弦音は響き
黒雲も、力の余波の壁も、今の迩千花には何の隔てにもならなかった。
迩千花の瞳には、死闘を繰り広げる白と黒の真神の姿がはっきりと映っている。
何れも浅からぬ傷を負ってもなお、闘志を失う事なく、相手に向かい続ける。
牙を突き立て、爪で抉り。焔を放ち焼き焦がし、雷にて打ち据え。
全力でぶつかりあう真神達の力に、空間すら歪んで見える程。
ああ、聞こえる。
――何故だ、久黎……!
暗雲を切り裂くような咆哮と重なって聞こえる、織黒の慟哭が。
――信じていたのに……お前と、ずっと寿々弥を見守っていけると……!
憎みたかったわけじゃない。勝ちたいと願う事はあっても、それは暗い感情故では無かった。
弟は兄を尊敬していた。だからこそ、何時か兄を越え、認められたいと願っていた。
兄もまた、弟が自分を越える日が来るのが楽しみだと、しかしそう簡単に負けるつもりはないのだと、目を細めて語っていた。
時として軽く嫉妬を覚える程に、お互いに情を持つ兄弟だったのに。
寿々弥が狂わせたのだろうか。彼女の存在が、水面に落ちた小石となってしまったのだろうか。
――ずっと、我らは共に在るのだと……!
何故という問いは尽きない。幾度繰り返しても応えは出ない。
何時から自分達の道は狂い始めていたのだろうか。何処から、自分達は間違えてしまったのだろうか。
寿々弥が女であり、真神達が男であった故か。
出会ったが故か。出会わなければ、間違える事も無かったのか。
彼らと会わなければ。
白と黒の真神は尊きものとして、人々の崇敬を受ける存在で在り続けただろう。
寿々弥は玖珂の長として、一族に尽くしその生涯を終えただろう。
もし、生きる時がすれ違っていれば、皆それぞれに当たり前の幸せを享受して。
あの木漏れの庭で過ごした時間も、知らぬものとして、生きて……。
どちらが正しかったのか、それはもはや問うても詮無き事。
寿々弥達は出会った。そして同じ時を過ごし、終わりを迎えた。
彼らに出会い知った沢山のこころを、知らなければ良かったと、出会わなければ良かったとは思わない。
同じ結末を迎えると知っていたとしても、自分は彼らと出会う道を選んだだろう。
出会った事に後悔はない。この想いを知らなければ良かったとは思わない。
ただ、道が歪んでしまった事が哀しい。
そして、今なお歪みの中で果てなき戦いを続けている久黎が、哀しい。
迩千花の手に光が集まり凝ったと思うと、それはすらりと優美な線を描く弓と化した。
天地に通じる力を有する事を寿がれ、贈られた弓。かつて寿々弥が儀に、戦いに、常に手にしていたものだ。
迩千花が弦を引くと、そこにはやはり光が集い矢の形を為す。
弦を引き絞り狙いを定める。
眼差しの先では、黒狼が体勢を崩したのが見えた。そして、それを見逃さぬ白狼が必殺の一撃をと肉薄しかけたのも。
迩千花は矢を放つ。矢は白の真神の鼻先を掠める軌跡で天へと抜けていった。
弾かれたように旋回し距離を取る白狼、驚いた様子でやはり距離を取り体勢を立て直す黒狼。
黒の双眸と白銀の双眸が、迷わず地上にある人の子……迩千花に向けられる。
その場に一人で立つ彼女の表情と、手にした霊弓を目にしたと思えば、天にある真神達の姿が掻き消える。
次の瞬間には、久黎が、次いで織黒が見慣れた青年の姿となり降り立っていた。
「……随分危ない真似をしてくれるものだな」
「相変わらず、無茶をする奴だ」
「当たらないように撃ちました。撃ち落とすつもりならもっと適当に狙っているもの」
戦いに水を差された事に対して思うところあるのか、険しい顔をしながらも、地を踏みしめた手傷浅からぬ二人は揃った風な言葉を口にする。
責めるような口ぶりでも、そうでは無い事は知っている。その声音に少しばかりの戸惑いと喜びが滲んでいる事も。
その意図せぬ息の合い方に、懐かしき日々を思い出してこみ上げるものがある。
久黎は迩千花の周囲に視線を遣り、彼女が友と呼んだ緋色の花精の姿が消えた事を確認すると呟いた。
「あの化生が消えたか。これで漸く戻ったな、寿々弥」
「私は、迩千花よ」
嘆息と共に紡がれた言葉に対して、迩千花の躊躇のない言葉が返る。
織黒も久黎も、驚いた風に目を軽く見張ると迩千花へと眼差しを向ける。
迩千花は、心定まったという風な迷いのない表情で、確かな言葉を続ける。
「彼女から迩千花を引継ぎ、これからを繋ぐ。寿々弥はあの日死んだ、此処に居るのは、私は、迩千花なの……!」
迩千花として生まれ、生きる筈だった友から託されたものを、これから自分が続けて行く、繋いでいく。
それが迩千花の願いであり、これからの為すべき事。
今此処に居る自分の魂は寿々弥のものであったとしても、輪廻を経ていないとしても、もはや違う存在なのだと迩千花は必死に訴える。
「違う、お前は寿々弥だ……! 叶えられた、私の願いそのものだ……!」
「そうじゃないの、久黎……! 違うの……!」
激しく頭を左右に振り、揺れる白銀の髪の向こう側から向けられる必死な眼差しと声音に、迩千花は被せるように悲痛に叫ぶ。
唯一見出した希望に縋るように、自分に縋る白の真神があまりに哀しい。
