第9話(最終話)

 ナギサは栞を手にしたまま、カスミの部屋のベッドで横になった。しばらく使われていないはずだが、カスミの匂いがした。

 今夜も――夢の中だとしても、カスミに会えるだろうか。会って話したい。そのように願いながら、瞳を閉じた。


 次に気が付いた時、ナギサの耳に波の音が届いた。

 空は暗いが、薄っすらと明るみを帯びている。遠くでは赤みがかっている。

 日出もしくは日没のどちらかだろう。就寝したことを覚えていたので、ナギサは前者だと思った。

 昨晩の夢と同じ所だった。夜明け前の浜辺は静かで、穏やかだった。

 ここまで歩いた感覚が残っているのは、昼間の体験だろうか。あるいは、遠い過去の記憶とも、つい先ほどの出来事とも言える。曖昧さと既視感が混じり、夢か現実かは定かでない。

 しかし、ナギサはどちらでもよかった。海面が何をどのように映しているのか確かめることなく、隣を振り返る。


「また会えましたね……カスミ」


 目的さえ果たすことが出来るのならば、この世界はどちらでもよかった。

 昨晩と同様、少し離れた所にひとつの人影があった。

 砂浜に、カスミが座っていた。


「やっと来たね、ナギサちゃん」


 カスミが見せる無邪気な笑みは、幼い頃のようだとナギサに思わせた。懐かしさが込み上げ、ナギサも微笑が漏れた。


「なーにが、ナギサちゃんが望むようにしてるだけ――ですか!?」


 昨晩のカスミの言い分に対し、全く怒っていないわけではない。納得している部分はあるが、できない部分もある。カスミが姿を消したその理由について、ナギサは正当化の言い訳に使われた気分だった。

 だから、怒鳴りこそしないが大声で言った。


「カスミの方こそ、離れたくないくせに!」

「あははは……。バレちゃったか」


 カスミは、ばつが悪そうに苦笑した。

 昨晩ナギサが訊ねた時は、回答を控えた。それも何を考えているのか、ナギサは理解できなかった。

 だが、あの泥酔した夜を思い出した今、ようやくカスミの気持ちを理解した。離れたくないからこそ、求めていたからこそ、わざわざ駆けつけたのだ。


「でも、ごめんね……。あたしは、ナギサちゃんの足を引っ張りたくない」


 いや、どちらかというと、これがより強い気持ち――本心と言えるものだと、ナギサは思った。双子の妹がたとえ動けないほど泥酔していようと、非情に徹して見捨てることは可能だったはずだ。それに背いての行動だった。


「わたしだって、カスミの足を引っ張りたくないです!」


 比較から憐れみ、離れようとしているとカスミから思われているだろう。実際は、カスミの夢に対してだ。どちらにせよ、ナギサもまた離れたいという本心を持っているが、理由は大きく違った。

