第6話 本の後半部分
「感と勘の違い」
という本の前半部分は、これ以上ないというくらいに、分かりやすく書かれていた。
「これだったら、心理学の入門書としては、合格だ」
と言えるであろう。
前半部分は、
「勘というのが、感の中に含まれる」
といいことが書かれていた。
そして、含む方は、できるだけ広義に解釈するという意味で、感という言葉が含まれている言葉を分類することで、どれだけの幅とその言葉の属性や意味について迫ることで、広義に考えられるかということを、理論的に示していた。
さて、そんな前半は実に読みやすく、理解もしやすかったので、
「さぞや後半もそこまで難しく読みにくいということもないだろう」
とタカをくくっていたのだった。
だが、それはかなり甘かったようだ。読み進んでいるうちに、次第に暗雲が立ち込めてきているようで、次第に不安しかなくなってきた。
「やっぱり、難しいわ」
と感じ、それまで考えた、
「入門書だと思えば、そんなに難しくはないはず」
と思っていたことが間違いだったと、今さらながらに思い知らされた。
だからと言って、
「読むんじゃなかった」
というような気持ちになったわけではない。
できれば、ゆっくりと読むことで、理解できることもあると思い、場合によっては、途中であっても、読み直すくらいのところがあってしかるべきだと思うのだった。
大学での教材としてのテキストであれば、講義が伴っているので、質問をすることもできるだろう。
しかし、作者はどこの誰だか知らない人であり、しかも、自分は心理学の専門家でもない。
そんな自分が、
「今月のベストセラー」
というコーナーを覗いた時、タイトルに興味を持ち、心理学という、今まで興味はあったが、一歩踏み出す勇気がなかったということで、見ようとsなかった学問に、勇気を持つことはできたので、できるなら、読破したいという思いは強いのだった。
他の、
「今月のベストセラー」
というコーナーでは、他には、ちょうど世界的に流行していた、
「訳の分からない伝染病」
という意味で、それに類似した作品が多かった。
学者の中には、数年前から、このような伝染病が世界的に流行するということを予言している人はたくさんいた。
考えてみれば、二十年前からでも、いくつもの伝染病が流行ったりした。
しかし、幸か不幸か、今まで日本で爆発的な流行が発生するなどということはなかったので、事なきを得てきただけのことだった。
今回は、世界的なものであり、日本だけが例外というわけにもいかない。
それだけ、以前他の伝染病で苦しんだ国は、その時の教訓から、医療体制も何とか行き届いているのだろうが、何ら、知識も、教訓も、さらには、備えもない日本においては、他の国に比べれば、それほどの感染者を出しているわけでもないのに、医療崩壊になっているという、
「国家として恥ずべき状態」
になっているにも関わらず、まだ水際対策で、どんどん外人どもが入ってくるという体たらく、これをどのように言えばいいのか、
「政府はバカの集まり」
というだけでいいのだろうか?
世の中なんてそんなものなのかも知れない。
本屋では、文庫本も結構あったのが印象的だった。
文庫本というと、最近発行された本が同時発行で文庫本になることもあるが、普通は、まず硬い表紙の本が発売され、それから少しして文庫本をして発行されることが多い。
それを考えるとそこに並んでいた本は、昨今の世界的な伝染病流行に乗っかって発行された本ではなく、それ以前の本だということになるだろう。
つまりは、
「以前の作家には、すでに今回のような伝染病を予知していた人がいるということになるのだろうか?」
と考えられる、
実際に起きるとして、警鐘の意味で著した人もいるだろうが、
「今の時代なら、何が起こっても不思議はない」
という発想から、世界的なパンデミックを妄想し、小説に書いたのだろう。
そこには、
「これはあくまでもフィクションであって、未来永劫、起こってほしくないという意味を込めて書いた」
という作家もいるだろうし、
「単純に、面白いと思うことを書いただけで、世の中なんか、どうなろうが知ったことではない」
と思っている作家も多いはずだ。
ここから先は、作者の意見も入ってくるが、あくまでも、アマチュア作家の考え方であるので、ご了承あれ。
ここから先は、作者の意見も入ってくるが、あくまでも、アマチュア作家の考え方であるので、ご了承あれ。
小説を書いていると、普段思っている妄想として抱いたことを、そのまま作品に反映させるようにしている。変に考えてしまうと、筆が進まなくなるからだ。
そのため、何か理不尽なことや怒りがあれば、その感情に任せて筆を動かすことが、一番だと思っている。
もっとも、今は筆ではなく、キーボードを叩く指の動きであるが……。
小説を書いていると、一日に一回はどこかで、
「自分の妄想に支配されたのではないか?」
と感じることがある。
もちろn、最初の頃はそんなことを考えることもなかったが、なぜそんなことを考えるのかというと、それだけ、小説を書いている時間が集中しているからである。
「タイムマシンに乗ってタイムトラベルをすれば、こんな感覚なんだろうな」
