夢みたいな話 ②
座標27-53-369を打ち込む。ロード中を知らせる画面がしばらく映し出され、やがてすぐに目の前は光に包まれる。
私は防波堤に立っている。足先にはテトラポットが敷き詰められていて、さらにその先には見渡す限りの水平線がある。
そこは海だった。けど、眼前に広がっているのは透明な青色ではない。煌々とした夕焼けを乱反射させ、目を細める程の眩しい赤が輝いていた。
視界の隅に映し出された日付を確認する。三月九日、十七時四十七分。「あの日」以来、九回目のこの日この場所だ。私は毎年必ずここを訪れるようにしている。もっとも、「訪れる」という言い方が適切かどうかは分からない。
一つ残念な事は、VR機器では嗅覚までカバーできない事だ。それなりに値段のするものならそういう機能もあるかもしれないけど、一般人の私が手を伸ばせるものといえば、精々視覚と聴覚がいいところだ。
息を吸っても香るのは私自身の部屋の匂いだけ。でも、思い浮かべる。あの日の潮の香りを。隣に立つ彼の夕焼けに照らされた横顔を。細く伸びる、二つの影を。
しばらく時間が経ち、いつの間にか西日も水平線に消えていった。夕焼けの赤と夜の闇の中間みたいな色が空間を支配している。どこかで虫も鳴き始めている。
去年と同じく、ここを訪れた証を残す為、手に握っていたコントローラーを操作してログを開く。
『2018-03-09 @south2Aclassroom』
『2019-03-09 @south2Aclassroom』
『2020-03-09 @south2Aclassroom』
『2021-03-09 @south2Aclassroom』
『2022-03-09 @south2Aclassroom』
『2023-03-09 @south2Aclassroom』
『2024-03-09 @south2Aclassroom』
『2025-03-09 @south2Aclassroom』
これはいわゆるレビューだ。この場所を訪れた人が、こうやってコメントを書き残せるようになっている。けど、八年前からこの場所のログはずっと私のコメントで埋まっている。この「@south2Aclassroom」というのは私が使っているVR機器のIDだ。特にコメントする事も無いから、なんとなくIDだけを書き込んでいる。
そして今年も私の九つ目の証が書き込まれる。はずだった。
『2025-08-31 高校の卒業式の後で、とある人とここに来ました。あの日はただ夕焼けが目に滲みたけれど、夏の終わりの海というのもやっぱり綺麗で良かったです。これが正しい海の楽しみ方のような気がする。人生で一番大切な場所かもしれません』
この場所に八年間も私のコメントしか残されていなかったのは、ここが田舎の隅にある細い海沿いだからだ。地元の人ですらここを知っている人間は少ないだろう。私自身、あの日彼に付いて行かなければ知る事はなかった。
妙な想像が湧き上がってくる。そんなはずはない。いや、ないと断言はできないけど。それでも、これが彼だという可能性がどれほどあるだろう。彼だとして、彼はどうしてこのタイミングでここを訪れたのだろう。
ふと思い立つ。ここにコメントを残していったという事は、私が書き残していたものも全て見られたという事だ。私のコメントは全て「@south2Aclassroom」というID。南2A教室は、私と彼の居場所だったあの部屋。もしこのコメントが彼のものだとしたら、先輩は間違いなく私の存在に気が付いている。
VR機器を取り外し、携帯のトークアプリを開く。急いで履歴を遡っていくと、その一番下に彼の名前があった。最後に文字を交わしたのは八年前。先輩が卒業して部室の掃除が私の担当になり、備品の整理について訊ねた時だった。
「お久しぶりです。今お暇ですか?」と文字を打ち込み、少し考えてそれを取り消す。八年ぶりに言葉をかけようとしているのに、こんな軽々しい挨拶で済ませていいものだろうか。でも、だからといって寒中見舞いのように重々しい言葉を並べるのも違う気がする。
悩みに悩み、結局「悩まない」という選択をする為に直接電話をかける事にした。思考を一旦打ち切り、直後に訪れる一瞬の虚無のような思考停止を利用して通話ボタンを押す。これでもう後には引けない。
コール音が緊張を高める。一回、二回、三回。そこで、私はようやく「先輩が電話に出ない可能性」という考えに至った。そうなれば、先輩は私からの不在着信を見て間違いなく頭を悩ませるだろう。できる事ならそんな負担はかけたくなかった。いや、そもそもこのトークアプリを未だに使っている可能性の方が低いのかもしれない。八年も音信不通となれば充分にあり得る。
コール音が十回に達し、心臓も思考も冷静さを取り戻した頃だった。赤い切断ボタンをタップしようとした寸前、プツンと音が聞こえた。通話が繋がったのだと気付いた。
『……もしもし』
先輩の声が聞こえる。携帯越しだけど、九年ぶりに耳にした先輩の声だ。
「あ、もしもし、お久しぶりです」
思わず声が上ずってしまう。手が少し震えている。
『ほんとに久しぶり。どうしたの』
「いや、別に取り立てての用があったわけじゃないというか、何してるかなって」
『何それ』
先輩は九年前となんら変わらぬ柔らかな声音で言った。あの部屋で何度も見た彼の静かな微笑みが思い出される。
いきなり電話をして、急にVRなんかの話を持ち出すのもどうかと思った。こういうタイミングで彼と話せる機会が生まれたのだから、もっと何か言いたい事があるはずだし、もっと聴きたい彼の話があるはずだった。
そんな私の迷いが居心地の悪い沈黙を運んでくる。部室に二人でいた時にはまるで感じなかった気まずさ。多分、彼の表情が分からないからだ。彼は今どんな表情をしているのだろう。
