『迩千花』
――『私』は、気が付いたらここに居た。
最初は、名前も無かった。
何故にそこに居たのかも分からないけれど、何故か自分が花精でありながら、そう生まれたのではない事だけはわかった。
ただぼんやりと庭に佇み、屋敷の移ろいを眺めて過ごして居た。
誰も自分を見る事が出来ず、確かに居るのに、居ないものとして。
庭にある社に呼びかけながら、漂うように過ごして居たある日『迩千花』は現れた。
不思議と他人に思えない彼女は、自分を確かに目に捉え名をくれた。
――そして『私』は『緋那』になった。
久黎は、緋那を呼んだ――『迩千花』と。
花精の少女こそが、かつてそう呼ばれていたものであり、本来のこの身体の持ち主であると認めたのだ。
だからこそ、何故かしらお互い他人とは思えないと。不思議な親しみを感じたのだろうか。
もう驚きに驚きが重なりすぎて心が麻痺してしまったような気がする。口からは掠れた息が風のように抜けるだけで、言の葉にはならない。
彼女程ではないが織黒もまた驚愕に言葉を失っている。
兄が連綿と紡いできた謀、その最後にして最大の犠牲者とも言うべき少女の果ての姿を黒の双眸が凝視している。
緋那の顔に、何時ものような朗らかな笑みはない。この庭を訪れる度に出迎えてくれた微笑みは何処にもない。
最大級の侮蔑と嫌悪を露わに、未だ迩千花の兄を名乗り続けた青年の姿のままの相手を睨み据えている。
元の少女にとって、久黎は祭神であり畏れを抱き敬った筈。けれども、少女には欠片の恐れも無ければ、当然敬意も存在しない。
一つ息をついたかと思えば、緋那は久黎を指さし告げた。
「貴方が色々やってくれたお蔭で、私も思い出したわ。何故、貴方の笑顔を見て胡散臭いとしか思えなかったのかも」
「仮にも祭神に対して、酷い言い様だな」
「敬われたいなら、相応の行いをして欲しいわよ」
あまりに遠慮なく物申す緋那に思わず目を白黒させてしまう。
元から快活であり歯に衣着せぬ物言いをする事は多かったが、久黎相手でも全く臆する様子がない。
そんな緋那の姿に、少しずつ落ち着きが戻って来る。勇気づけられるように、そこにある現実に向き合う力が生じてくる。
苦い表情を浮かべて嘆息する久黎も、激するまでではないようだ。
呆れた様子で緋那を見る久黎を真っ向から睨み返しながら、緋那は続ける。
「貴方が誰なのか、私の中にある寿々弥様の記憶が教えてくれたわ」
「……寿々弥の欠片か。成程……入れ替えの時に双方にそれぞれの欠片が混ざったから不完全になったのだな」
得心が言ったという風に頷く久黎。
入れ替えの時に生じた不具合。『寿々弥』の魂を宿しても、記憶も力も消え去り目覚めた迩千花。
それは魂を抜き取った後、あるべきものが足りず、あってはならないものが残っていたからだ。
『寿々弥』が『迩千花』の記憶の欠片を有していたように『迩千花』もまた『寿々弥』の力と心の欠片を有していた。
その『迩千花』こそが、緋那――。
花の精霊と化した『迩千花』だった少女は、その眼差しを険しく灼けるようなものに転じさせて叫んだ。
「あの日皆が混乱している中、無理やり魂を引きずり出されて……そのまま放り出されて。それが、どれだけ苦しくて痛かったか!」
少女の脳裏に蘇るのは、呪いをまき散らす獣耳と尾を持つ腹の立つ程に美しい男――堕ちた白き真神。
男はその手で最奥にある魂を無造作に掴み、悲痛な叫びを意にも介せず身体から引きはがし、塵芥のように放り捨てた。
苦痛と哀しみに苛まれたまま、消えゆくのを待っていた少女を救ったのは奥庭に咲く花々だった。
他の人間が鮮烈に過ぎる赤を厭って寄り付かぬなか、修練の合間を縫って訪れては愛でてくれる少女を花々も愛していた。
存在が希薄になりつつあった魂を呼び寄せ、内に抱き、精霊としての生命を与えた。
それも、少女が身体から引き離された時に取り込んだ、ある二つを有していたから叶った事ではあるが……。
そして少女は緋那となり、緋那はここに居た。
笑顔の裏に薄氷を隠し持つ男を何故か恐れながら、その目に触れぬようにしながら。
自分と近しいものを感じる友と語らいながら、この庭に在り続けた。
「私は、ずっとここで呼びかけていた」
緋那は過去に思いをはせるように目を閉じた後、再び開いた後に覗く紅い瞳を友へ、そしてその愛する黒き真神へと向けながら呟く。
「……ここに、眠っているって分かったから。わたしたちを助けてくれる、誰かが」
片隅の祠が何の為にあるものかは知らなかった。
自分が何を恐れているのかも、はっきりとは分からなかった。
けれど、緋那の中にあるものが、ずっと告げていたのだ。ここにはきっと、あの悪いものに対抗できる『誰か』が眠っていると。
だから、呼びかけ続けた。
早く目覚めて。早く戻ってきて。
彼女が、貴方を待っている……。
誰の為に誰を待っているのかもわからない。けれど花精は呼びかけ続けた。
そして綻びかけていた封印は、あの日の終りを願う叫びに呼応し、完全に解けたのだ……。
「お前が、自分の異能の他に寿々弥の異能まで掠めとっていたせいで……余計な真似を」