と感じるのだ。
集中していると、自分がプロになったのかというような錯覚に陥る時がある。それは、自分で感じている時間に比べて、実際にめちゃくちゃ進んでいるからだ。
「俺って、天才?」
と思うのだ。
しかし、それこそ錯覚というものであり、実際に書いた分量は間違いないのだから、感じている時間の感覚に錯覚があるのではないかと思い、時計を見ると、案の定、すでに一時間近く経っていたりするわけだ。
だからと言って、悲観することはない。
時間の感覚がマヒするほど、集中できているという証拠なのだし、それだけ、何も考えずとも、妄想だけで書き続けられているということでもある。
つまりは、自分が書きたい、書けるようになるための自分なりの構想通りに進んでいるということであり、喜ばしいことである。
別にそんなに必要以上に早く書けたからと言って、言い方を変えれば、
「タイピングは人よりも早い」
というだけで、小説執筆には、何ら関係のないことなのかも知れない。
それを思うと、
「この際、自分はアマチュアなのだから、天才である必要もない」
と、なぜか考えた。
それは、きっと、
「将来プロになりたくない」
と感じることになることへの伏線のようなものだったのかも知れない。
それを思うと、その伏線回収は、十分にできていて、今はこのままゆっくりと、誰の指図も、締め切りなども一切なく、
「質よりも量」
をモットーに書き続けることになるだろう。
それが自分の中で、
「自分の妄想に支配されたのではないか?」
と考えていることになるのだろう。
いろいろ妄想していると、今回のベストセラーなる本は、昔から言われていたことではないかと言える気がする。
確かに、昔見た映画の中には、どこかの政府の手先のような連中が、ジュネーブの細菌研究センターに忍びこんで、情報を盗み出そうとしたのを、警備員に見つかって、研究室で、銃撃戦になったことで、細菌の入った瓶が割れてしまい。病原菌をもろに浴びてしまった状態で、逃走したというところから始まっていた。
彼らは列車に潜り込み、その列車の中で発病し、たまたま乗り合わせて医者が、病原菌の患者を助けていくというような話であった。
この話で何が怖かったかと言って、最後に(曲がりなりではあったが)解決したところを出ようとした司令官の後ろから、つけている別の国家公安のスパイがいたのを見た時は、ゾットしたものだった。
あの作品は、まだ昭和五十年代の作品だったと思う。あれから、四十五年が経っているというのに、世界は似たようなことをしているのだ。
要するに、昔の映画も、今回の、訳の分からない伝染病の流行も、
「人災だ」
ということでしかないからだ。
さすがにその作品の原作本はベストセラーではなかったが、翻訳本を読んでみたいと思ったほどだった。
映画にしても、今回の伝染病にしても、政府が絡んだ研究が問題になっているのだろう。それを明らかにしたくないから、この本をベストセラーにしたくないという考えは邪推だろうか。
とにかく、古すぎるというのもあるのだろうが、他にももっとたくさん、似たような作品はあるだろう、これこそ、世の中は、
「一体どうなっているんだ」
と叫びたいほどではないだろうか。
話は戻るが、この本の最初の章については、前述のとおりなのだが、ここからが、実に難しい解釈になる。
最初の解釈とすれば、
「勘というものが、感の中に含まれる」
というものであったが、次の章ではまったく逆の発想であった。
つまりは、
「感というものが、勘の中に含まれる」
という考えであった。
前述の法則のように、今度は、勘を広義の意味で考えようとするのだが、なかなかうまく発想できない。
できたとしても、ヤマカンのようなものや霊感のようなもの、いわゆる、
「でっちあげ」
であったり、
「占い」
の類を、一つの勘というのであろう。
そこに第六感という発想が入ってきて、
「第六感が、すべての勘を網羅している」
という発想だったとすれば、
「感というmおのが、勘の中に含まれる」
という考えも成り立たないとは言えないだろう。
そんなことを考えていると、第六感というものが、どこからきているのかということを考える必要がある。
本当に人間は感じている、五感以外の感覚であるとすると、確かに、
「あてずっぽう」
であったり、
「占い」
などの類に近いものがあるに違いない。
しかし、いくら第六感が曖昧だとしても、それは人間が直接感じている、感覚以外にも、間接的に感じるものもあるのではないだろうか。
いろいろ考えてみると、なかなか思いつかない。あり得るとすれば、超能力の範疇とされるところの、
「予知能力」
のようなものかも知れない。
超能力というのは、頭の中で使われていない部分であり、実際には誰にでもあるというものなので、どう解釈するかということが問題になるのだった。
そんな超能力の一種のように思える予知能力も、そういう意味では、誰にでもあるものだが、それを表に出せないのは、
「自分自身に、能力があるということを信じていないからだ」
と、本には書いていた。
