追想曼殊沙華秘抄
物思いを終えて、迩千花は改めて空を見上げる。
季節は巡り、時折雪がちらつく事が増えた。白き冬の気配が直ぐ其処にある。
あまりに澄み渡った蒼は、あの日の空を思わせる。
少しばかり目尻が潤みかけたその時、不意に自分を抱き締める温かい感触を感じた。
視線を巡らせると、そこには愛しい夫が居る。
あの日と同じように、身体を冷やしてはならないと言いながら、頼もしい両の腕の中に迩千花をとらえている。
黒き真神の腕の中は、すっかり迩千花の何時もの場所となってしまった気がする。
ただ、二人きりのときであるならばいいが、人前でとなると些か恥ずかしい。
人目があるかもしれない場所だから、というその心の裡を察したように、織黒は口元に笑みを浮かべながら告げた。
「今日ぐらいは心穏やかに休みたいだろうと思っているから、人払いはしてある」
用意周到というべきか、行き届いているというべきか。
どう返したものかと言葉に困る迩千花を見つめる織黒は楽しそうですらある。
こういうところは、と思っている迩千花はふと日頃思っていた事を口にする。
「……織黒は、私が望む事を第一に考えてくれているけれど。……私だって、織黒には望むようにして欲しい」
織黒は、何時も迩千花がどうしたいかをまず問うてくれる。
迩千花が望むようにあれと、迩千花が為したい事を為せと、彼女の意思を確認し尊重してくれる。
けれど、織黒が己の望むところを口にして、それ故に行動する事はあまりないのだ。
それが気にかかっていたけれど、迩千花の言葉を聞いた織黒は呟くように語り始めた。
「かつてはお前の立場を慮る故に、己の心を押さえつけてきた」
確かに、と迩千花は思った。
在りし日には、大切にしてくれた事は変わりないが、どこか控えめな接し方だった織黒。
それに比べると、封印から目覚めてからは遠慮が無かったように思う。
自分のものだと言い迩千花を抱き締め、片時も離さず愛し慈しんだ。迩千花が戸惑いを覚える程の溺愛ぶりで。
「呪いと戦い続けながら思っていた。……再び会えたら、もう抑えるまいと。だからだろうな」
愛を告げる事すら抑え、結果として告げられずに失う事になった。
もう一度出会えたなら、その時は躊躇うまい。
心にあるがままの愛を告げ、募る独占欲のまま行動したい。
愛する女に想いを告げ、己のものだと抱き締めたい。
そうしてもう二度と、腕の中から逃がすまいと……。
「故に、俺は俺の願いを叶えられているぞ? 我慢することなく、思う通りに振舞っている」
頬が熱を帯びているのは気のせいではない。多分、耳のあたりまで熱いので、耳まで赤くなっている気がする。
嬉しい、しかし照れくさい。
手放しに愛を、独占欲を露わにされるのは今でもなかなかに面映ゆい。
頬を紅潮させながら見上げる迩千花を優しい眼差しで見つめながら、織黒は尚も口にする。
「それでも強いて願いを言うならば、俺はお前の『好き』が知りたい」
以前、織黒に言われた事がある。
自分のこころを素直に表す事が出来ない迩千花に、振舞いから察する事ができる『苦手』、ではなく『好き』を教えて欲しいと。
今では幾分素直に、好むもの、選びたいものを口に出来るようになってきてはいると思う。まだ足りないのだろうか。
なら、一番のそれを口にするとするならば。
「私の『好き』は貴方よ、織黒」
黒き真神の瞳が、やや呆気にとられたという風に見開かれる。
それを楽しげに見上げながら、迩千花は嬉しそうに続ける。
「貴方が好きで、貴方と過ごす時間が好き。抱き締めてくれる腕も、頭を撫でてくれる手も好き。見つめてくれる優しい瞳も、低くて落ち着いた声も、大好き」
「……随分、積極的になったものだな」
「そうしろって言ったのは、織黒よ?」
にこり、と心からの笑顔を見せて迩千花は言う。
対する織黒は、少し驚いた様子で目を瞬き、続く言葉が中々でないようだ。
迩千花に、望む通りにあれと言ったのは織黒である。
素直に織黒への想いを口にしたいと思ったから、そうした。迩千花の一番の『好き』を知ってほしくて、伝えた。
「だから。……もう、二度と離れたくない。だから、離さないで」
例え、この先に道行きに何があろうとも。
幾重もの哀しみと苦しみと、巡り巡った回り道の果てに辿り着いた場所。
ようやく取る事の出来た手を二度と離したくないと願う。
取り戻す事の出来た愛しい存在を、口にする事叶った想いを、けして失うまい。
その想いに応えるように、織黒は優しい口付けを迩千花の唇に落した……。
蘇り行く屋敷の中、彼岸花の奥庭は閉じられた場所となり、立ち入りは限られたもの以外禁じられる事となった。
惨劇の舞台となってしまった場所である。
遺体すら残さず消えてしまったとはいえ、数多の血が流され、命が失われた。
慰霊の碑を建立したとしても、死した者達の魂が癒え、あの場所が再び開かれる日はまだ遠い。
それでも、また花は咲き誇るだろう。季節が巡るごと、美しく花開くだろう。
哀しみも痛みも越えて、かつてと変わらぬままに鮮やかに。
彼岸花の別名は、曼殊沙華。
天井から降り注ぐ吉兆の名を持つ花が咲く季節が巡り、重ね重なり、何時か呪いが祝いに変わる日がくればいい。
苦しみに嘆き続けた魂が、何時か癒される日がくればいい。
季節が巡り、花が開き、散り行き。そしてまた開き。
喜びも哀しみも積み重ねて、二人で過ごした刻の果て。
かつて在りし日の思い出を、これから過ごす日を。
自分達は何時か全てを追想するのだろう――曼殊沙華の咲くあの庭で。
迩千花はある時、静かに筆を執った。
今は此処に、名も無き長として秘められし事実を、そしてあの遥けき花の庭に結ばれた想いを記す。
――それは後の世に『追想曼殊沙華秘抄』と称され、継がれる事となる。
追想曼殊沙華秘抄-遥けき花の庭に結ぶ― 響 蒼華 @echo_blueflower
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