第7話 夢と現実の挟間
最後の章では、今度はそれらの三つの話を、別の説として考えるわけではなく、確かに次元が別ではあるが、まるで、次元は違うが、空間は同じという感覚で、まるで四次元の世界を彷彿させる発想であり、
「並行世界」
あるいは、
「並行宇宙」
と呼ばれている。
いわゆる、パラレルワールドと呼ばれるものは、
「もしも、こうだったら、どうなっていたか>:
という、歴史に対しての挑戦的な発想の一つである。
歴史を勉強していると、
「歴史にもしもというのはないが、もしも、あの時、あの要人が暗殺されなかったら?」
という発想は、時代の分岐点になったとされる事件には、必ずと言っていいほど、存在している。
特に、暗殺などで、犯人が分からない時、
「犯人○○説」
と言って、いくつもの説が考えられるが、犯人が分かっている場合であっても、
「犯人黒幕説」
ということで、実際の実行犯以外に、どこかに黒幕がいるはずだと考えられる。
そもそも、それだけの大それた犯行を行うのは、いわゆる、クーデターによるものだろうから、実行犯が一人で行うことは考えにくい。
首謀者がいて、その人間が、同志を集めたり、あるいは、金で動く人間を雇ってきたりして、自分は表に出ないことが多いだろう。
出てくるとしても、まずはクーデターが成立してから、体制がある程度決してきてからでなければ、自分が表に出たところで、どこまで世間に認められるかという問題がある。
クーデターなどは、まわりから支持されなければ、ただの内紛のように見られてしまい、世間は決して、クーデターを起こした人間を許さないだろう。
特に日本人の場合は、
「判官びいき」
というものがある。
つまりは、弱い者に味方をするという精神が、歴史的にあって、クーデターを起こした人間たちに正当性があれば、全力で守ろうとするだろうが、勝手な思い込みでの暗殺は、ただの人殺しとしてしか見てくれない。
むしろ、殺された方を気の毒に思うからである。
この判官びいきというのは、元は、
「源義経」
が元祖である。
平家の滅亡という偉業を成し遂げた義経だったが、武家政治の確立を試みる兄の頼朝の反感を買った。
その理由は、朝廷の首領である後白河法皇から、
「頼朝の許可を得ずに、勝手に官位をもらった」
ということであった。
そのことは、最初から、頼朝に、
「勝手に官位を授かってはいけない」
と言われていたのに授かったのだ。
頼朝は、清盛や公家を見ていて、後白河法皇の策士としての手腕を恐れていて、利用されないようにしようと思っていたのに、義経としては、
「兄の命令とはいえ、直接、法皇がくれるという官位を断るというのは失礼であり、自分が官位を得ることは、鎌倉としても嬉しいことだろうから、後になれば、兄も許してくれるだろう」
という甘い考えがあったのだ。
そんな兄弟の考えの行き違いが、次第にお互いの意地、さらに鎌倉武士としての頼朝と、京都の朝廷のそばにいることで、朝廷こそが、世の中心だと思っている義経のあいだに、決定的な亀裂をもたらしたのだろう。
そのせいで、義経は逃亡を余儀なくされ、奥州藤原氏に身を寄せていたところを、裏切りにあって、殺されてしまった。
しかも、その藤原氏も、
「義経をかばった」
として、滅ぼされたのだ。
元々は、鎌倉に遠慮して裏切りまでして、保身に走ったのに、頼朝は、この時とばかりに奥州も平定し、全国支配という偉業を成し遂げたのだった。
義経の話も一つの大きな歴史の分岐点であろうが、この場合は、首謀者も黒幕も分かっているので、ここでいう、
「もしも」
という意味での、パラレルワールドとしては、あまり成立しない話になるであろう。
歴史的に大きい事件としては、
「大化の改新(乙巳の変)」
「平家滅亡」
「信長暗殺」
そして、
「坂本龍馬の暗殺」
になるであろう。
この四つには、共通点が多い。前述の犯人が分からない場合か、分かっていても黒幕が誰か? という点。
そしてもう一つは、
「彼らが殺されたことで、歴史が百年、逆行したのではないか?」
と言われていることである。
乙巳の変における、蘇我入鹿の殺害は、朝鮮と対等な関係でいた日本を、百済一辺倒にしてしまったことで、新羅、高句麗に責められ、白村江の戦いにおいて敗れたことで、都を何度も移さなければいけなくなるという意味での後退。
平家の滅亡は、福原の港を開拓し、海から中国大陸(宋)との貿易を推し進めていた平家の政策を、源氏の武士による封建制度の確立によって、世界の流れに逆行してしまったこと。
信長に関しては、その先験的な目を、光秀が暗殺してしまったことで、一人の改革者を葬ったということ。
竜馬に関しても同じであるが、ただ、竜馬の場合は、考え方が受け継がれていったことで、明治維新が曲がりなりにも成功したといえるのではないだろうか。
ただ、竜馬の夢見た維新と、本当に同じだったのかということは疑問が残ることではある。