予知能力などは、実際に自分で予見できるものも中にはあるかも知れない。状況判断だけで、実際に分かることだってあるだろう。
それを予知能力として、まるで超能力のように感じるのが、ある意味おかしいのではないか。そう思うと、
「超能力なのだから」
と言って、信じないというのも滑稽な話である。
ただ、そうなると、この場合の、
「予見」
というのは、第六感というものとも違っているようで、それだけに、勘というものの範囲を簡単に広げるというのも難しいだろう。
それなのに、この本を書いた心理学の先生は敢えて、
「感というものが、勘の中に含まれる」
と書いているのには、何か他に理由があるのではないか。
そう思って、先を読み込んでいくと、どうやら、今回の考え方は、前章までの考え方と若干違っているかのようだった。
確かに、第六感というものが、
「広義の意味での勘」
という意識を持っているところまでは、間違いないようなのだが、
「勘というのは、あくまでも感じることであって、超能力とは違うのだ」
という。
超能力というのは、感覚というよりも、元々潜在しているもので、それが無意識に出てくるものではないかというのだ。
テレビドラマやマンガなどでは、超能力というと、それを持っている人が、自分の意志で動かしているように描かれているが、実際の超能力というのはそうではなく、自分の意思に関係なく、勝手に行っていることだという。
だから、自分には超能力を制御する力がない。誰にでも備わっている超能力を信じようとしない意識には、無意識に、
「超能力が表に出てしまっては、自分で制御することができないので、出てきてもらっては困る」
という感覚があるからだった。
そういう意味では、超能力と呼ばれるものを潜在的に抑えているこの力も、一種の超能力だといえるのではないだろうか。
自分の中で、抑えようとするこの力こそが、一種の第六感なのではないのだろうか。
一種の、
「でっちあげ」
や、
「占い」
などというものとは程遠いもののように感じられるが、冷静になって考えてたどり着いた考えなので、それを、第六感と言わずとも、
「勘」
とは言えるのかも知れない。
広義の意味ということでの、「勘」という発想ではなかったが、結果として辿り着いたのだ。
そうなってくると、抑えようとしている超能力を実際に抑えている力が、勘だと考えると、
「抑えようとしている力というのが、一種類だけなのだろうか?」
と感じるのだ、
超能力一つ一つに別々の抑止力のようなものが存在しているのだとすれば、超能力の数だけ、勘と言える力も存在していると考えると、感というものに対して、対抗するだけの数を持っているのかも知れない。
「感というものが、勘の中に含まれる」
という言葉もまんざらでもないといえるのではないかと考えると、心理学の先生が何をいいたいのか、はっきりとは分からないが、その発想が新たな発想を生むといえるのではないだろうか。
そんな中で、次第に話が理解困難になっていった。難解な言葉が飛び交うようになり、その中で、次第に、
「専門書を読んでいるようだ」
という感覚に襲われていったのだ。
考えてみれば、そこまでが結構優しい表現をしていたので、
「専門書にあらず」
と思っていたが、心理学、感覚について、などというキーワードだけでも、十分に専門性が入っているではないか、
しかし、そんな話を、
「いかに難しくしないようにしなければならない」
というような、作者の考えが入っているから、かなり砕けた感じの話になっていて、こうやって、人に説明できるくらいのものだったのだ。
それでも、話が著者である心理学の先生の真骨頂ともいえる、難しい話に入ってくると、今度は、なるべく砕けて話そうとすると、理解できるまでいかに砕けさせるかというところが難しい。
つまり、説明できるだけの内容のものを、いかに理解できるだけ砕けさせるかということになると、その間にどうしても、そのどちらにも妥協が必要で、いかに説明できるだけの話にしようとも、どこかで妥協しないと、こちらの意見をすべて、説明しきれないと思っていることだろう。
逆に、理解できるだけ砕けさせてしまうと、説明が行き届かないので、いかに分かりやすい妥協をしないといけないかという線引きが難しいのだ。
そうなってくると、きっと書いている先生の方で、ジレンマが出てきて、そのジレンマに耐えながら書いているというのも、同じようにきついに違いない。
ところどころで、その思いが垣間見えるような気がした。
先生の怒りを感じさせるフレーズが見え隠れしていて、その話の先にあるものが次第にぼやけてきたのか、それとも、先生なりに書いていて、どこか感覚がマヒしてきたのか、さすがに次第に文章が難しくなってくるようだった。
怒りが、文章を難しくしているのか、文章が難しいから、怒りがこみあげているように見えるのか、そのことを考えていたが、やはりそれは、自分の中で妥協を見つけようという葛藤が、そのように見せているのかも知れない。
そう考えて読んでいると、何がいいたいのかということは、おぼろげに分かってきたような気がした。
本当は、先生のいいたいのは、ここではないのだ。最初の章といい、二つ目のこの章といい、三つ目の章に出してくる、独自の発想への、いわゆる、
