第8話 大団円
あすみは、最近になって、急に結婚願望が出てきた。その理由は、
「自分は、依存症のところがある」
と思い始めたからだった。
寂しさには、さほど苦痛を感じないが、時々、我慢ができないことがあるという。何に我慢ができないのか、その時々で違っているのだが、欲求不満から来るものであることは分かっていた。
承認欲求によるものなのか、それとも、物理的な欲求なのか、それとも、肉体的な欲求なのか、とにかく、その原因は、
「不安にあるのだろう」
と感じたのだ。
「感と勘について」
という本に興味を持ったのも、そんな不安から何かを感じたのかも知れない。
今までであれば、小説などの文庫本を読むことはあっても、ハウツー本などはありえなかった。
それは、大学時代に付き合っていた男性が、結構なインテリで、よくハウツー本を勧められたからだった。
それ以外のことはさほど嫌な気がしなかったのだが、ハウツー本を勧めてくるのだけは、勘弁してほしかった。そのために、
「何度別れようと思ったことか」
と思ったが、結局、ズルズル付き合っている感じだった。
就職活動をするようになって、疎遠になってしまったことで、自然消滅のような形での別れになってしまったが、別れてからというもの、
「どうして、あんな人と付き合っていたんだろう?」
と感じたのを思い出した。
その時感じたのは、
「私は彼への依存度が高かったのかも知れないわ」
ということであった。
彼に対しての委ねる気持ちが強かったのだが、どうしてなのか、自分でも分からない。ただ、別れてしまうと、不安しか残らないことが怖かったのだ。
だが、就職活動をしていると、実際にそれどころではなくなっていて、実際に、彼氏どころではないというのが本音だった。
彼の方も、就活がうまくいっておらず、自分のことで精いっぱいで、あすみのことを気にすることなどなかった。
却って解放されたような気がしたくらいで、その時に、
「私は依存症のところがあるのかも知れない」
と感じたのだった。
実際に、別れてかれ、未練などはなかった。
どちらかというと彼の方が未練を持っているようで、別れてからも、時々連絡をよこしてきたが、一度我に返ったあすみには、もう彼に対しての依存心は一切なく、冷めた気持ちになっていたのだ。
だが、
「不安が募ってくれば、何かに依存してしまう性格」
ということだと思うようになり、就職してから、五年経ったあたりから、急に何かに不安を感じるようになっていた。
仕事は、それなりにこなしていたが、同期入社の女の子たちは、寿退社や、何かの事情で退社していったが、あすみは、会社にしがみついているという感じだった。
それほど、仕事に情熱があったわけではなく、
「会社を辞めてしまうと、もう、自分で自分を支えることができなくなるような気がしてきた」
と思っていたのだ。
そのうちに、言い知れぬ不安がこみあげてきて、
「何かに依存しないと、このままでは、まずいわ」
と思うようになった。
買い物もしてみたが、楽しくもなかった。そう思っていると、ふと立ち寄ったパチンコ屋でやってみたパチンコが結構楽しかった。
「二時間で、一万円も勝っちゃった」
ということで、いわゆる、
「ビギナーズラック」
だったのだろうが、勝てたことで、嵌ってしまったのだ。
パチンコをやっていて、最初は別に何も考えていたわけではない、
「ただ、面白い」
あるいは、
「時間を忘れさせてくれる」
というだけのもので、ここまで嵌ってしまうとは思ってもみなかった。
本屋にいけば、雑誌コーナーには、パチンコの攻略本などというのが、結構打っていた。ふと面白そうなので、買って読んでみたが、内容は、話題の機種のスペックであったり、演出の紹介であったり、あるいは、パチンコライターと呼ばれる人たちの、実践によるその台の面白さなどが書かれている。
ただ、問題は楽しいだけのものではなく、パチンコだってギャンブル性のある遊戯なのだから、勝つ時もあれば、負ける時もある。
重要なのは、いかにそれを見極めて、
「やめ時」
を探るかということであった。
何にしても、やめ時の見極めは大切である。世の中には、
「始めることよりも、やめることの方が数倍難しい」
と言われることがたくさんある、
その有名なところで、
「戦争と、結婚ではないか?」