彼は心の最奥で、もう分かっているのに。本当に願っていた事は、別にあるのに。それを認められない、止まる事が出来ない久黎が辛すぎて。
どうすれば彼がそれに気付けるのか、言葉にする事出来ない自分が恨めしくて、唇を噛みしめる。
「織黒! お前は認められるのか!? 寿々弥がそこにいるのに、そうではないなど……!」
「……寿々弥ではない」
焦燥を滲ませながら織黒へと叫ぶ久黎に返されたのは、あまりに冷静で穏やかな声音で紡がれた言葉だった。
口の端に滲んだ血を指で無造作に拭いながら、織黒は過去に思いをはせるように、目を伏せた。
「寿々弥を愛していた。今度こそ守るのだと思って呪いに抗い続けた。そして戻り……迩千花と出会った」
思わぬ兄の裏切りに衝撃を受けながら落ちた闇の底、信じられぬという思いを抱えながら戦い続けた気の遠くなる歳月。
喰らおうとする呪いを逆に喰らい力として生き延びて、力ある呼びかけを導として現へと近づき。
そしてあの日、迩千花の叫びに目覚め、彼女と出会った。
「迩千花の魂は確かに寿々弥だった。寿々弥は俺が戦い続けるよすがだった。それ故に大事に思ったのかもしれない。だが……」
漸く辿り着いた現世で取り戻した愛しいもの。長い歳月、彼女に再び巡り合う事だけを願って戦い続けた。
封印に苛まれた影響で欠落した記憶故に、彼女が誰かわからなかった。
それなのに迩千花を愛しいと……守りたいと願ったのは彼女に愛した女の魂の存在を感じたから。
けれど……。
「時を重ね共に在り、知るにつれて、迩千花だからこそ愛しいと思うようになった。寿々弥であり、寿々弥ではない、迩千花を」
年相応の顔を垣間見せる迩千花と共に過ごして知った、温かな心に募る想い。
少女が心を取り戻していく道は、かつてを辿るものでありながら、違うものだった。
他に変えられない存在から生まれた、唯一の存在。
同じものを有しながら、確かに違うもの。
それが。
「此処に居るのは、迩千花だ。……俺が愛した女であり、愛する女だ」
それが兄の、そして自分の戦い続けた歳月を否定する言葉であっても。
戸惑いも、迷いもそこにはなかった。
織黒は真っ直ぐに、揺れる久黎の瞳を見据え、揺るぎない言葉を紡いだ。
その言葉が耳に触れた瞬間、喜びが迩千花の胸に満ちる。
今の自分として受け入れられた。かつて寿々弥であったけれど、今は違うのだと言う事を受け入れて尚、愛を口にしてくれた織黒。
何時か失うものではない、誰かの代わりでもない。仮初ではない確かなものを手に出来たのだという想いが強さをくれる。
迩千花に続けて弟から突きつけられた否定の言の葉に、久黎は愕然とした面持ちで言葉を失う。
迩千花は一歩久黎へと歩を進め、告げた。
「気付いて、久黎。織黒を殺したとしても、私を手に入れたとしても……貴方の本当に願っていた事は叶わないの……!」
「お前がそれを言うとは残酷だな、寿々弥」
低く呻くような言葉と共に、久黎の周囲に、暗き呪いの奔流が渦巻き始める。
身を強ばらせて見つめる迩千花に、久黎はその場に不釣り合いなほどに穏やかな笑みになり、囁く。
「少しばかり辛い思いをさせるが悪く思うな。……直ぐに、正しい形に戻してやる」
迩千花を捕らえて作り変えようと言うのだろう。彼が望んだ通りの『在りし日の寿々弥』へと。
その姿があまりに恐ろしく、そして切なすぎて迩千花は唇を噛みしめた。
彼が気付いていない筈がない。それが、本当に彼が望んだものを完全に失ってしまう事だと。
胸をつくような哀しみに、頬を伝う雫が止まらない。
迩千花を背に庇うように織黒が進み出ると、久黎の端整な顔が憎悪に歪んだ。
「邪魔をするというなら、お前からか」
「織黒……お願い。私に、任せて欲しい……」
問うように振り返る織黒に、一つの決意を込めた眼差しを向ける迩千花。
恐らく織黒ならば分かってくれるだろう。迩千花が何を決意したのか……何をしようとしているのか。
させるわけにはいかないと、一度は首を左右に振る織黒。
けれど、制止する意をこめた眼差しに返るのは、もう揺らがぬ想いの眼差し。
逡巡の果て、織黒は静かに迩千花の後方に退いた。
迩千花は手にした霊弓に矢を番えると、巡る呪いと妄執の渦の中心に立つ久黎へと向ける。
全身全霊を込めて狙いを定める。少しずつ光が集い、矢は破魔の力を帯びていく。
祟り神に堕ちた久黎にとっては、致命傷を与えるに足るものへと転じていく。
「狙うなら、此処だぞ?」
余裕すら感じられる笑みを見せながら、久黎は己の胸の中央を示して言う。
久黎の力を以てすれば、未だ完全に異能の勘が戻ったわけでない迩千花の矢を防ぐ事など容易い。
久黎の俊敏さを以てすれば、そう武に長けたわけではない迩千花の矢を躱す事など容易い。
だからこそ、久黎は迩千花が矢を番えていても笑うのだろう。
でも、迩千花は知っている。
久黎は、恐らく――。
空を切り裂くような鋭き弦音が響き、矢は放たれた。
織黒は苦い表情で瞳を伏せる。
久黎は、その場に立ち続けていた。
躱すこともなく、防ぐ事もなく。
――そんな彼の胸を、逸れる事なく過たず破魔の矢は射抜いていた。
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