「前奏曲」
でしかないのだろう。
そのことを分かっていると、この章でどんなに難しいことを書いていても、あくまでもそれが前奏曲の一部でしかないと思いと、難しい部分が重要ではないのだということが分かる。
ただ、ここで少し理解しておくと、その後の最後の章でも、出てくるであろう難解な内容に、少しでも馴染めるかも知れない。
この章の難解な専門的な話は、そう思って読んでいると、何となくではあるが、それこそ、
「次章を読んでいると、知らず知らずに思い出されるものなのではないか」
と感じるのだった。
しかも、キーワードの、
「感じる」
ということを思わせるので、繋がりとしても、偶然ではあるが、考えられるものなのだろうと思うと、そのことに気づいた自分には、
「この本を理解することができるかも知れない」
とも感じたのだった。
第三章を、
「いよいよ、この本のクライマックスだ」
と思って読み進んでいくと、次第に自分が本に吸い込まれていくような気がしてくるのだった。
ただ、それはまったく想像していなかったことではなく、その内容も、
「何となく、こう来るのではないか?」
と思っていたことから、余計に、
「想定内の内容」
と考えるようになったのだった。
次の第三章の内容としては、
「感と勘が、それぞれ入れ子になっている」
というような、一番難解なキーワードになっていた。
しかし、この理論は、前述の二つのキーワードからであれば、想像できないことではない。
つまり、まるでマトリョシカ人形のように、
「感の中に勘があり、その勘を開けると、その中にまた、感があった」
というのを繰り返していっているかのような感覚である。
ただ、マトリョシカと違うのは、人形の中から人形というように、同じものがどんどん出てくるというものではない。そこが一番の違いなのだ。
そして、もう一つ言えることとして、
「何かの中に何かがあるという考え方は、左右に鏡を置いて、その真ん中に自分がいる場合と同じようで、その片方を見るとどう見えるか。そこには、無限に続いている自分が見えているだろう」
というのは、この発想の根源のようなものであった。
その時に重要だといえるのは、マトリョシカのようなハッキリとして見えているものには、その限りではないが、
「どんなに小さくなっていったとしても、ゼロになるということはない」
ということであった。
つまりは、無になるということはないということであり、これが一番言いたいことなのかも知れない。
ゼロという数字は実に神秘的な数字である。
もちろん、無限というのも神秘的であるが、ゼロという数字は、数学において、
「許されない計算を行うことのできる数字」
になるのだ。
例えば、元がどんな数字であっても、
「ゼロで割る」
ということは、数学的に許されないものということになっている。
「セロ除算」
とも言われていて、
「ゼロで割るということは数学的な理論では考えられないことなので、許されないことだ」
と言われている。
逆に、答えとなるものに、ゼロを掛けると、最初の元になった数になるというのが、数学的な考えである。
しかし、ゼロという数字は、何を掛けても、答えはゼロにしかならない。つまりは、最初から元になる数字は、ゼロでなければいけないということになるが、そうなると、答えも決まってくるのだ。
数学で、
「同じものから同じものを割ると、一になる」
というのが、言われている計算方法ではないか。
それを考えると、そもそも、どこを切っても説明のできないものであり、それゆえに、
「許されない」
ということになるのだろう。
そういう意味で、先生の考え方としては、
「無限という考えは大いにありなのだが、この、感と勘の関係という中において、ゼロという考え方は出てきてはいけないもの」
という意味で考え始めた発想が、この入れ子という発想だという。
元々は、
「負のスパイラル」
というところから思いついたものだという。
螺旋階段が、二つ、それぞれに交わらないように重なって繋がっている。まるで、DNA細胞を見ているようにも思えるが、まるで、
「曲線における、交わることのない平行線を描いているようではないか」
ということになるのだ。
この発想が、
「感と勘が、それぞれ入れ子になっている」
ということであり、作者の心理学の先生が一番言いたかったことである。
先生は最後の章のこの説を押しているようで、そういう意味で、前の章が、その前奏曲だということになるのだろう。
ある意味、本当はこの説が一番難しいはずなのだが、前節で、少しカオスな内容になっていたことで、何となくも分かる気がした。特に、螺旋階段のくだりと、DNA細胞というたとえ、さらに、両面に置かれた鏡という意識が、かなり分かりやすかった。それを思うと、この本を読みたかったというのも、この本を見つけたという偶然も、この本の中にある、
「勘」
の中の、いわゆる、
「第六感」
に結びついてくるのだろうと思うのだった。
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