第5話
ナギサは路線バスと徒歩で島をぶらりと回ったが、カスミの手掛かりすら掴めなかった。
久々の帰省であるためか、やはりどこか観光気分だった。何が何でもカスミを捜し出すという心持ちではないことに、ナギサは気づいていない。
陽が暮れて暗くなったので、その日は実家に帰った。
ナギサは夕飯と風呂を済ませ、自室で本棚や机の引き出しを漁った。懐かしいものが次々と出てきた。
ふと――文庫本のページに、四つ葉のクローバーの栞が挟まっているのを見つけた。ラミネート加工された葉はまだ緑色であり、原型を保っていた。過去に比べ読書の時間が減ったが、まだ読書はナギサの唯一の趣味だ。都心の自宅に持って帰ろうと、大切に鞄へ仕舞った。
午後十一時を過ぎ、ナギサは自室のベッドで就寝した。昨日のフェリーよりも、自宅よりも、よりぐっすりと眠ることが出来た。
ナギサが次に目を覚ました時、どこか暗い所に立っていた。
「……ここは?」
潮の匂いがする。波の音が聞こえる。
そして、目の前では大きな満月が縦にふたつ、綺麗に並んでいる。上が実像で、下は反射した虚像だ。
ここは海――砂浜に立っているのだと、ナギサは理解した。
どうしてここに? まさか、夢遊病のように歩いてきたのだろうかと、疑問を持つ。しかし、ぼんやりとした意識は場所の認識に働いた。
暗いが、見覚えのある所だった。島にいくつかある浜辺のひとつ、実家から最も近い所だ。夏場は海水浴場として開放されるここも、二月の夜は人気が無かった。
いや、ひとつだけあった。
ナギサは横に振り向くと、少し離れた所に人影があった。月明りに照らされていたのは――
「カスミ?」
捜していた人物が、紛れもなく佇んでいた。
「ナギサちゃん……。やっと会えたね」
いつもの明るい笑顔を向けられる。
ようやく目的を果たしたと、ナギサは思うが――足を踏み出せなかった。
再会の喜びは湧かない。代わりに、正体のわからない違和感がまとわりつく。
並んで立っているのは、確かに双子の姉だ。決して見間違うことは無いと、自信があった。
そう。違和感があるのは、カスミにではない。現在こうして立っている『この場所』が不自然だと、ナギサは思った。
二月だが、寒くもなければ暑くもないことに気づいた。頭がぼんやりしているとはいえ、水中にゆっくりと沈むような、ふわふわした奇妙な感覚だった。
「違います。ここは――」
前方に視線を戻す。
夜空には星々と共に、満月が浮かんでいた。それを海面が映していた。
綺麗という次元ではない。海面に波があるのに、満月は一切揺れていない。まるで、本物の鏡だ。夜空と海は、水平線を境に完璧な上下対称の景色だった。
現実では起こり得ない現象を、見せられていた。具体的な違和感の正体は、これだった。
「そうだよ……。ここは、夢の中」
カスミが答えを告げる。
「ナギサちゃんが望む世界」
そして、憐れむような儚い笑みを向ける。
夢の中での再会を、ナギサは不思議と受け入れることが出来た。だが、ひとつだけ疑問点があった。
「カスミは……どっちなんですか?」
この人物は、自分の持つ記憶が作り出したものなのか――それとも、カスミ自身が双子として干渉しているものなのか。
ナギサは、夢の共有がこれまであったとも言えるし、なかったとも言える。夢の内容が思い出せないように、正確には思い出せない。しかし、現在の感覚をこれまでも味わったことがあるような気がする。
せめて後者であって欲しいと願う。カスミの
「別に、どっちでもよくない?」
しかし、カスミはナギサの問いに答えなかった。
さっきまでと一変して、歯を見せて笑う姿に、ナギサは追及する気になれなかった。
「あたしは、ただ……ナギサちゃんが望むようにしてるだけ」
カスミは脱力気味に、その場に座り込んだ。そして、ナギサを見上げて隣の地面を叩いた。
ようやくナギサの足が動いた。カスミの隣に座り、上下対称の奇妙な景色を眺めた。
「それじゃあ、どうして急に出て行ったんですか? わたしはずっと、カスミと一緒に居たいのに……」
「だから、ナギサちゃんがそう望んでるからだよ」
ナギサはカスミの顔を覗き込んで訊ねるが、カスミは正面から視線を動かさなかった。
「本当は、あたしから離れてひとりで歩きたいって思ってる……。だから、こんなカタチでしか会えないの」