そんな時代にも、それぞれに、
「もしも」
が存在する。
これ以外にも、
「関ヶ原で、裏切りがなく、西軍が勝っていたら?」
あるいは、細かい戦の中でも、
「石橋山の合戦において、穴倉に隠れている頼朝を、梶原景時が助けなければどうなっていたか?」
などがあるだろう、
そういう意味では、頼朝を殺さずに伊豆に流してしまった清盛が、最後の最後まで悔しがっていたということもある。
敗北した方を、その一族もろとも、相手の根絶やしにするという考えも、この時からきたものだ。
自分の孫婿であった豊臣秀頼を滅ぼした家康も、頭の中に、そのことがちらついていたに違いない。
歴史というのは、本当に、
「もしも、あの時……」
と考えてはいけないのだろうが、それを教訓に勉強するというのは大切なことである。
もっと言えばいろいろある。
「大東亜戦争の時の真珠湾攻撃、ミッドウェイなどの戦略であったり、本来であれば、最初に相手の出鼻をくじいて、その余勢をかって、いい条件での講和に持ち込むはずが、勝ちすぎたために、戦争をやめるきっかけを逸してしまった」
などというのも、
「もしも……」
があったとすれば、今の時代にどのように響いているか分からないだろう。
「ひょっとすると、日本は、どこかの国の植民地になり、下手をすると、アメリカの国土の一部になっていたかも知れない」
ともいえるのではないか。
歴史に対してのそのような、パラレルワールド的な話は、歴史小説などに書かれている。
ちなみに歴史小説と時代小説の違いを分かっているであろうか?
時代小説というのは、時代劇のような、まったく架空の話で、フィクションとして描いた現代小説の時代版とでもいうべきであろうが、歴史小説というのは、基本的な史実に基づいていて、登場人物は実在の人物であったりするが、ここでいう、
「もしも歴史が変わっていたら」
という観点から、
「歴史シュミレーション」
という形で、書かれているものである。
だから、今でもよく読まれている歴史小説は、主人公が、真田親子であったり、伊達政宗であったりする。面白いところでは、小説世界では、豊臣の配下の武将と、徳川配下の武将が、独立して、真田幸村を大将とした武将集団を結成したりして、面白おかしく書かれていたりする。
ただ、日本人は判官びいきなので、シュミレーション小説ともなると、
「豊臣方が正義で、徳川が悪」
として、歴史がひっくり返るようなシュミレーションになっているのだった。
歴史が好きなあすみは、そんな発想を時々していた。そして、歴史小説を読みながら、思いを戦国時代に馳せていたりしたのだが、歴史ばかりではなく、SFとしての、パラレルワールドにも興味を持った。
そして、そんなSFとしてのパラレルワールドには、人間の中の心理が影響しているのではないかと思うようになった。
そのきっかけになったのが、かくいう、
「感と勘の違い」
という小説であり、その中に書かれている、三つの説に引き込まれていったからだった。
その三つの説を考えていて、
「何か、親密な感覚を覚えるんだけど、何が原因なんだろう?」
と思ったが、すぐには分からなかった。
それも、最近考えたことなのか、学生時代に考えたことなのかもハッキリしない。
そもそも、一回だけだという思いもないので、その両方だったともいえるが、その一番近かったのがいつだったのかということも、ハッキリとはしないのだった。
それを思い出させたのが、ある日、夢から覚めた時だったというのは実に皮肉なことだった。
なぜなら、その感じたことというのが、
「夢と現実の狭間」
という感覚だったからだ。
それを、夢を見ていて感じるというのだから。これ以上、皮肉めいたことはないと感じたのだ。
確かに夢と現実というのは、昼と夜の世界のように、
「片方が表に出ている時は、もう片方は隠れている」
というものである。
「夢を見ている時は、現実の自分ではないにも関わらず、現実の自分の考えていることが分かるようだが、逆に現実の自分は、見た夢のことを、断片的に思い出すことができたとしても、それ以上思い出そうとして考えてしまうと、五里霧中の状態になってしまい、せっかく考えていたことまで忘れてしまうかのようになってしまう:
と感じるのだ。
夢から現実を考えることはできるが、現実から夢を感じようとすると、そこには、結界かバリアのようなものが張られていて、決して見ることができないという狭間が存在しているようだ。
「それだけ、夢というものが、現実よりも神秘な世界にあって、現実で考えている間は、決して、自分が感じているすべてのことを理解することは不可能なのだ」
と言えるだろう。
夢というものが、最優先され、現実は二の次だとすると、現実の世界で起こっていることは、自然に起こっていることのように感じるが、
「実は夢の世界から、支配されているものではないのだろうか?」
ともいえるのではないだろうか。
