先輩と私 ②

 日差しは弱い。揺蕩う雲が行き場なく流れる。世界は三月の香りで満たされていた。

「泣かないの?」

「泣いて欲しいんですか」

「卒業の日、可愛い後輩に泣かれるのはよくあるシチュエーションだから」

「可愛くなくて悪かったですね」

 桜の樹の下には死体が埋まっているという。私が死んだら先輩に埋めて欲しい。殺したのが彼でなくても、それを埋めたのは自分なのだと、そんな罪悪感を呪いとして一生引き摺って欲しい。四季が巡る度、否が応でも私を思い出して欲しい。

「よかったですね、桜が綺麗で」

「開花予想ではまだ先になるって言ってたけど、見事に裏切ってくれたね」

 窓から見える青空の下、二匹の鳥が同じ軌道を描いて飛び回っている。私はそれをなんとなく眺めていた。

「先輩こそ、卒業式で泣いたりしなかったんですか」

「残念だけどそれはないかな。男ってそんなもんだよ」

「そうですね。なんか女子しか泣いてないイメージあります」

 自分で言っといて、自分が女子らしくないみたいな言い方だなと思った。そうなのかもしれない。想い人がいなくなってしまう今日だというのに、不思議と悲しみはあまりない。

「いつまでここにいるんですか」

「早く行って欲しいの?」

「卒業式の後すぐここに直行してきましたけど、友達とかと会わなくていいのかなって」

「友達とはいつでも会えるけど、ここに来れるのはもう最後だからね。今日くらいはいいよ」

 先輩は部室の事を言ってるのかもしれないけど、それは私も含めてのセリフみたいで少しムッとした。私とはいつでも会えると思っていないのか。今日が最後だと思ってるのか。

「私、いつでも先輩に会いに行きますから」

 静かに本を読む先輩に言う。先輩は活字を追いかけながら「何それ、告白?」と少し微笑んだ。私は「ご想像にお任せします」と言った。いっそ私の思う方に想像してくれればいいのにと思った。まあ、彼に限ってそれはないのかもしれない。

「そう思うなら、今日くらい本読むのやめましょうよ。最後に可愛い後輩とどうでもいい話をして感傷に浸りましょう」

「人には二種類の人間がいる。最後を特別に飾りたい人、最後だからこそいつも通りでいたい人。僕はどっちだと思う?」

 彼は何でもないように言う。口に出すまでもない。

「先輩はそうかもしれませんけど、私がそうじゃないかもしれない」

「なら君も本を読むといい。卒業式の後で本を読むのって馬鹿みたいで面白いよ」

「自分で言うんですか」

 何でもないように振る舞おうとすれば、逆に日常が分からなくなる。私はいつも、ここで何をしていたっけ。私は先輩と何を話していたっけ。

 鞄のチャックを開け、中から本を取り出す。隅に小さく桜の花びらが描かれた桃色のカバーがしてある。いつかの誕生日に、先輩から貰ったブックカバーだった。これ、何の本だったっけ。

「僕らが『いつも通り』だった瞬間なんてあったのかな」

 このまま終わってしまうのだろうか。彼は本を読み、私は本の内容を右から左に流して同じ行間を繰り返し読んで、それで、彼はいなくなってしまうのだろうか。

「……私、何度でも先輩と会います」

「また告白?」

 先輩は本から顔を上げ、少し笑って言った。私は笑わなかった。

「今日明日の約束じゃありません。来世でも、死んでも、会いに行きますから」

「これは告白です」と私が言うと、彼はほんの少しだけ驚いたような表情を見せた。窓の隙間から入り込んだ風が、少し伸びた先輩の髪を揺らす。ちょっとだけ、ざまあみろと思った。

「私が泣かないのは、私が可愛くないからじゃありません。それを確信してるからです。可愛い後輩が死んでも会いに行くって言ってるんですよ」

 桜のブックカバーを外す。表紙も背も裏表紙も真っ暗な本がある。どれだけ世界が変わろうとも、変わらない関係だけを綴った物語が、ここにはある。

 先輩は少し笑って、「そうだと思った」と言った。

「死んで出てきたら、僕が桜の樹の下にでも埋めてあげるよ」

「ええ、ぜひお願いします。忘れないでくださいね」

 想い人がいなくなってしまうというのに、不思議と悲しみはあまりない。だって、先輩とは「今」じゃなくたって会えるから。私と彼がなんであろうと、それでも私は私で、先輩は先輩なのだ。

 計り知れない喪失感は、まだ大事にとっておこう。私と先輩が幾度となく繰り返した別れの深い悲しみは、最後の日の涙としよう。きっとその先でだって、彼は振り返ってくれるから。笑ってくれるから。

 隙間風に流された桜の花びらが、窓の隙間を縫って部室へと運ばれてくる。私はそれをそっと拾い上げ、真っ黒な本に挟む事にした。この物語は一度ここで栞を挟むとしよう。

「ねえ、先輩」

 彼を呼ぶ。彼はいつもと変わらない表情で「なに?」と問う。きっと来世でも、私は彼を呼び続ける。

 本の表紙を見る。そこには、この物語のタイトルが記されている。


『先輩と私』

「ねえ、先輩。次はどんな風に会いましょうか」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

先輩と私 @maitakemaitakem

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る