と思うのだった。
戦争は特に相手が強大で、戦争を起こすことすら無謀な相手であっても、どうしても戦争をしなければいけない場合、考えることとすれば、
「まず最初に、奇襲攻撃などを行って、緒戦で相手を叩いておいて、相手の戦意を喪失させながら、こちらの主導権を奪う。制空権、制海権を握ることは必須であろう。そして、そのまま緒戦で勝利を続けていき、頃合いを見計らって、和平に持ち込む。そうすれば、一番いい条件で、和平を結んで、有利に戦争を終えることができるからである」
というのが、一番ベターな方法であろう。
その方法しか、弱小国が、世界の強大国に勝つ手はないのだ。
大東亜戦争の場合、勝ち続けるところまではよかったのだが、和平に持ち込むタイミングを逸したため、戦争継続の力もないのに、継続しなければいけなくなった。要するに、勝ち続けたことで、欲が出たのだ。
あれだけ、戦争をする前に、
「勝つにはこの方法しかない」
とあれだけ会議において決まったことであったのに、それを破るほど、今度は世論の声や、マスゴミの力が、政府や軍を盲目にさせたのだろう。
結婚にしたって、そうである。
「離婚は結婚の数倍のエネルギーを消費する」
つまり、それだけ難しいということだ。
結婚が、ポジティブなことしかないのであれば、離婚はネガティブでしかない。それでも離婚しなければいけないというのは、それだけ離婚という問題が大変だということであろう。
いろいろなことで揉めるのは当たり前のこと、財産分与。子供がいれば、親権の問題、話がこじれれば、調停であったり、最終的には裁判となる、
もっとも、その方があっさりしていて、しかも、証拠が残るから、離婚後揉めるということはないのだが、どちらにしても、時間とエネルギーを消費する。結婚してからすぐに離婚を考えたとしても、離婚までの期間はそれほど変わりはない。
新婚生活の楽しい時間よりも、離婚のための真剣な時期の方が長いというのは、何とも悲惨ではないだろうか。
ギャンブルも同じで、機種の特性を知ったうえでないと、どこでやめればいいのかということが分からないだろう。
そういう意味では、
「戦争も結婚も、ギャンブルと同じだ」
と言えるのではないだろうか。
いや、やめ時が始める時よりも難しかったり、労力を使ったりするものは、ギャンブルと同じだといっても過言ではないかも知れない。
そういう意味で、攻略本は、大切な資料だった。勉強しなければ、やみくもにお金を投資するだけで、楽しさを通り越してしまって、悲惨な目に遭ってしまうことだろう。
ただ、逆にいうと、
「攻略本でやめ時と覚えたとすると、今度はギャンブルへの怖さがなくなってきてしまうのではないか?」
とも思うようになってきた。
やはり、怖さがあるから、ある程度のところでやめることができるのであって、やめ時を本で理解しただけで、その恐怖を拭い去ったと思っていると、本をまともに信じると、それも危険である。
あくまでも、パチンコライターと呼ばれる人たちの主観であり、個人の意見であることに変わりはない。どこまで信じていいのかというのが重要だったりするのだ。
そういう意味で、あすみはパチンコにのめりこんでいった。
そして、そのことを自分で理解していなかった。そのことを依存症だと言われるということをである。
実際にパチンコをやっていると、嫌なことも忘れられるし、第一、パチンコをギャンブルだとして、毛嫌いしていた自分が、最初は、
「かなり昔のことだ」
と思っていたものが、今では、悪いことだとも思わなくなっていたのだ。
一種の、
「感覚がマヒしてきた」
というべきであろうか。
「どうせなら、パチンコに勝てるような台選びができるような、そんな勘が手に入ればいいのにな」
と感じていた。
それは、ヤマカンのような、あてずっぽうではない、実績や事実に基づいた理論からの勘である。
それは、いわゆる。
「感」
というものではないかという思いもないわけではなかった。
それが、この間本屋の、
「今月のベストセラー」
で見た、
「感と勘について」
という本だったのだ。
あの日も、本当は雑誌コーナーのパチンコ攻略本のコーナーを目的に行ったのだ。
最初に、攻略本を探した後、他のコーナーも見てみて、そこにあったのが、この本だったのだが、あくまでも、ただの興味本位であったことに変わりはなかった。