嘘だ。カスミとずっと一緒に居たいという気持ちは、本物だ。離れたいなんて、そんなはずがない。
ナギサは瞬時に否定する。だが、そのように言われて――どうしてか、思い当たる節が全く無いような気がした。
「それじゃあ……わたしが本当に会いたいと望んだら、ちゃんと会ってくれるんですか?」
動揺を見透かされているのかもしれないが、誤魔化すように訊ねた。
「もちろん」
本当だろうか? ナギサは釈然としない。
もしも、隣に居るのが自分の記憶が作り出したカスミだとすれば、その返事は保証されない。それでも、他に縋るものが無いため、この場は信じるしかなかった。
「あたしだって、ちょっとイジワルしてるなーって思ってるよ? ゴメンね」
カスミが軽い口調で謝罪する。姿を消しておきながらこの態度だが、いつもの調子なので、ナギサは怒る気にはなれなかった。
「ていうか、大丈夫だって。ナギサちゃんはもう、あたしが居なくても、ひとりでやっていけるよ……」
「そんなことないです! わたしには、カスミが必要です――」
ナギサは反射的に否定する。しかし、口にした後に気づいた。
確かに、この島ではカスミとずっと一緒だったが、現在は――ふたりの部屋で、ひとりで居る時間の方が圧倒的に多い。カスミが職業柄あまり帰宅しなくとも、ナギサひとりの生活は現に、何ら問題が無かった。
ナギサが望んだことではない。誰かが意図したことでもない。成るがままに成った現実に、ナギサは適応していたのだ。
不要ではないにしても、カスミが必要でもなかった。いつからか、寂しさには慣れていた。
「カスミはどうなんですか? わたしと離れたいんですか?」
カスミの主張を、一部は理解できる。あくまでも自分が尊重されているうえで、ナギサは訊ねた。
このままでは、カスミに丸め込まれそうだったのだ。カスミ自身の意思を知りたかった。
「ごめん……それはヒミツ」
カスミは、ばつが悪そうに苦笑した。
答えようにも『このカスミ』が真意を知らない可能性は、充分にある。しかし、確かな意思で拒んでいるように、ナギサは感じた。
「まったく……。カスミが何を考えているのか、わたしには分かりません……」
大きく溜め息をついて、砂浜に仰向けになった。
こんなかたちとはいえ、ようやく再会したというのに、カスミが何を言いたいのか理解できなかった。
「別に、分からなくてもいいじゃん。あたし達は双子だけどさ……別人なんだよ」
隣のカスミが見下ろしながら、ナギサが聞きたくない事実を告げた。過去より何度も聞いてきたことだ。
ナギサは双子として、これまでカスミと感情を共有することはあれど、思考の共有はなかった。
現在ほど共有したいと願ったことはない。カスミはそのように言うが、ナギサは諦めなかった。
今この時も、双子の姉には、何もかもが重なりたいほど憧れていた。
ふと、周辺が急に明るくなった。青い空が、ナギサの目の前に広がった。夜から日中へと瞬時に変わったのだと、ナギサは理解した。
ここは夢の世界なのだから、そのような現象が起きても不思議ではない。都合が良いことに、突然陽射しを浴びても、眩しくなかった。
「ねぇ……。海はどうして青いんだと思う?」
カスミに訊ねられ、ナギサは身体を起こした。前方に広がる海を眺めた。
「空の青さを映してるからですか?」
科学的な知識を持ち合わせていないため、そのように考えた。
現に、目の前の海は、空の青さから雲の形まで――水平線を境とした鏡のように、上下対称の景色だった。
「それだと、曇りの時は灰色になっちゃうね……。海は海で、青いんよ」
太陽からの光を空は反射し、海は吸収し、それぞれが青く見える。空と海に繋がりは無く、青色が上下に並ぶのは偶然の現象だと、カスミは説明した。
ナギサは前方を眺めたまま、耳を貸した。しかし、納得できなかった。
「灰色の時があっても、いいじゃないですか……。本来の青さを失ってでも、空の青さを映して欲しい……わたしは、そう思います」
まるで、この奇妙な景色のように――もう片方を、完璧に理解したい。
それほどまでの繋がりを、ナギサは求めた。
「そっか……」
最後にカスミの残念そうな声が聞こえ、この夢は終わりを迎えた。
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