第6話

 ナギサは目を覚ました。

 自分の心臓の脈打つ鼓動が聞こえる。寝起き直後とは思えないほど、意識が完全に覚醒している。ここは浜辺ではなく――自室のベッドだと認識した。

 あれは、やはり夢だった。その割には、カスミと話した内容をはっきりと覚えていた。おかしな世界に居たというのに、カスミとの再会だけは妙に生々しかった。奇妙な感覚が残っていた。

 きっと、双子として夢に干渉してきたものだと――根拠は無いが、現在になってナギサは確信する。夢を通じて、何かを伝えたかったのだ。

 おそらく、この島まで捜しに訪れたから接触してきたのだろうと、ナギサは思う。そして、カスミがやはりこの島のどこかに居るとも、確信した。

 カスミが急に姿を消した理由も、伝えたかった内容も、わからない。だからこそ、捜し出して直に確かめたいと、改めて思った。

 とはいえ、ナギサは不思議と落ち着いていた。

 時刻は午前七時。ベッドから起き上がり、一階に降りて母親と朝食をとった。身支度を終えて実家を出る頃には、午前九時になっていた。


 二日目はまず、徒歩で浜辺へと向かった。夢でカスミと再会した場所だ。

 夢の中と同じく、人気は無かった。

 だが、まだ二月だからかナギサは晴れ空が遠く感じ、青色が薄く見えた。夢のように青々としていなかった。

 その下に広がる海は波打ち、当然ながら歪んだ空を映し出している。青色もまた、空と海とで確かに違う。

 上下非対称の景色が――水平線でふたつの青が隔たれていることが、どこか残念だとナギサは思う。

 砂浜の感触を確かめながら、歩いた。適当な所で座り込み、空と海を眺めた。現在は隣にカスミが居ないため、ひとりきりだ。冬の潮風は、とても冷たい。

 過去には、夏になるとカスミと何度も訪れ、海水浴を楽しんだ。

 しかし、この場所で強く印象に残っているのは――十七歳、高校二年生の夏の終わりだった。


 九月。二学期が始まるとすぐ、学校では進路相談の二者面談が行われた。

 それを終えた、ある土曜日――その日は互いに午後からの予定が無いため、ナギサはカスミと昼過ぎに下校した。何気ない日だった。


「ねぇ……。ちょっと寄り道しようか?」


 バスから降りたところで、カスミからそのような提案があった。

 ナギサとしては空腹を感じていたので、早く帰宅して昼食にしたかった。しかし、ここ最近のカスミの様子から、仕方なく付き合うことにした。

 途中、自動販売機でジュースをそれぞれ購入し、向かった先は浜辺だった。まだ残暑が厳しいが、海水浴の時期は終えているため、人気はほとんど無かった。

 空は晴れ、海と共に青々としている。だからこそ、浜辺の様子にナギサは物寂しく感じた。

 海を正面に眺めるように、砂浜にカスミと並んで座った。ジュースの缶を開け、喉を潤した。


「ナギサちゃんはさ……高校卒業したら、どうすんの?」


 一息ついたところで、カスミが話を切り出した。

 この話をされることを、ナギサはわかっていた。ここ最近のカスミはどこかぼんやりしつつも、重い何かを抱えていると伝わっていた。

 進路について悩んでいるのは、明らかだった。自宅で面と向かって話しづらいので、いい機会だと思った。


「わたしはとりあえず、大学に進学したいです」

「ナギサちゃん、本好きだし……文学部とか?」

「いえ。本を読むのは好きですけど、そういう勉強はしたくないですし……それに、就職に不利なイメージありますから」

「へぇ。そうなんだ」

「そういう意味で、経済学部を考えてます」


 ナギサは二者面談で担任教師に話したことを、カスミに伝えた。

 とはいえ、暫定的に用意していた回答だ。何が何でも絶対にその進路へ向かいたいわけではない。


「ナギサちゃんは、将来の夢ってある?」

「今はありません。大学で見つかるといいんですが……。とりあえず、地に足をつけて生きていけたら、それでいいです」


 堅実に働いて堅実に稼ぎたいと、漠然と考えていた。その意味では、強いて挙げれば公務員、もしくは商社勤務だ。

 ただ、妥協とも言える決断をこの年齢で下したことに、ナギサ自身はつまらない選択だと思っていた。夢を追いかけて挫折する猶予はまだあろうとも、夢自体が無いのだ。

 いや――進路とは違うが、夢とも言えるべき目標が、ひとつだけあった。


「ナギサちゃん、意外とそこまで考えてるんだね」


 カスミからそのように言われ、ナギサは心外だった。少なくともカスミよりしっかりしている自覚はあるが、口には出さなかった。その代わり――


「カスミはどうなんですか?」

「あたしはね……とりあえず、島を出たいなー」


 自分と違い具体性の無い答えが出るも、ナギサは驚かなかった。

 島に残るか、島から出るか。島内のナギサと同年代の人間が進路を考える際、まずその二択に迫ることは、カスミに限らず珍しく無い。多くの若年層にとって、その二択が進路の因果になり得ると、ナギサは納得できる。カスミからの高校卒業後に関する問いも、実際はこの意味合いだったのだろう。

