海と空が繋がる場所
未田
第1話
二月の寒い朝、ナギサは心地の良い音で目を覚ました。
包丁の音だけではなく、味噌の匂いも漂ってくる。それらだけで、温もりを感じる。ひとりではないと感じる。ベッドの中で、自然と笑みが漏れた。
ナギサは起き上がり、自室の扉を開けた。キッチンに立つひとりの女性の姿が見えた。
「帰ってたんですね……カスミ」
「おっはよー、ナギサちゃん! 今さっき帰ったよ!」
上機嫌に料理をしているのは、ナギサの姉であるカスミだ。姉妹だが、ナギサと同じ二十五歳である。生年月日まで同じだった。
そう。ナギサとカスミは
ナギサはカスミに近づくと、背後から抱きついた。
「ちょいちょいちょい。今、料理中だからね? 包丁持ってるからね?」
カスミは焦る声を上げるものの、動じることなく、鮮やかな手捌きで野菜を切っていた。
だからナギサは、離れなかった。焦るほどに構って欲しかった。
「もー。しょうがないなぁ、ナギサちゃんは」
幼い子供相手に観念するかのように、カスミは苦笑した。
「既読スルーしないで、ちゃんと返してください……。帰れないなら、電話の一本でもください……」
「そんな面倒なこと言ってると、カレシ出来ないよ? ていうか、お米炊けてるから、ナギサちゃんはオニギリ握って。あたし、大きいのふたつね。お腹ぺっこぺこ」
別に、わたしにカレシなんて要りません――ナギサはそう思うが、口には出さなかった。
カスミに頼まれ、渋々料理を手伝った。だが、ふたりでキッチンに立つのは、ナギサにとって悪くなかった。
やがて、豚汁とオニギリの朝食を、ふたりで囲った。
カスミが作った豚汁は母親の味であり、ナギサは懐かしさを覚えた。そして、テーブルの向かいには姉が居ることから、安心感があった。
平日の朝だというのに、穏やかな時間が流れていた。しかし、これも束の間であると、ナギサは理解していた。
「また、すぐ出るんですか?」
「うん。着替え取りに戻っただけ。まあ、ちょっとだけ寝るけどね……久しぶりに、我が家のベッドで」
「出版社ってやっぱり、超絶ブラックですね……。早死にしても知りませんよ?」
「しょうがないじゃん。あたしはナギサちゃんと違って、出来が悪いんだもーん」
ジャーナリストを志望しているカスミは、現在は出版社の記者として働いている。
収入がどうであれ――決して簡単には成れない職業だと、ナギサは思う。誇りを持って活き活きと仕事している姉に、憧れている。だから、カスミの言葉が皮肉のように聞こえた。
「何でもいいですけど、ちゃんと帰ってきてくださいね」
ふたり揃って社会人に成り、三年になる。職業柄、不規則な生活を送っているカスミを、身体面だけではなく――別の意味でも、ナギサは心配していた。
その気持ちが離れないが、一足先に食事を終え、立ち上がった。
コーヒーを飲むと、洗顔から着替えと化粧まで、朝の支度を行った。そして、いつもの時間に自宅を出ようとした。
リビングではカスミが荷物から洗濯物を取り出して、風呂が沸くのを待っていた。満腹のこともあるのか、眠たげだった。
「洗濯ならわたしがやっておくんで、置いといてください」
「ごめんねー、ナギサちゃん」
風呂から上がって、すぐに眠って欲しい。少しでも身体を休めて欲しい。その思いから、ナギサは引き受けた。
「それじゃあ、行ってきます」
「いってらっしゃーい」
ヒラヒラと手を振るカスミにナギサは微笑み、自宅を後にした。
きっと、仕事から帰宅する頃には居ないだろう。いつものことだと――この時は、諦めるようにそう思った。
午後七時。大手商社の総合職としての仕事を終え、ナギサは帰宅した。
部屋は真っ暗だった。思っていた通り、カスミの姿は無かった。これがナギサにとっての『日常』であり、見慣れた光景だった。
しかし、確かな違和感があった。
「……カスミ?」
ナギサはカスミの部屋の扉を開けた。リビングからの灯りが、部屋を薄っすらと照らした。
部屋に何が在って何が無いのか、普段との違いが分からない。しかし、大切な何かが消えて無くなったような気がした。