私は迷い、彼の名前ではなく「先輩」と、何度も口にしたその言葉を漏らした。
「先輩にとっての、正しい海の楽しみ方ってなんですか」
結局そんな事しか言えなかった自分に嫌気が差す。数年ぶりに言葉を交わして、最初に訊ねるのがこんなどうでもいい質問であっていいはずがないのだ。
それでも先輩は『君はいつでも唐突だね』と少し笑った。何も気にした様子なんてないように。むしろそれが自然であるかのように。
『僕が一番海に行きたいと思うのは八月の終わりかな』
「夏の始まりではないんですか」
『上手く言えないんだけど、夏の終わりに夏らしい景色を見て、悲しい気持ちになりたいんだと思う。今、目の前にあるのは間違いなく夏の海なのに、もうすぐ夏は終わる。結局この夏も僕は何もできなかった、夏に乗り遅れた。そういう、どうしようもなく沈んだ気分になって打ちひしがれたいんだ』
「……先輩らしいですね。勝手に海に行って勝手に悲しんで。自分勝手です」
私が少し笑って言うと、先輩は『そうかな』と呟いた。きっといつものように眉をひそめて不思議そうな顔をしているのだろう。
「電話をしたのは、先輩に訊きたい事があったからです。どうでもいい事なんですけど」
『君の発言は八割方どうでもいい事だよ』
「先輩、卒業式の日の事って覚えてますか」
私が少し低い声で訊ねると、先輩は少し考えるような間を置いて「部活の事?」と訊ね返した。
「卒業式の後の話です。先輩に連れられて、一緒に海に行ったの覚えてませんか」
『ああ、そっちか。覚えてるよ。君が神妙そうな顔で「どこか連れてってください」なんて言うから』
『珍しくどうでもよくなさそうに言ってたね』と、先輩は懐かしむような声で小さく呟いた。
「もしかしてなんですけど先輩、半年くらい前にあの場所に行きませんでしたか?」
『……いや? 僕が地元に帰るのは正月くらいだよ』
「あ、そうじゃなくて」
私は一瞬だけ迷い、でもすぐに言葉を紡ぐ。
「その、VRであの場所に行ったりしてないかなって」
『VR?』
先輩が怪訝そうに訊ねるので、私は経緯をかいつまんで話した。
「あの場所にレビューが付いてたんです。人と来た事があるって。でも、先輩も知ってるようにあの場所って人には中々知られてない場所じゃないですか。しかも、誰かと来た事があるってかなり限られてくると思うんです。だから、もしかすると先輩じゃないかな、なんて」
私が毎年のようにあの場所へ行っている事は伏せた。万が一あのコメントをしたのが先輩だったら、これ以上に気持ち悪い話もないから。
そんな私の心配は杞憂だったらしく、先輩は『僕じゃないね』とはっきり言った。
『そもそも僕はVR機器自体持ってないんだ。持ってたとしても、潮の香りもしないVRなんかじゃ余計現地に行きたくなるだけだしね』
「……そうですか」
彼と違い、私が本物の海を見たいと強く思わないのは、ただ海が見たいと望んでいるからだけじゃない。きっと隣に誰かが、彼がいたからだ。あの日あの場所で先輩と見た海だから、私はもう一度見たいのだ。
『電話したのってそれが理由?』
「だから言ったでしょう、どうでもいい事と」
『でも言い方はどうでもよくなさそうだったよ。前に「どこか連れてってください」なんて駄々こねた時と同じ』
きっとそうだ。本当はどうでもよくなんてなかった。どこか期待していたのかもしれない。私と同様、彼があの場所を訪れていた事を。彼があの場所を「大切だ」と言ってくれる事を。
要件は終わり、私達は早々に通話を切ろうとした。積もる話とか取り留めのない話とか、そういうものが不似合いだと自分達で分かっていた。ここはまだ、あの日々の延長線上でしかなかったから。
「ではまた」と赤いボタンに人差し指を置きかけた時、先輩が『あ、あと一つだけ』と思い出したように言った。
「なんですか?」
『海は夏の終わりに行きたいけど、あの日君と見た海が間違いだと思った事は一度もないよ。あれはあれで一つの正解だろうし』
私が呆気に取られたのをよそに、先輩は『じゃあまた』と一方的に通話を切った。画面が切り替わり、更新されたトークアプリの一番上に先輩の名前が持ち上がっている。私が唐突な人間なら、彼はどこまでも自分勝手な人間だ。
足元に転がっているVR機器を手に取り、もう一度装着して座標を入れる。夕焼けの面影はもうどこにもなく、深い深い藍色をした夜空に小さな星々が浮かび上がり、海は月の青白い光を反射させてその色に光っている。夜の海も悪くないかもしれない。先輩は夜の海を見た事があるだろうか。
多分、私にとって正しい海の楽しみ方というのは、青でも黒でもなくて、あの日の赤だ。彼の隣に立って眺めていたあの海だ。それは先輩にとっても最適解ではなくても、最小公倍数くらいにはなっているだろう。
顔も名も知らぬ誰かのレビューをもう一度見て、ふと馬鹿な事を考える。もしかするとこの人も、私と同じなのかもしれない。忘れられない海があって、隣に並んでいた「誰か」を思い出して。自分と同じように、あの人もここを訪れていればいいなんて、あの人もここを「大切な場所だ」と言っていればいいなんて、そんな、夢みたいな話を想っているのかもしれない。
手元のコントローラーを操作し、私はコメントを書き残した。誰に宛てたものかと言われれば少し返答に困る。そんな大層なものじゃない。八年前からなんら変わらぬ、私がここに来たという九つ目の証だ。
『2026-03-09 人生で二番目に大切な場所です。けど、私にとっての正しい海には少し物足りないらしいです。次は現地に行って、この目でしっかりと見つめられたらいいなと思います。夕焼けの赤も、自分勝手なあの人も』
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