新しき時へ至る
迩千花は、縁側へと足を踏み入れると空を仰いだ。
小鳥が鳴きかわす声が聞こえ、肌に触れる空気は少し寒い程だけれど、差し込む陽の光は明るく温かで。
あの日の騒動すら実は夢だったのではないかと思ってしまうほどに、穏やかな空だった。
惨劇と真実、そして終焉に揺れたあの日……。
あの後、迩千花と織黒は丸三日眠りについていたらしい。
けして離れるまいというように寄り添いながら、疲弊した身体を癒す為に只管に眠っていたとの事だった。
目が覚めた時には、外へと出ていた者達も戻り、少しずつではあるが騒動の後始末が進み始めていた。
玖珂にとって幸いだったのは、主力を為していた手練れの者達が、屋敷を空けていた為に無事だった事だ。
異変に気付き帰参したものたちは、屋敷にて起きた凶事を周辺に及ぼすまいと必死であったらしい。
落ち着いたと判断した後は、屋敷の被害がより軽微であった場所から片づけ整え、騒めく下働きの者達を励ましながら事に当たってくれていたという。
奥庭で起きた惨劇は詳細こそ語られなかったものの、玖珂と見瀬の長達が命を散らした事だけは伝えられた。
玖珂は、当主を始めとする中枢……旧き支配を失った形になった。
見瀬もそれは同様で、残った者達は、もはや玖珂に反する事を諦め玖珂に取り入れられる事を望んだ。
もしかしたら久黎は、因習に縛られた旧きものたちだけを消し去り、新しき一族を残す心算だったのではないかと思ってしまった。
勿論それは、唯の迩千花の推測でしかないのだけれど。
残った者達は、長達の訃報に肩を落しつつも迩千花が無事であった事を喜び、迩千花を長と仰ぎたいと望んだ。
彼らにとって迩千花は、唯一残った本家直系の血筋である。
ましてや、失う以前よりも強い異能を取り戻したとあれば、尚の事。
迩千花は少し考える時間が欲しいと告げた。
せめてこの屋敷と、生き残った者達が落ち着きを取り戻すまでは尽力する、答えはその後改めてと。
それからの日々は、随分慌ただしく過ぎた。
騒動の後始末は屋敷の片づけだけで終わるわけではない。対外的なやり取りにも奔走した。
その他にも、大事から些事まで、やらなければいけない事は山積みの状態。
精一杯を尽くし人々を導く迩千花の側には、何時も織黒が居た。
彼もまた持てる力を尽くし、迩千花を支え続けた。
在りし日のように、祭神として玖珂を、そして見瀬の者達を守る大きな庇護となり続けた。
尽力の甲斐あって、少しばかりの落ち着きを取り戻しつつあったある日の事。
積み重なった疲労にぐったりとした迩千花を腕に抱き労わっていた織黒は、ふと問いかけた。
これからどうしたい? と……。
一族に対して答えを出す日が近づいている事について問われているのだと、迩千花は気付く。
「お前が望むのであれば、俺はお前を連れて去る。……俺も、玖珂に思うところがないわけではない」
恐らく、寿々弥がかつて一族の為に自らを酷使し続けた事を思い出しているのだろう。
迩千花も同じ様になってしまうのではないかと、恐れているのだ。
彼もまた、兄と同じく迩千花が一族の為に擦り減り、挙句使い捨てられた事に対しては憤りを覚えていた。
だから、かつてと同じように迩千花が一族の為に生き、犠牲となるのを叶うならば拒絶したいのだろう。
迩千花も、織黒と二人で生きたいと思う。
二人だけで、互いだけを目に映して、声を聞いて、生きられたらと思う。
でも。
「……玖珂と見瀬を、このままにしていけない」
迩千花は哀しげな笑みを浮かべて答えを紡いだ。
その為に一族を放り出せる性質ではない事を自覚していた。
例えそうしたとしても、それは迩千花の心に影を落し続け、幸せに陰りを作り出す。
切り捨てられない自分を甘いなと心の中で自嘲しながら、迩千花は織黒を見上げる。
迩千花を抱く男は、優しい苦笑いを浮かべて迩千花の額に口付けを落した。
「……そういうと思っていた」
「……ごめんなさい」
「謝る事ではあるまい」
それがお前の望む事であるならば、と呟く織黒の眼差しは優しい。
あくまで迩千花の心を慮り、第一に考えてくれる織黒のこころが嬉しい。
迩千花が望みを口にしてもけして拒む事なく、抱き締めてくれるこの男性が、愛しい。
胸を痛い程に満たす愛しさを感じながら、迩千花は続けた。
「今まで放っておかれたのだから、今度は自分達で好きにすればいいって、思った。でも、それだとあの人たちと変わらない」
自分達に利がなければ、実の子であろうと切り捨てる。自分達に返るものがなければ、心を砕く事はない。
損得だけで人とのかかわりを計る事も、条件付きの愛情も、御免だと迩千花は思う。
「蔑ろにされたから、自分もするのは。……嫌な事をされたから仕返ししてやれ、みたいで。……私は、嫌なの」
されたから返すのは、嬉しい事や喜ばしい事だけでいい、と迩千花は呟く。
損の多い考え方であり、生き方なのだろうと思う。
けれども、それが私なのだと迩千花は苦笑する。
意趣返しするつもりはないし、もうその相手も居ないけれど。
自分はけして同じものにはならない、そして幸せになる。敢えていうなら、それが迩千花の意趣返しだ。
黒き真神は、口元に微かな笑みを浮かべたまま黙してそれを聞いていた。
迩千花が自分から為したい事と進みたい方向を口にした事を、静かに喜んでいるようであった……。
改めて玖珂の長を継いだ迩千花のそれからの日々は、更に忙しいものとなった。
今までは女性戸主は外聞が悪い故に対外的なやり取りを担う表の当主を立てていたが、助けの手があるとはいえ今は迩千花が全て担う。
元々、寿々弥であった頃から政治的な思惑の絡んだ駆け引きは元々苦手であった。
それを積極的に行ってくれた点で、実のところ寿々弥は妹に感謝をしていたものだった。
女が主などと陰口を叩くものもあったが、迩千花は微笑んだまま黙してそれらを受け流した。
それでも何かを言い募ろうとする者に対しては、隣に寄り添う入り婿であるという夫が睨みを利かせる。
黒の眼差しの圧力に、それでも尚言葉を発する事が出来る者は皆無だった。
迩千花を長とする事に懐疑的であった者達も、少なからず在った。
その者達も、迩千花が長として尽力続ける姿を見ているうちに、一人、また一人と彼女を本心から長と仰ぐようになっていく。
想いに想いは重なり、道を形作っていく。
玖珂と見瀬は一つとなり、迩千花のもと、新しき時代を形作っていく事となる。
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