第8話
陽が暮れると、ナギサは実家に戻った。
その日の散策も、特に成果はなかった。翌日には都心に帰るというのに、結局カスミは見つからないままだ。
しかし、焦りはなかった。
落ち着くどころか観光気分で帰省していたことに、ナギサ自身不思議だった。本当にカスミを捜す気があったのか、今になって疑問に思う。
そう。実際のところ、そのつもりではなかったのだろう。
比較されてカスミが辛くなるなら――離れるしかない。
かつて島を出た時から、きっと無意識に理解していた。
だから、カスミを頼らずともひとりで生きれるように、大学で勉学と就職活動を頑張った。
ナギサは自分の行動に納得する。確かに、昨晩夢の中でカスミから言われた通り、離れることを自分から望んでいた。
いや、違う。それは無意識下ではない。そのような目標が明確に存在していたと――思い出した。
抜け落ちていた記憶の一部が蘇ったのではなく、覆い被さっていた何かが剥がれたような感覚だった。カスミと一緒に居たいと思う気持ちに、いつの間にか上書きされていた。
どうしてこのようになったのか、ナギサは疑問だった。
夕飯と風呂を済ませ、ナギサは二階に上った。だが、向かった先は自室ではなく、隣にあるカスミの部屋だった。
部屋の灯りを点けずとも、差し込む月明りだけで充分だった。
ナギサは勉強机の椅子に座り、部屋を見渡した。自室と同様に昔のままであり、懐かしかった。
カスミがこの部屋を使用していた時――壁一枚隔てた先に居たもうひとりの自分に、何を思っていたのだろう。やはり、手を引いて先導しなければいけないという、使命感だろうか。
そのように考えていると、先週のことをふと思い出した。
先週、ナギサの勤める大手商社で、部署内の親睦会が開かれた。
新年会を終えてまだ間もなく、面倒だと思いつつも、ナギサは仕方なく参加した。
普段であれば、ナギサは酒を付き合い程度にしか飲まない。だが、その時は同僚達から浴びるほど飲まされた。『餌食』になるのは毎回違うため、ナギサが選ばれたのは偶然だった。
気づいた時には、屋外――ナギサはひとりで歩道のガードレールに腰を下ろし、項垂れていた。
何時かわからないが、二月の夜は寒い。早く自宅に帰りたい。タクシーを呼びたい。だが、車道を眺めて捕まえることも、携帯電話も触ることすらも出来ない。それほどまでに、気分は最悪だった。頭の中が揺れ、顔を上げられなかった。
朦朧としているが、意識はまだ、かろうじてあった。いつ倒れて眠っても、おかしくはなかった。
ナギサは店を出た後、同僚から介抱されていたことを覚えている。しかし、ひとりで大丈夫だと突っぱねたのであった。少し休めば歩けると、思っていた。
後悔はなかった。何があろうとも、ひとりで歩かないといけないのだから。
ふたりで島を出て、大学を卒業して、社会人になって――カスミと随分離れた。大学生の時と違う部屋で、現在も一緒に暮らしている。だが、カスミが帰ってくることは、ほとんどない。
それでも、今でさえカスミが隣に居て、手を繋いでいるような気がした。
ひとりになろうとも、カスミと双子である感覚は消えなかった。だから、周囲から比較され、どちらかが傷つくことを恐れた。
離れるのが互いのためだと、ナギサは思っていた。いずれはあの部屋を出て、きちんとしたひとり暮らしに移るつもりだった。
社会人になり、三年。世間では一流と呼ばれる大手商社に勤め、かつて仕方なく願った夢の通り、堅実な暮らしを送れている。ひとりで歩けるだけの力は充分に備わっていると、思っていた。
だが、今はひとりで動けない。悔しさと情けなさで、涙が溢れる。
その感情を最後に、ナギサの意識は遠ざかった。
「おもっ! ナギサちゃん、こんなに重たかったっけ?」
ナギサが次に目を覚ました時、そのような声がすぐ側で聞こえた。苦笑混じりの口調だが、実際に大変なのだと分かった。それなのに、ナギサにとっては安心する声だった。
腰を下ろしている感覚ではなかった。頭の中が揺れ、足は覚束ない。しかし、倒れずにいる。
ゆっくりと、引きずられていた。
誰に引きずっているのか、誰に体重を預けているのか――顔を上げられないが、ぼんやりとする頭で、ナギサは理解した。
「太ったわけじゃありません。成長しただけです」
「あははは……。違いないね」
夜道を、カスミに肩を担がれて歩いていた。
気分はガードレールで休んでいた時と変わらないまま、最悪だった。立っているだけでも辛い。代わりにタクシーを呼んで欲しいぐらいだ。
それでも、ナギサは今の居心地が良かった。
「ナギサちゃん、大丈夫? しっかりして」
「もう無理です……。死にそうです……」
実際に余裕は無かったが、カスミを困らせようと大袈裟な言葉を選んだ。
「もー。しょうがないなぁ、ナギサちゃんは」
その台詞を、ナギサは随分と久々に聞いたような気がした。
そのように言いながらも嫌な顔せず面倒を見てくれる姉に、甘えたくなる。
