階段
私は階段を下りている。先の見えない、長い永い階段だ。
そこには夜の空気がある。肌寒い夜、程よく肌に馴染む湿気を含んだ森の中のような夜の空気。けれど周囲は濃い霧に遮られ、樹木の一つも見えない。視界に入るのは下へと続く階段のみ。途方の無い、永遠にも感じられるそれを、私はひたすらに下りていく。
現実味がなく、ふわふわとした浮遊感があるような気がする。夢の中だと言われればそれで納得するような感覚だった。覚めない悪夢だと自覚した。
一体いつまで続くのだろう。どこに辿り着くのだろう。いや、そもそも辿り着く場所なんてあるのだろうか。ただ無意味に階段を下りているだけかもしれない。夢なら早く覚めてしまえと思わずにいられなかった。
ふと、足音が聞こえた。私の足音ではない、「誰か」の足音。私が下りている階段の、その先からそれは聞こえる。
濃淡な霧の中に人影が見えた。私は目を凝らしてそれを見る。が、向こうも同じ事を考えていたらしく、その場で歩みを止めてこちらの様子を伺っている。
睨み合いとも呼べないようなそれがしばらく続いて、飽きた私が足を踏み出すと、向こうも同じタイミングで足を踏み出した。構わず私は階段を下り続ける。構わず「誰か」も階段を上り続ける。
同じ階段を上る人と下りる人がいればいずれは鉢合わせるわけで。つまり、その「誰か」はようやく暗い霧の中から正体を現した。それは「私」だった。
私は全く同じ「私」が現れた事に驚いた。けど、向こうの「私」はそうでもなかったらしく、私を見るなりげんなりしたような表情を見せる。失礼な奴だ。自分と同じ顔だろ。
「私」は私に構わず、横を通り過ぎて階段を上ろうとする。階段を上がっていく「私」に私は「ねえ」と声をかけた。
「下には何があるの?」
「私」はこちらを振り向き、私を見下ろす。こう見ると案外顔は悪くないよなと思う。
「自分の目で確かめなよ。すぐに人に訊くのは私の悪い癖だ」
「でもいくら下りても下に着かないから。下から上ってきたなら何か知ってるんじゃないの?」
「私」は呆れたように溜め息を吐く。少しイラっとさせる表情だった。先輩の前ではなるべく溜め息なんてつかないようにしないと。
「じゃあ逆に聞くけど、上には何かあったの?」
「分からない。気付いたらここにいた。だからとりあえず下りてみる事にしただけ」
「なら私も同じだよ。下に何があるかなんて知らない」
そういえば、同じ階段なのにどうして私は下りるという選択をしたのだろう。まるで初めから他の選択肢が無かったみたいに、無意識にそれを選んでいた。
あの「私」もそうだ。どうして階段を上る選択をしたのだろう。どうして下りる選択をしなかったのだろう。
同じ事を考えていたのかもしれない。上にいる「私」が少し眉をひそめたような表情を見せた。
「私と貴女は何が違うんだろうね」
私が言うと、「私」は「知らないよ」と機嫌が悪そうな声で吐き捨てた。
「そっちの先輩はどう?」
私は更に訊ねる。「私」は少し目を丸くして明るい表情を覗かせた、ような気がする。分かりやすい奴だ。
「変わらないんじゃない? 部室で時間を無駄遣いしてる」
「つまらないね」
「でもそのつまらなさもあの人の魅力だよ」
「そんな事よく平気で言う」
「そこが私と貴女の違いじゃない? 言いたい事を言えるかどうか」
「私」は鼻で笑って言った。腹の立つ顔だ。ぶん殴ってやろうか。
「言いたい事を言えるのが美点だと考えてるのが馬鹿らしいよ」
「だったらいつまで『私』のままでいるつもり? 何も変わらないよ」
「もうそこが私と貴女の違いだよ。変化なんて無い方がいいに決まってる」
「なら貴女は永遠に幸せになんてなれないね。私は貴女より私の方が幸せだって胸張って言えるよ」
なんでもないように、淡々と「私」は言う。あの「私」は私とまるで違う生き物で、きっと永遠に分かり合えないのだろう。分かり合いたいとも思わないけど。
「私は『幸せ』っていう名前の場所がどこかにあるんだと思うよ。そこに辿り着いて初めて幸せだと言い張れる」
「私」のはっきりとしたその口調に、私は「違う」と断言した。
「その場所に向かうまでの道のりを『幸せ』って呼ぶ。その場所に辿り着かないと幸せになれないなんて、その事実がもう既に不幸だよ」
そこまでやや早口で言って、私は思い立った。この階段の名前はきっと「幸せ」だ。私は幸せまでの道のりの為に階段を下り、「私」は幸せという場所を求めて階段を上り続ける。
「私」も私と同じ事を考えていたのだろう。不機嫌そうな表情を見せるけど、あれは割と機嫌がいい時の私の顔だ。私だから分かる。
「道理で分かり合えないだけだよ」
「ほんとにね」
私は笑った。「私」もつられて少し、本当に少し笑った。そういえば私は先輩の前で素直に笑った事があっただろうか。あんなに可愛い顔で笑えるなら、もっと笑っていようと思った。
「私」の言うように幸せが固定的であるべきなのか、私が感じるように流動的であるべきなのか。正解はない。あの「私」はきっと、もう一つの正解なのだ。
「私」は「分かり合えると思えないけど」と前置きをして、少し見下したように笑った。
「部室の外で先輩に名前を読んでもらえるのは、中々に幸せだと思うけど?」
なんだこいつ、喧嘩売ってんのか。
それはつまり、「私」が「私」の全てを先輩に曝け出した事を意味していた。そうだろうと思う。私と先輩の関係が部室の中で、先輩と後輩という関係だけで完結しているのはあまりにも窮屈で寂しい。だけど私は窮屈の中にあるからこそ、小さな幸せが相対的に輝かしく見えるのだろうとも思う。
私は「私」の言葉を鼻で笑い、「分かり合えると思えないけど」と、はっきり喧嘩を売るつもりで言った。
「先輩が先輩だから私はあの人が好きなんだよ。それ以上に駒を進める事しか選べないなんて、貴女は可哀想だね」
見下されてるけど、見下してやった。前に進む事でしか何かを得られないと思っているなんて、残念な「私」だと心底思う。でも向こうは向こうで私を馬鹿にしているのだろう。やっぱり私達はどうしようもなく「私」なのだ。
「さようなら、不幸な私」
「うん、じゃあね。可哀想な私」
私と「私」は背を向け合って、それぞれの思う方向に階段を進む。
無性に先輩に会いたくなった。「もう一人の私と会ったんですよ」なんて言ったら、先輩はどんな顔をするだろうか。
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