それは、まるでマジックミラーのようなものではないか。
こちらからは見えるが、相手からは見えない。逆であれば、相手からも見えている。
片方は鏡になっていて、片方は何でも通すガラスでしかない。それをマジックミラーだというのだが、そのマジックミラーの仕掛けは、光の強さの、その加減によるものだといえるだろう。
電車や車などに乗っていて、夜などの暗い時に走行していると、車だったら、室内の明かりは決してつけない。電車でも、客車は出にがついていても、運転席にはその光が及ばないようにブラインドを下ろしたり、光が来ないように、すりガラスになっていたりするではないか。
つまりは、マジックミラーの仕掛けというのは、
「裏と表の光の強さによるものだ」
と言えるのではないだろうか。
それが、夢と現実におけるバランスが、まるでマジックミラーのように見えて、そのマジックミラーが、夢と現実の間にある、結界のような狭間を作っているといえるのではないだろうか。
だから、現実側から見ると、鏡になっていて、夢の側から見ると、ガラスのようにsけて見えるのだ。
ここで一番大きな問題は、
「鏡でなければ、自分の姿を確認することができない」
ということだ。
自分の姿は、鏡のように反射するものが、画像か映像で映した媒体によるものでなければ確認することはできない。
それが、
「鏡というものの存在を肯定するものであり、理由でもあるのではないか?」
と感じさせるのであった。
そして、この両側から見えているものが、
「どちらも鏡だということになると、それが、感と勘の違いということになるのではないか?」
と感じたのだ、
特に最後の説である、
「マトリョシカのように、入れ子になったものが、感と勘の違いだ」
という話を見た時、その説明の中にあった。
「自分の左右に鏡を置いて、どちらかを見た時、どのように見えるか?」
という発想で、
「夢と現実では、お互いがどちらも鏡でもガラスでもない状態の不安定なもの」
というようなことを感じたので、本来なら、違うものとして考えなければいけないのだろうが、パラレルワールドという発想からも、まったく別のものとして考えることは難しかった。
それを思うと。あの本の中にあった、
「負のスパイラル」
として、DNA細胞のように、螺旋階段が重なっているものを感じると、何となくであるが、
「夢と現実の狭間」
を感じてしまうのだ。
ここで重要なのは、
「狭間」
という言葉がついていることだ。
二つのあいだに自分の身体を置いた時、片方は鏡に見えて、片方は、ガラスのように向こうが見えてしまう。そうなると、鏡のある、夢の側でしか、自分を見ることができないわけだが、夢の中で自分というものを絶えず見るわけではない。
むしろ、見ることができないといってもいいだろう。
逆に自分が見えてしまうと、これほどの恐怖はなく、そんな夢を見てしまうと、見た夢を忘れてしまいたいと思っているのに、忘れることなく目が覚めてしまう。そのため、恐怖がずっと残ってしまって、果たしてどうすればいいのか分からない状態になってしまうのだった。
小説を読んでいる間に、そこまで考えたわけではない。
最初によみ終えた時、何かゾクゾクしたものが、どこかにあった。それが何か分からずに読み直していると、それが、自分の気持ちの中で、
「何かに似ている」
と感じたのだった。
再度、読み返したのだが、この時は二度目に読み直した時よりも、さらに時間を開けた。
最初は、三日ほど期間を開けたのだが、二回目から三回目の時は、二週間ほど開けたのだった。
その期間の根拠は、
「これ以上、読まないでいると、前に読んだ内容を忘れてしまいそうになる」
と感じたことと、
「これ以上読まないで放っておくと、再読しようという気が起こらない」
と感覚に到達していたことの二つであった。
まさか、この二つが、感覚的に一致したものだったなんて、思ってもいなかった。
まったく違った感覚だと思っていたのに、どうしてそんな風に感じたのかということを考えると、
「そうか、小説の内容が内容だからな」
と感じたからではないだろうか。
そして、小説を読み直していくうちに、二回目までは、途中でふと立ち止まるような意識が頭に芽生えても、立ち止まることなく、読み進んでいた。
なぜなら、
「ここで立ち止まったら、自分がなぜここで立ち止まろうという気持ちになったのかが分からなくなる気がしたからじゃないかしら?」
と思ったからだった。
しかし、三回目はさすがに、読み込んでいくうちに、先の内容が次第に思い出されて、
「今回は立ち止まってもいいんだ」
と思うようになり。立ち止まって考えてみることにした。
すると、その時目を瞑って頭に浮かんできたのが、DNA細胞の図だったのだ。
螺旋階段が交わらないように伸びているのを図にした模様は、何かを暗示させているように思うと、
「曲線であるが、交わることのない平行線」
を感じたのだ。
