託されたもの


 二人の真神は静かに対峙した。

 互いの目に捉えるのは互いだけ、今は誰からも干渉を受けぬと言葉に依らずに伝えてくる。

 かつて共に玖珂を守り続けた二人は、もはや並び立つ事叶わぬと思っているのだと。

 共に天を戴く事は叶わないと……。


「織黒……久黎……」


 漸く絞り出した声は、ひどく掠れていた。

 戸惑いとも哀しみともつかない複雑な眼差しの先で、二人はほぼ同時に地を蹴った。


 相手に飛び掛かった瞬間に、双方は巨大な獣の姿に――二体の狼の姿に転じる。

 焔を纏う黒き狼に、雷を纏う白き狼。

 二体は咆哮をあげながら、相手の喉首を狙い噛みつこうと上になったかと思えば下になり、あわやという状態になったかと思えば渾身の力で逆転し。

 唸りと叫びの余波で地が穿たれ、樹々が燃え、徐々に渦巻く黒雲が天を覆い始める。

 二体は互いの牙に、爪に、傷つき傷つけあいながら、縺れ合うようにしながら上空へ昇っていく。

 やがて天にて戦い始めた真神達の姿は、黒雲に阻まれてしまう。

 黒の中に焔が舞い、雷が穿つ、それだけしか地上からは見えなくなってしまった。


 強大な力と力がぶつかり合う、その激しい音と光、気配だけしか感じる事が出来ない。

 地に取り残された身には、何も出来る事がない。


「さすがに、祭神二人が全力で戦うと恐ろしいわね……」


 まるで天変地異だわ、とやや顔を蒼褪めさせて、空を見上げながら緋那は呟く。

 争われて女冥利に尽きると言えば……と言葉を紡ぎかけるも、冗談を言っている場合ではないと思い直した様子で口を噤んだ。

 友の表情が強張り、顔色を無くした状態なのを見てとったようである。


「違う……。久黎の、本当の願いは……」


 気が付けば、呻くように独白のような呟きを零していた。

 ただの気のせいだと思っていた。

 けれど、あれは……あの哀しい声は。

 寿々弥であった過去を取り戻した今なら、魂としてあった時を知った今なら分かる。

 あれは……!


