彼はそれを知る


「……何故」


 呆然と呟く白き祟り神。

 自分のしようとしたことと、今自分の身に起きている事が信じられぬ様子で、ただ何故、と繰り返していた。

 愛した女を取り戻そうとしていた。それは目の前にいる少女を作り変えれば叶う筈だった。

 それなのに、何故は避ける事もなく少女が放つ矢を受け止めたのか。

 涙を流しながらこちらを見る少女の為す事を、受け入れたのか……。

 何故と呟き続ける久黎の身体に、徐々に破魔の力が及んでいく。


 呪いに堕ちたその身体は、悪しきものを浄化する力によって少しずつ現世との繋がりが断たれていく。

 だというのに、不思議と久黎の心は穏やかだった。


「ああ、そうか……」


 涙する少女に、泣くなと言いたかった。叶うならば、笑ってくれと。

 その瞬間に彼は、自分が本当に求めていたものと、願っていた事を悟った。


 本当に求めていたもの。

 それは、あの木漏れ日の中、赤い花咲く庭をそぞろ歩きながら、交わした笑み。

 寿々弥が居て、織黒が居て、久黎が居て。

 三人の通う心が温かな、幸せだったあの時間。

 その中にあるからこそ幸せに咲いた、愛しい微笑。

 失う事を恐れるあまり、自分がその手で壊してしまったもの……。


 あの日、寿々弥の命を奪い、織黒を封印に落し。

 久黎は、自ら世に唯一の異質なものとなった。自らの手で本当に願っていたものを壊してしまったのだ。


 それを取り戻す為に、走り続けた。

 他の運命すら捻じ曲げ、繋げ、悲劇すら見ぬ振りをして。

 戦い続けた、何時の日か取り戻す事だけを願って。


 本当は、気付いていたのに――どれだけ願っても、もうあの日々は戻らないのだと。


 けれど、それは今に至る己を否定する事。だから彼は止まれなかった。突き進み、求め続けるしかなかった。

 長く果てなき独りの戦いを続けながら、もはや自ら止まる事が叶わなくなった白き真神は心の奥底にて叫んでいたのだ。

 この戦いを、終わらせてくれと――。


 迩千花は魂のまま、久黎の内にて眠り続けていた。

 久黎が止まる事の出来ぬ戦いを続けながら心であげ続けていた悲鳴を聞いていた。

 止まって欲しいと、これ以上苦しまないで欲しいと思ってもその声は届かなくて。

 終わりを望んでいる彼を、止められない事が哀しかった。


 彼は避けられなかった――避けなかった。

 愛しいものによる終わりを心が望み、受け入れていたから……。


「仕方ないか……」


 その存在を徐々に希薄なものに変えてながら、久黎はわらった。

 あの日々に見せていた、優しく穏やかな、思慮深い白き真神そのままの表情で。


「他の誰によるものでも、終わりを受け入れるわけにはいかなかったが。……お前ならば、仕方ない……」


 他の誰にも負けるわけにも行かない。他の誰の手でも止まる訳にはいかない。

 けれど、それが他ならぬ彼女ならば。

 随分と遠回りをしたけれど、自分の為に、自分の想いを貫く事を選べた彼女の手ならば。


 久黎は、最期にねがった。


「お前の幸せは、すぐそこにある」


 それが自分の手でない事が、些か寂しいが。

 その結びの言葉だけは、久黎の心の内に留められ、言葉として発せられる事は無かった。


「……今度こそ、失わずに。……どうか、しあわせに……」


 これほどまでに走り続けて、進み続けて。

 果てない道を歩んできた気がする。  

 けれど、願いの始まりは、ほんの些細なものだった気がする。

 それは、とても単純なのに、とてもとても難しい願いだった。


 幸せにしたかった。幸せになりたかった。

 もう一度、光のもとで微笑う彼女が見たかった。彼女にもう一度花が咲くのを見せたかった。

 始まりに抱いた願いは、きっとそれだけだったのに……。


 遠くまで来てしまった。随分と遠回りをしてしまった。

 しかし、自分の願いは今叶ったのだ。


 どうか、しあわせに。


 ――それが、玖珂の祭神であった白き真神の、最期の言葉だった。




 久黎が転じた光の粒は、黒雲を割るように差し込んできた陽光を弾いて宙を舞う。

 きらきらと輝きながら天へと上りゆくその欠片たちを、迩千花はただ見上げていた。

 織黒がこちらを見つめているのが分かる。でも、言葉を紡ぐ事が出来ない。

 差し込む戦いの爪痕残る庭に佇むのは二つの影のみ。

 沈黙が横たわる二人の間を吹き抜ける風が、残る彼岸花を揺らしていく。


「久黎……わらっていた」


 やがて、沈黙を破り呟いたのは迩千花だった。

 最期に久黎が見せたのは、在りし日そのままの笑顔だった。


「……久黎を笑顔にする方法が、終わらせるしか、なかった……!」


 血を吐くような叫びは、やがて嗚咽に変わる。

 迩千花には、久黎の命を終わらせる事しか出来なかった。それでしか、久黎に笑顔を取り戻す術がなかった。


 最期の最期にわらってくれた白い真神。終わりの前の一瞬に、戻ってきてくれた優しい祭神。

 死という方法でしか彼を止められなかった事が、ひどく悔しくてならない。自分があまりに無力で、哀しくて。


 溢れる雫はもはや止まる事を知らず、白き頬を伝っては地へと吸い込まれて行く。

 不意に、背後から温かで大きな二つの腕が迩千花の身体を包み込む。

 織黒に抱き締められたのだと気付いたのは一瞬後のこと。


「お前でなければ、止められなかった。久黎の願いを、叶えてやれなかった……。……辛い役目をさせて、すまない……」


 織黒の表情を見る事は叶わないが、きっと哀しみを堪えているのだろうと思った。

 苦しげで、哀しげで、それでも迩千花を気遣う優しい表情をしているのだろうと。


 迩千花が愛した黒き真神は、そういうひとなのだ。

 失って哀しくても、不安でも迩千花を気遣って。迩千花を求めるように甘え、迩千花を包むように甘やかして。

 切ない程に、愛しい迩千花の織黒……。


 迩千花は、何も言わずにただ首を左右に振った。

 織黒は、迩千花を抱く腕に力を込めながら、囁くように言った。


「俺達は、漸く取り戻せたんだ……」


 失われたものは多すぎて、そこに辿り着くまで随分かかった気がする。

 けれど、自分達は確かに大切なものを取り戻したのだと。

 迩千花は自分をとらえる腕を、そっと抱き締めた。




 全てを覆い尽くす暗雲が晴れた後の空は、哀しい程に蒼く澄み渡っていた――。

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