そこで思いついた言葉が、
「並行世界」
だった。
この言葉はどこかで聞いた言葉であるのは思い出し、並行世界というのが、何かの別名であるという意識もあった。
しかし、それがパラレルワールドだとは最初思わなかった。なぜなら、その頃まで、パラレルワールドという言葉を、勘違いして覚えていたからだ。
「違う次元で同じ空間に存在するもう一つの世界」
これがパラレルワールドのことなのに、
「次の瞬間に末広がりのように無限に広がる可能性」
これを、パラレルワールドだと思っていた。
「ひょっとすると、この考えも広義の意味でのパラレルワールドなのかも知れない」
と考えた。
どこまでが、正しいのかあすみには分からない。
しかし、考えてみると、この本自体が、
「広義の意味」
というものを、考えることが本質ではなかったか。
それを思うと、
「感と勘の違い」
という感覚も、
「夢と現実の狭間」
という考え方も、どちらかを広義の意味で考える必要があるということで、この言葉が頭に浮かんできたのかも知れない。
他にもそれぞれ、
「交わることのない平行線」
であって、前述の二つと似たものであるものが存在するとすれば、何度か読み直しているうちに、その発想をひとつづつ感じることができるのではないかと思うのだった。
ただ、今のところ読み返しは三回目しかしていないのであった。
三回目の読み直しをしていると、
「これ以上の読み直しをしても、新たな発見はできないかも知れない」
と感じたのだ。
確かに、本を読み直すと、新たな発見が、その都度あるだろう。
しかし、読み返してみて発見があるといっても、限度がある。さすがに十回も、二十回も読み直すということはしないだろう。現実的ではないからだ。
セリフの一言一言まで覚えるくらい読み返したとしても、新たな発見ができなければ同じことである。
今回は三回だったが、他の本であれば、二回かも知れないし、四回かも知れない。それは本の難易度と、自分が本に立ち向かう上での、覚悟のようなものがどれほどなのかによって変わってくるだろう。
そういう意味で、今回は、三回がちょうどよかったのだった。
さらに一年経ってから、
「もう一度読み直してみよう」
と思うかも知れない。
しかし。sの時に新たな発見ができそうな気もしない。もし読むのであれば、この先生の違う本を読むことになるか、あるいは別の心理学の先生の本を読むのではないかと思うような気がした。
小説というものを読む場合と、ハウツーものを読む場合とでは、読み方が変わってくる。ハウツー本は後から読み直すとしても、普通は、頭から読み直すということはあまりない。自分が気になっている部分を、切り取る形で読み返すようになるので、頭から読み直すということはあまりない。
小説のように、起承転結になっていないからだというのが理由だが、この本は小説のように、起承転結になっている。
しかも、理論を時系列のようにして並べているので、ある意味、切り取って見るには、ふさわしくない本だといえるだろう。
明らかに小説ではないのだが、
「限りなく小説に近い」
という意味で、読み返している。
そして、この小説を頭から読み直す意義という意味で、一番感じたのは
「広義の意味」
という内容が含まれていることであった。
それぞれの章で、それぞれの考え方を述べているが、理解しやすいものから並べているのだが、実は二番目が一番理解しにくいもののように読めるのだ。
本当は自分が言いたい一番最後が難しいのだが、二番目に、最初の話の反論のような形で載せているので、順序としてはしょうがないところがあるだろう。
それでも、時系列のような感覚があるように感じられるのは、理論で攻めていくと、この形にしかならないからだろう。
そして、第一砲と第二章のあいだの共通点は、
「広義の意味で考える」
ということであった。
考え方を広げることで、比較対象を含んでしまうというものであるが、この理屈がなかなか理解できずに、読み返したといっても過言ではないだろう。
そして、読み直しが三回目に至った時、
「夢と現実の狭間」
という発想が思いついたのだ。
その時に、先生の本である、
「感と勘について」
という本で、それらの違いについてを考えた時、
「夢と現実の狭間」
とは明らかな違いを発見した。
それが、、
「鏡とガラスの関係」
であり、まるで、マジックミラーのようになっている状況を創造したからであった。
マジックミラーのように、どちらからしか見えないという発想は、
「感と勘」
の間にはない。
そこにあるのは、永遠に自分の姿が映り続けるという、鏡の特性のようなものであった。
三回読み直して、その発想にやっと行きついた時、
「もうこれ以上読み直しても、あまり意味はない」
というようなことを思ったのだった。
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