金銭や貴重品の類ではない。それらよりも大切なものだと、直感が告げた。
そう。カスミ自身が『消えた』のだと、悟った。
根拠は無かった。心にぽっかりと穴が空いたような空虚感が――初めて味わう感覚が、ナギサにそう告げた。
双子として、常に隣に居るような、常に手を繋いでいるような感覚を、ぼんやりと感じている。だが、その確かな『
きっと、カスミは二度とこの部屋に戻ってこない。二度と自分の前に姿を現さない。ナギサはそう確信した。
そして、腰が抜けたように、リビングの床に座り込んだ。
カスミが何かの厄介事や事件に巻き込まれたわけではないので、身を案じることは無かった。感覚としては――カスミ自身の意思でこの部屋を出ていった。
つまり、ナギサはカスミから拒絶されたのだ。
「どうして……」
ナギサに込み上げるものは焦燥ではなく、絶望だった。
実に理不尽な現実だ。どうしてこうなったのか、まるで見当がつかない。今朝の様子といい、これまでカスミに前兆は一切無かったと言える。
カスミとは仲の良い双子の姉妹だと、ナギサは思っていた。これまでがそうであったように、これからもずっと一緒に居られると思っていた。
しかし、別れは突然訪れた。その事実が重く圧し掛かる。
いや――きっと、何かの勘違いだ。また、ひょっこりと帰ってくるに違いない。
ナギサは自分にそう言い聞かせ、いつもの日常を過ごした。気持ちを紛らわせるように、仕事に打ち込んだ。
だが、カスミに携帯電話は繋がらない。メッセージアプリは既読にならない。
空虚感は埋まらない。それどころか、一週間も経つと、この感覚に少し慣れてきた。
「もしもし。すいません、姉のカスミなんですが……」
ナギサはカスミに申し訳ないと思いつつも、背に腹は代えられない状況なので、カスミの勤務先へ連絡した。
『いやー、こっちも連絡がつかなくて……。どこかでスクープ追ってるとは思うんだけど……』
しかし、伝手は無かった。会社ぐるみでカスミと口裏を合わせている可能性を、ナギサは疑うどころか浮かびすらしなかった。
「母さん……カスミ、そっちに帰ってますか? ていうか、何か連絡ありましたか?」
『カスミ? 帰ってもないし連絡もないけど……』
次に、両親の暮らす実家に訊ねるも、望みは絶たれた。だが――
「わたし、明日の便でそっちに帰ります」
『え? いきなりどうしたの?』
ナギサは、母親がカスミを匿っていると疑っていない。本当に居所を知らないと思う。
それでも、カスミが姿を眩ませる先は故郷しかないと――根拠は無いが、確信していた。
思い立った翌日、ナギサは会社に有給を申請した。その日はちょうど木曜日だったので、金曜日の有給と合わせ、三連休の時間を確保した。
帰宅後すぐ、最低限の荷物を準備した。そして、ナギサが向かった先は港だった。
現在暮らしている都心から故郷の離島まで帰省する場合、約二時間の高速ジェット船を使用することが多い。だが、今回は時間が惜しいため、夜間の大型客船を使用することにした。
不特定の乗客らと詰め込まれる客室をひとりで利用できたせいか、硬い二段ベッドでも居心地は良かった。
カスミと離れるのは嫌だ。それに、どうして突然姿を消したのか理由を知りたい。ナギサは込み上げる気持ちを抑え、身体を休めた。意外にも、眠ることが出来た。
午前六時過ぎ、船が到着した。二月下旬の港はまだ暗く、寒かった。
港近くの食堂は、この時間でも開いていた。ナギサは入り、朝食に明日葉の天ぷらの載ったうどんを食べた。懐かしい味だった。
腹を膨らませて食堂を出た頃には、朝陽が昇っていた。ナギサはふと、海側を眺めた。
空が青みを帯びている。
海も青く色づいている。
青と青。水平線を境に隔たれ、上下ふたつの青がどこまでも広がっていた。
海と空が繋がる場所
asymmetry blue
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