 とはいえ、結果的に――ふたりの本心は、全く同じであった。


「ぷっ……なにそれ」

「ふふふ……おかしいですね」


 ふたりで笑い合った。

 久々の楽しい時間だと、ナギサは感じた。出来ることならば、永遠に続いて欲しいとさえ思う。

 かつて、大人になることを拒んだように。この島から出たくないと願ったように。


「わたしはもう……カスミに憧れるのは、やめます」


 しかし、かつてこの島で抱いていた感情を捨てなければいけない。今になってナギサはそう選択した。物寂しさが込み上げるが、笑って誤魔化した。

 島を出たのは、あくまでカスミの選択だ。ナギサは便乗したに過ぎないが、ようやく自分の意思で選んだ。


「うん。あたしも、ナギサちゃんに憧れるのは、やめるよ」


 島を出た後、カスミが自身を卑下していたと同時、そのように思っていたのだろう。ナギサにとって意外ではなかった。

 昼間、この浜辺で観た景色をナギサは思い出す。

 海は空の青さを映して、青く色づいて欲しかった。空と同じ青色であって欲しかった。

 だが、海と空が上下対称になることは叶わない。ふたつは似た色だが、確かに違う。ナギサはその事実を受け止めていた。


「空が曇っていても、海は青色で……海が汚れていても、空は青色で……それでいいじゃないですか」


 そして、どちらも青色を失うことを恐れた。このままでは訪れるかもしれない、最悪の結末だ。

 ナギサは座っているカスミに近づき、手を差し出した。カスミが掴んだので、引き上げた。

 ここで進路について話した夏の終わり――カスミがどうして手を伸ばしたのか、わからなかった。しかし今は、あの時のカスミもきっとこの気持ちだったのだと思う。

 決して憐憫ではなかった。


「時間はかかっても、きっと……また、ふたつの青色が並びますから」


 ナギサは立ち上がったカスミと目が合った。同じ目線の高さだった。

 上下ではない。こうしてふたりで隣に並びたいから、手を伸ばして引き上げた。その後比較に苦しんだのだろうが、少なくともあの時のカスミもこうだったと、ナギサは思う。


「そうだったね……。あたしたち双子だけど……別人だもんね」


 過去からその事実を確かめる度、ナギサは気分が沈んだ。

 しかし、今は違う。もう憧れも愛慕もない。あるのは尊敬だけだ。

 それはカスミも同じだとわかった。ようやく言葉を自覚し、互いを認め合った。

 だから、カスミを引き上げたナギサは――もう片方の手に持っていた栞を、カスミに差し出した。


「違います。双子なんですから、一緒に幸せにならないと!」


 幼少の頃、ナギサは『ふたりで同じ幸せにたどり着く』として、四葉のクローバーのひとつを受け取った。

 現在は『ふたりが同じぐらいの幸せにたどり着く』として、カスミに手渡した。

 これが、ふたりで下した決断だった。かつての夢を叶えたかった。


「ありがとう、ナギサちゃん……。大事なこと、忘れてたよ」


 カスミは受け取ると、大事そうに両手で胸元に抱えた。

 おそらく、水平線の向こうから陽が昇ったのだろうと、ナギサは思った。明るい光が、涙をこぼしながら微笑むカスミの表情を照らした。

 世界が明るくなる。空が青みを帯びていく。

 離れたくないという気持ちは、互いに持っていた。島を出た後も、離れられなかった。だが、それも終わりだ。

 カスミはジャーナリストになり、世界中を飛び回る。ナギサは堅実な暮らしを求める。ふたつの夢は、決して交わらない。

 卑下でも憐憫でもない。互いが納得したうえで――それぞれの道を歩むため、離れるのだ。

 ようやく訪れた別れを悟り、ナギサもまた瞳の奥から涙が流れた。寂しいが悲しくはないため、まだ笑顔を作ることが出来た。


「大丈夫ですよ。わたしたちは、いつでも一緒です」


 常に隣に居る感覚も、常に手を繋いでいる感覚も、消えることは無いだろう。双子としての『繋がり』が確かにあるからこそ、離れられる。ひとりではない。

 それに今は、ナギサがカスミの幸せを願うように――カスミの気持ちがナギサに流れ込み、とても心強かった。何事にも代えられない励ましだ。


「そうだね……。支え合っていこう」


 繋がりを大切にすることをカスミがそう言い表し、ナギサは深く頷いた。それこそが、双子として理想の在り方だと思った。

 カスミの手を実際に握り、並んで海を眺めた。

 陽が昇った空は青く、明るい。そして海も青く、眩しい光を波に揺らしていた。

 綺麗な景色だと思った。


「ねぇ……。水平線の向こうは、どうなってると思う?」


 ナギサはこれまで、水平線は海と空とを明確に分け隔てているものだと感じていた。

 しかし今は、ふたつが上下非対称とさえ見えなかった。この景色はふたつの青が溶け合い、連続的あるいは段階的に変化した『ひとつの青』に見えていた。だから、どこまでも広がるふたつの果てでは――想像でしかないが、こうであって欲しいという願望がある。

 そう。水平線はふたつを分け隔てるものではないと、ナギサは感じる。

 きっとカスミも同じだと思った。


「そんなの、決まってるじゃないですか」


 ふたりでそれぞれ、別の道を歩んでいく。向かう先は違う。

 だが、ふたりの心はこの景色のように、きっと――



   海と空が繋がる場所

   gradation blue


   完

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海と空が繋がる場所 未田@『アナタは』特別編の準備中 @htjdmtr

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