二人がここで過ごしたような穏やかな時間が欲しいだけだった。それ以外はいらない。
「戦争は二つに一つです。勝つか負けるか。どちらでもない方なんて選べません」
「引き分けっていう選択もある」
「引き分けがないから七十年もこんな事やってるんですよ」
「君とは仲良くなれなさそうだ」
僕が笑って言うと、少女は「それはどうも」と言って日記を机に置いた。周辺の埃が優しく舞う。
「いらないの?」
「ええ。私には東とか西とか割とどうでもいいみたいですから」
「勝つか負けるかって言ったばかりだろ」
「それは結果論の話です。勝敗に興味があるわけじゃありません」
少女は少し警戒しつつも銃を腰にしまい、「それに、ここは東も西も管轄外の場所ですし」と部室を見渡した。少女の着ていた白いカットシャツは、まるで彼女をどこにでもいる女子高校生みたいに見させる。
「君は東と西ならどっちが好き?」
「どっちも嫌いです」
「僕と同じだ。じゃあ南と北は?」
「南です。陽の昇る方角なので」
「へえ。意見が別れたね」
僕が笑って言うと、彼女はやっぱり不機嫌そうに眉をひそめた。
ずっと前にも、この場所であの二人は、こんな風に会話をするはずだったのかもしれない。寒さの理由を口にするはずだったのかもしれない。誰かと手を繋ぐ口実になるからだなんて、そんな事を言いたかったのかもしれない。
せめて僕は、彼女とこの場所で、彼と彼女の後輩になってみたかった、なんて。
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