忌々しげな舌打ちをしたかと思えば、久黎は吐き捨てるように言う。
緋那となった少女には、二人の稀代の異能者の力が宿っていた。
迩千花のものであった異能と、寿々弥の魂が有していた異能。
消滅を待つばかりだった魂を二つの力は留め、故に少女は彼岸花達に救われる事が出来た。
二人分の稀なる力をその身に秘めた少女の声は、現への道筋となり、闇底からの導となった。
そして、呪いに喰らわれながらも戦い続けた真神を現世に少しずつ引き戻していった……。
以前織黒が言っていた、緋那の声に聞き覚えがある気がすると。
それは戦い続けた闇の中、現世へと引き戻す道標となったのが緋那の呼びかけであったからなのだ。
「どうせお前はもう迩千花に戻る事もできぬ半端もの。意地汚く生にしがみ付いていないで、寿々弥のものを寿々弥に返せ」
その言葉に、緋那の他の二人が息を飲む。
緋那を今の姿に留めている内の一つは、寿々弥が持っていた異能。それを返せと言う事は。
速やかに死ねと言っているのと同義だからだ。
あまりの事に言葉を発しかけた時、冷静な緋那の言葉がそれを遮った。
「まだ彼女が寿々弥様だと思っているの?」
「……何……?」
久黎の眉が明確に寄せられる。
その表情から感情の色が見る間に薄くなったかとおもえば、消え失せる。
白銀の冷徹な眼差しを向けながら、久黎の口から聞くものの恐れを呼び覚ますような低い呟きが零れる。
けれどもそれにも動じる事なく、緋那は久黎を真正面から見据えて告げる。
「確かに、私はもう『迩千花』じゃない。そして戻る事も出来ない。今の私は、彼女に名前を貰った『緋那』」
魂は同一であろうと、一度魂が肉体から離れてしまったのであれば、宿る器が違うのであれば、それはもう同一の存在ではない。
元あった存在としての命運は断ち切られてしまったのだから、もう元には戻れない。
そしてそれは、久黎の愛する女とて同じ事――。
「なら、そこに居るのは誰? 遥か昔に生きていた寿々弥様の魂を持つけれど、寿々弥様じゃない彼女は誰?」
それは、自分が抱いていた疑念。
自分は確かに、寿々弥として織黒と久黎と共に生きていた。浄化の焔を受ける事もなく、そのままで在り続けている。
記憶はある。想いはある。確かに自分は寿々弥「だった」という確信はある。
けれど、自分は『誰』なのだという問いが先程からずっと裡を巡っていた。
織黒は何も言わぬまま兄を見据えている。でも、その内に抱く答えはきっと同じ物だ。
「いい加減に気付きなさいよ! 寿々弥様の命は、貴方が断ち切ったのよ!」
「……黙れ……」
容赦なく突きつけられる、久黎が見ぬ振りをしてきた事実。
愛する女を取り戻したい一心で止まる事なく進み続けてきた先にある、彼にとっては認めたくない真実。
唸るように制止を口にする久黎が緋那を見る眼差しがどんどん剣呑なものに転じていき、暗い憎しみが色濃くなっていく。
風が騒めき始め、周囲に雷から生じる火花が見え隠れし始める。
それでも花精に転じた少女は、止める事なくその言葉を元は祭神と祀った男に突きつけた。
「寿々弥様は、もう居ないのよ……!」
「黙れ、この残滓風情が……!」
血を吐くような叫びと共に、一気に久黎の力が膨れ上がる。
それは白く巨大な狼の形を為したかと思えば、緋那へと向けて牙を剥き襲い掛かる。
制止の叫びをあげても白き狼には届かず、咄嗟に飛び出して緋那を庇うように抱き締める。
友の叫びを耳にしながら、衝撃が襲い掛かるのを覚悟していた。
けれども、それは何時になっても、小さな苦痛さえも訪れない。
不思議に思って恐る恐る瞳を開くと、そこには……。
白銀の髪と瞳の男の両腕を全力で掴み上げ、その動きを留めようとする漆黒の髪と瞳の男の姿がある。
その力を振るわんとする兄をと全力で組みあい、止める弟の姿がある。
「……織黒……」
「ああ、そうだな。お前が居るからだ、織黒」
ゆらりと、久黎の身体から黒い靄のようなものが立ち上がり始める。
ああ、と思わず息を飲む。あれは呪い……あの扇に宿り迩千花を襲い、玖珂と見瀬を襲い、織黒を襲い続けた……堕ちた久黎の力。
久黎の目には狂気がある。
凄絶な笑みを浮かべながら織黒を真っ直ぐに見据えて口の端をつりあげると、熱に浮かされたような声音で呟く。
「全ては、お前が居るから。……お前を消してしまわなければ。……今度こそ、封印などと生温い真似をせずに、完璧に」
その言葉を聞いた織黒は、一歩進み出ながら静かに花精に言葉をかける。
「……緋那。……迩千花を任せる」
「わかったわ」
「織黒……!?」
緋那が承諾の言葉を返すのと、戸惑いの声は同時だった。
織黒は視線を久黎に据えたまま、その奥に滾る怒りと哀しみを湛えた声音で告げた。
かつて祭神として並び立った者として。弟として。そして、同じ女を愛した者として。
「……あれは、俺が断ち切らなければならない因縁だ。……俺が、消し去らねばならない、妄執だ」
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