 ナギサも一度は考えたが――どちらでもよかった。高校を卒業してすぐ島の役所で事務職として働くとしても、その未来図に満足も不満も無い。

 島への思い入れも島に貢献したい気持ちも、ナギサには無かった。ナギサにとって重要なのは、その二択ではなかった。


「島を出て、世界中を飛んで回りたいの。たぶん、この世界はあたしの知らないことだらけだもん」


 隣に座るカスミの表情を見なくとも、瞳を輝かせているのが分かった。昂る声が聞こえたからだけではない。何か温かいものが、ナギサの内側に流れ込んだのだ。


「だからね……ジャーナリストになりたいなー、って思ってる。あたしが知って驚いたことを、みんなにも教えてあげたいんだ」


 意外にも具体的だと、ナギサは思った。『同世代』とは違い、はっきりとした夢を持っているから島を出ようとしている。

 そして、わざわざここに連れてきて打ち明けたのは、相談に乗って欲しいからではない。


「とっても素敵な夢じゃないですか……。それだと、社会学部がいいと思います」

「だよね。先生も、そう言ってた」


 カスミが後押しを求めているのだと、ナギサは察した。

 家庭の経済事情として、ふたり共島を出て大学に通うことは可能だ。カスミはそれを心配しているのではなく、夢へと進む踏ん切りがついていなかったのだろう。

 だから、最も近い人間に背中を押して欲しいのだと、ナギサは思った。


「わたしも社会学部にします! カスミと同じ大学にします!」


 カスミは後押しを求めても、きっと支えは求めていない。その言葉を欲していないと、ナギサは理解している。

 気遣ったのではなく――心から願ったのだ。それが、ナギサの憧れゆめなのだ。

 そう。将来就きたい職業も、島を出ることも、ナギサにとってどうでもいい。カスミと一緒に居ることが、最も重要だった。

 大学や学部だけではない。その先はカスミと共にジャーナリストに成りたいと、今願った。


「ナギサちゃん……そういうの、もうやめよ?」


 ナギサは隣を振り向くと、カスミが困ったように苦笑していた。


「あたしと違ってナギサちゃんは頭良いんだから、良い大学にも良い会社にも、きっといけるよ。高校だって、もっとかしこいトコいけたじゃん」


 中学生の頃から、カスミの学校成績は常に上位だった。島を出て偏差値の高い高校に進学することを、学校からも保護者からも薦められた。

 だが、カスミと離れたくないため、現在の高校に進学した。周りから思われている通り『カスミの成績に合わせた』のが実情だった。


「あたしはもう、ナギサちゃんの足を引っ張りたくない……」


 ナギサはカスミから、悲しそうな目を向けられた。いや、カスミがそのように感じていると初めて知った今、辛そうに見えた。

 いつもカスミに気にかけて貰っている自分こそが足を引っ張っていると、ナギサは思っていた。だから、驚いた。カスミと一緒に居たい我侭が、カスミを傷つけていたのだ。


「カスミはわたしの足を引っ張ってません! でも、わかりました……。わたしはわたしで、将来のことを考えます」


 本来であれば、ナギサはこの場で我侭を言ってカスミを困らせていただろう。だが今は、カスミの気持ちを汲み、尊重することしか出来なかった。


「ありがとう。……ナギサちゃんが一緒の高校に来てくれたのは、嬉しかったよ」


 その言葉は嘘ではないと、ナギサはわかった。カスミから屈託の無い笑みも向けられ、沈んだ気持ちは少し救われた。


「でも……これからは別々だよ」


 カスミが立ち上がり、ナギサに手を差し出した。

 ああ、なんて残酷なのだろうと、ナギサは思う。カスミとこれからもずっと手を繋ぎたいのに、今取ってしまうと、カスミの主張を肯定することになる。

 カスミは、この島での暮らしに区切りをつけて、前へ進もうとしている。

 自分から離れようとしているとしているのに、どうして手を差し出しているんだろう。ナギサには、わからなかった。


「そうですね……。もうオトナですからね……」


 複雑な気持ちとはいえ、カスミの手を掴むしかなかった。

 高校を卒業して、大人になりたくない。カスミとこの島で、ずっと子供のまま一緒に居たい。

 きっと、幼少期むかしはもっと近かったと、ナギサは思う。どんどん離れていくから、憧れる。

 だが、時間の流れには逆らえない。カスミに腕を引かれ、立ち上がった。

 改めて、前方の景色を眺める。ずっと遠くの水平線に隔たれ、空と海――ふたつの青が、上下非対称に並んでいた。


 あの時、カスミはどういう意図で手を差し伸ばしたのだろう。

 寒空の下、ナギサはぼんやりと海を眺めながら考えるが、現在もわからなかった。

 足を引っ張るのは嫌だと言われたのも、そうだ。最も近い人間の気持ちに、言われるまで気づけなかった。

 カスミがそのように感じたのは、カスミもまた双子として比較されて嫌だったのだろう。ナギサは、カスミの気持ちを考えると――言い分がどうであれ、カスミが離れようとすることに納得した。

 しかし、ナギサは離れたくない。周りからどれだけ比較されても、現在もカスミを姉として慕っている。だから、これからもカスミに手を引いて欲しいのに――隣には居ない。

 空の青さとは関係なく、非情にも海は青かった。夢での非現実的な景色は綺麗だった。それに比べると、非対称な海と空は見劣りすると感じる。

 ナギサは仕方なく、ひとりで立ち上がった。

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