ナギサはカスミに連絡し、助けを呼んだわけではない。だが、自宅に滅多に帰ってこないのに、どうして都合よく颯爽と現れたのか、疑問には思わなかった。
過去より、そうだった。直接伝えなくとも、困っているのを察して手を差し伸べてくれる。
双子の姉妹だから――その一言で、説明がついていた。
自慢の姉だ。憧れの存在だ。頼りになる、もうひとりの自分だ。
かつて胸に抱いていた気持ちを、ナギサは思い出す。近づいたようで、近づけていなかった。きっと、これからも必要だ。
「カスミのこと、好きです」
だから、その言葉が自然と口から出ていた。
「ちょっと。酔っぱらってるからって、なにコクってんの」
カスミはおかしそうに笑った。
冗談のように捉えられていると、ナギサは思った。確かに、酩酊からの軽々しい発言だが、気持ちは本物だ。
出来ることならば、真剣に受け止めて欲しい。しかし、それ以上は求めなかった。
「あたしもさ……ナギサちゃんのこと、好きだよ」
カスミが照れくさそうに、ぽつりと漏らした。
表情が見えなくとも、はにかむ様子がナギサに伝わる。それこそ、冗談のようだった。
だが、カスミの感情が流れ込み――紛れもない本心であると分かった。だから、駆けつけてくれた。
ナギサはにんまりと笑うと、カスミに抱き付いた。
「待って待って! マジでコケるから!」
焦る声を上げながらも、カスミは何とか踏ん張った。
周囲から視線を集めるが、ナギサは気にならなかった。可能な限りの体重を掛け、この場でカスミを押し倒すつもりだった。
「カスミのこと、離しません!」
ひとりでは歩けない。やはり、カスミとはいつも一緒に居たいと、ナギサは強く思った。
いつまでも、手を引いて先導して欲しかった。
その翌朝、ナギサは自室のベッドで目を覚ました。衣服も化粧もそのままであり、二日酔いにうなされた。
カスミの姿は無かった。いつものように、仕事で何日も帰宅していないのだと思っていた。
そう。どのように帰宅したのか、覚えていなかった。結果的には無事だったので、深くは考えなかった。
だが現在、カスミの部屋でぼんやりと振り返っていると――カスミに助けられたことを、ようやく思い出した。
それだけではない。帰宅後、カスミにベッドへ寝かされた時の記憶が、蘇った。
「ごめんね……ナギサちゃん」
その言葉を残し、カスミが消えたのであった。
おそらく、連れ帰ってすぐ、仕事に戻ったのだろう。失踪した日まで、帰ることはなかった。
それを思い出すと同時、何に対しての謝罪だったのか、現在のナギサは理解した。
ナギサちゃんの足を引っ張って、ごめんね――カスミは、自分の不甲斐なさを責めていた。
一緒に居たいという気持ちは、カスミに伝わっていたはずだ。それを拒んでの謝罪であれば、まだ納得できた。
ナギサは勉強机の椅子に座りながら、ふとカスミの本棚を眺めた。この島で暮らしていた時は、部屋に入る度、何度も目にしていた。だが、具体的に何が並んでいるのか確かめるのは、初めてだった。
自分のと違い、漫画が目立つ。その中に、時事や社会を扱う雑誌がいつくか挟まっていた。都心の自宅でも見たことがあるものだ。この部屋に居た当時は、おそらく小遣いの都合で、気になる表題のものを購入していたのだろう。
高校生の読み物としては難しいものだと、ナギサは思う。しかし、カスミはそれを読み、島の外で何が起きているかに興味を示していた。ジャーナリストになりたいという夢を、確かに持っていた。
都心の自宅にカスミが中々帰宅しないのは、どこか避けられているようにナギサは感じていた。だが実際は、過酷な環境に弱音を吐くことなく、夢を追い求めているのだと今は思う。
ナギサは椅子の背もたれで大きく反り、暗い天井を仰いだ。
「カスミの方が、全然偉いじゃないですか……」
そして、苛立ちながら呟いた。
足を引っ張るなど、劣等感から卑下することはない。『下』は間違いなく自分であると、今のナギサは自覚した。
島を出てからは『上』であると勘違いし、カスミのことを気遣った結果、離れようとした。カスミはそれを汲み、姿を消した。
実に愚かであると、ナギサは自らの言動を恥じた。だから反省し、客観的に考えることが出来た。
これからも『上下』で揉めたところで、絶対に格は定まらない。そもそも、定める必要は無い。周囲はまだしも、当事者間の比較にも意味は無い。
自分達は双子として対等――いや、似て非なるものであると、当たり前のことをカスミに伝えたい。
ナギサは身体を起こした。カスミに申し訳ないと思いつつも、机の引き出しを開けた。
月明かりが、四葉のクローバーをラミネートした栞を照らした。
小学生の頃、カスミが四つ葉のクローバーをふたつ見つけた。ナギサはふたつの栞に加工し、それぞれが持った。
その片割れだ。きっと大切に仕舞われていたのだと思いながら、自分と全く同じものを手に取った。
やはり、葉は緑色のまま原型を保ち――あの時のままだった。
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