「迩千花はどうしたい?」


 不意に明確な意図を持った問いかけが耳を打つ。

 弾かれたようにそちらを見れば、真っ直ぐな光を湛えた赤い眼差しにぶつかる。

 緋那は一度目を伏せて僅かな逡巡を滲ませたものの、再び瞳を開くと、迷いない確かな声音で静かに言葉を紡ぎ始めた。


「私が持っている二つの力を、貴方にあげる。そうすればあの二人を止められるようになるはず」

「……それは……!」


 緋那を現在の形で留める要であるもの、それが緋那に宿った「寿々弥の異能」と「迩千花の異能」。

 それを渡すと言う事は、失うと言う事は……即ち、緋那が現世にもう留まる事ができない。

 自分の死と同義である問いかけをする緋那を思わず凝視してしまう。咄嗟に返す言葉など出てこない。

 返す言葉を絞りだしたが、それは震えていた。


「緋那は…それでいいの?」

「良くない! だって、悔しいもの! 腸が煮えくり返るぐらい、悔しいわよ!」


 悔しいに決まっている。

 まだ緋那が人であった頃……『迩千花』であった頃。

 少しばかり重い輝かしい座にあった間、何もしなかったわけではない。

 その地位に相応しくあるように努力をした。期待に応えられるように精一杯を尽くした。

 与えられるものと当然と享受するだけではなく、それに見合うだけのものを周囲に返し続けていた。

 いずれ一族を導くものとして、自分なりに思い描いていた夢だってあった。

 それを一瞬にして無にされたのだ。

 描いていた未来を、願っていた将来を奪われたのだ。

 腹が立たない訳がない、憎いと思わない筈がない。

 相手にも事情があったと言えるような、そんな聖人君子ではない。

 けれど……。


「もう、私は『迩千花』に戻れない。……そして、知らなかった緋那にも戻れない。……私のままじゃ、何も、できない」


 知らぬままであれば、花精として穏やかに生きていく事も出来たかもしれない。

 けれども、もう戻れない。

 跡継ぎと期待された少女にも、朗らかに笑う花精の少女にも。

 そして、我が身を保つ事に力を費やすばかりの今の状態では、一矢報いる事も、前に進む事も出来ないのだ。

 だが、迩千花は進む事が出来る――二つの力さえあれば。


「だから、あのいけすかない祭神様に現実を叩きつけてやって欲しいの。私の代わりに、迩千花が意趣返しして!」

「緋那……」


 茶目っ気のある何時もの緋那の言葉に思えるが、違うと言う事を迩千花は分かっていた。

 願いの形を取りながら、緋那は今迩千花に問うている。


 ――貴方には、現実を越えて先へ進む覚悟はあるかと。


 流されるのではなく、誰かに願われたからではなく。

 自分の意思で、先を望む覚悟はありますか、と……。

 拒絶する事も出来ただろう。そうしたとしても、恐らく緋那は責めたりはしない。

 二人で先までと同じく、何も出来ぬまま上空を見上げるだけ。


 黒雲に満ちた荒ぶる天にて繰り広げられている戦いは、熾烈さを増している。

 雷が黒狼を穿ったと思えば、返す焔が白狼を焼く姿が垣間見え、二人は絶える事なく攻防を繰り広げている。

 飛び交う力と漂う殺気が、既に上空に結界を敷いたような様相と化している。

 恐らく今の彼らは地上の様子などわかるまい。お互いがお互いしか見えていないだろう。

 だが、いずれ何方かが限界を迎える。何方かではなく、両方かもしれない。


 久黎に命を奪われたあの日、久黎を止められなかった哀しみの内に命を終えた。

 久黎の掌の中、ぼんやりとした感覚の向こうで織黒が呪いに喰らわれ闇の底に堕ちていったのを感じて、泣いた。

 稀代と如何に称えられようと、何も出来ぬ無力な存在である事をただ悔いた。

 言われる事に応える事だけを考え続けて辿り着いた先、あるがままを受け入れると言って流れついた先、そこにあったのは全てを失った後悔だった。

 もう失くしたくないと願った。愛する事を諦めたくないと、迩千花は願った。

 だから……。


「私に、緋那の力を下さい」


 真正面から緋那を見つめながら、命をくれというのと同義である残酷な願いを口にする。

 緋那は直ぐには何も言わず、ただ真っ直ぐに見つめ返してくる。

 そして、ふと破顔した。

 それは、とても嬉しそうで……少しだけ寂しそうな笑い顔だった。


 緋那が迩千花の両手を取る。

 触れる温かさを感じていると、少しずつ何かが流れ込んでくるような感覚があある。

 それは徐々に勢いを増して奔流となり、同時に緋那の姿が光を帯びたかと思えば、あまりに眩い輝きに転じていく。

 思わず眩しさに目を閉じた迩千花は、ふわりと自分を抱き締める柔らかな腕を感じた。


『私の力と、貴方の力。二つの力が私にあったから、私は今までこうして存在できた』


 本来であれば花精となる事すら出来ない状態だったのが、奇跡を掴む事が出来た。

 この庭で花と共に過ごす身となり、得られる筈のなかった友を得た。

 それは、とても幸せな時間だった。


『貴方の友達でいた時の方が楽しかったわ。猫を被らなくてよかったし!』


 名門の令嬢であり、跡継ぎたる身としてすまして暮らしていた時より気楽だったと少女が笑ったのを感じて、迩千花も思わず口元に笑みを浮かべる。

 けれど、その笑みは少しだけ……泣き笑いにも似たものだった。


『あなたが本当に望む通りにして。……迩千花の中に、答えはあるから』


 触れていた温もりが、友の声が、少しずつ小さく遠くなっていく。

 目尻に生じた雫が頬を伝い、地に次々と落ちていくのを止められない。

 自分の中に何かが募りゆくのを感じる度に、友の気配がか細くなっていく。

 別れが、すぐそこに。


『さよなら、迩千花』

「緋那……!」


 遠ざかる温かさに、必死に手を伸ばす。

 楽しかった、ありがとうと、か細くなりゆく声が伝えてくれたような気がして。


 ――伸ばした指の先で、緋那が最後に笑ったような気がした。


 その言葉と共に、一際強い光が集い、散じる。

 後に残されたのは……ただ一人だけ。


 身体に満ちる不思議の力を感じながら、私は誰、と心に問いかけてみる。

 この魂は確かにかつて寿々弥と呼ばれたもの。想いも記憶もここにある。

 でも、今の私は、寿々弥ではない。この身に宿る力も、かつてのものとは違うもの。

 この身体は、迩千花として生まれた少女のもの。

 けれど、本来の主である少女は……緋那は、最後まで私をそう呼び続けた。


 わたし、いえ私は――。


 一度俯き、沈黙する。失ったもの、託されたものはあまりにも重い。

 けれども、自分は選んだ。迷ったとしても、悩んだとしても。

 答えは私の――迩千花の中にある。

 毅然とした表情で見上げる先、何よりも大切に想っていた二人の戦いは今も尚続いている――。


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