確かに、やめ時などのことを考えると、感や勘というものに頼る必要もある。
ただ、やめ時を考えなくてもいいくらいに、爆発する台を選びさえすれば、別にそれほど神経をとがらせることもないだろう。
しかし、最近の台というのは、以前に比べて、遊びやすくなっている割には、爆発的に出る台というのも、少なくなってきた。
最高出玉もある程度抑えられていて、ゲーム性も、当たりやすくなっているというわりに、それほど出ないのだから、昔からのファンからすれば、物足りなく見えるに違いない。
「今の台は疲れるだけだよ」
と、数時間粘ったとしても、昔ほど出るわけではなく、
「パチプロ泣かせというところなのかな?」
ということでもあった。
「パチンコなんてしょせん、遊戯なんだ」
と思えばそれまでなのだろうが、何となく寂しさがこみあげてくる。
しかし、初心者であるあさみは、そこまで考えていなかったが、依存症になっていることに徐々に気づくようになってきた。
最近では、パチンコ屋も依存症の人に対して結構気を遣っているようで、最初に申告しておけば、我を忘れて打ち始めても、店員が注意しに来てくれたりしたり、パチンコ屋に設置してあるATMのコーナーでは、一日引き落とし金額の上限が決まっていたりする。
ひょっとすると、おろせる回数も決まっているのかも知れないが、考えてみれば、近くのコンビニや銀行にいけばおろせるわけであって、本当に遊ぶ人はそこまで行っておろすだろうから、あまり関係ないことなのかも知れない。
申告しておいて、注意にきてもらうことも、注意はしてもらえるが、強制的にやめさせることは店側にはできない。これもある意味、おかしなことではあるのかも知れない。
それだけ依存症について、パチンコ屋側も気にはしているのだろうが、最後には客側の意識の問題になってくるのだった。
あすみは、自分が、
「ギャンブル依存症だ」
と、最初はまさか思ってもいなかった。
ギャンブルと言ってもパチンコしかしない。
競輪、競馬、競艇などのような公営ギャンブルはやらないし、宝くじすら買ったこともないくらいだったのだ。
「逆にそんな私だから、パチンコにのめりこんだのかも知れないわ」
と感じた。
なるほど、そう思うと、パチンコというものがどういうものなのか、そして、どうして嵌っていったのか、分かるような気がする。
しかし、それが分かっていても、簡単にやめることはできない。それこそ、
「やめることは、始めることの数倍のエネルギーを消費する」
という言葉を思い出すが、それと同時に、もう一つ大きな大切な言葉があるのだということを感じた。
その言葉というのは、
「覚悟」
というもので、普通は始める時に感じるものなのだろうが、やめることが数倍難しいと分かっているのは、その覚悟を始めた時と同じように持てないからではないかと思うのだった。
あすみはそんなことを考えながら、例の本を読んでいた。
「私にもパチンコをやめることができるかしら?」
という思いであったが、実際にはまだパチンコを悪いことだという意識がなかった。
やめてしまうことで、襲ってくる憔悴感の方が怖かった。だから、やめられないでいるのだ。
そんな時に読んだあの本で、一つあすみは感じたことがあったのだ。
「広義の意味で物事をとらえる」
ということを、あの本は言いたかったのだろう。
そして、その考えが、結局はやめる時の覚悟に繋がる。それは、両側に鏡を置いた時に永遠に見えている自分の姿を思い出させ、
「結局、どんなに無限にあっても、ゼロになることはないのだ」
ということを感じさせるのだと、あすみは感じていた。
「そういえば、心理学の先生が、あとがきで、自分も依存症に知らず知らずになっていたので、覚悟を求めて考えていると、この本の理屈に行きつぃた」
と書いていたではないか。
あすみはそのことを、自分のことのように感じていたのだった。そして、鏡の奥で自分がどんな顔になっているのか、一人一人自分の顔が違っていることに、次第に気づいてくるのだった……。
( 完 )
広義の意味による研究 森本 晃次 @kakku
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