オ・ソロイ 後篇


 高原に建っていた、にしん御殿のような施設。わけありの若い女たちが鞄一つで駈けこんで来ては、生活の基盤が外に出来ると、黙って立ち去って行く。わたしの母もそのうちの一人だった。

「いい子にしていてね」

 母は都会に出稼ぎに出かけてしまい、一年に数えるほどしか帰って来なかった。だから施設にいるわたしにとっては、苑子さんが母のような姉のような、いちばん親しい女の人だった。

 高校生の静ちゃんは、わたしが来る前に、ちょうどわたしのように苑子さんから可愛がられていたらしいのだ。

「園子ちゃん、その服、苑子さんとお揃いね」

 静ちゃんが責めるような眼をしている。その顔は哀しそうだ。返事に詰まっているわたしの前で、食卓を拭いていた布巾を静ちゃんはぐしゃりと手の中で丸めた。

 


 時計草がくるくる回っている。回転がだんだん速くなる。やがてぷつんと茎から離れ、白と紫の花がぶんと空に舞い上がる。時計草のタケコプター。

 テレビもない禁欲的な生活だったが、漫画は学校の友だちから借りて読んでいたし、小児科の待合室にはドラえもんが全巻揃っていて貪り読んだ。だからタケコプターくらいはわたしも知っている。

 メモ帳に色鉛筆でわたしが描いた『ぱらぱら漫画』をめくりながら、航也は「巧いじゃん」と褒めてくれた。

 義務教育の中学校を卒業した子どもたちは何処にでも行っていいと云われていた。費用の工面がつくのならば、施設から高校に通わせてくれる。

 わたしが中学の最終学年に上がる頃、苑子さんが施設から消えた。わたしは気にしなかった。きっとまた逢いに来てくれるだろう。単純にそう考えていたのだ。わたしが苑子さんのことを忘れないように、苑子さんがわたしを忘れることなど絶対にない。

「ぱらぱら漫画のこの花。これ時計草だろ。気味の悪い花」

「航也もそう想う?」

「配色のせいなのか、生理的に無理。食虫植物みたい。少しずつ全ての形状が気持ち悪い。先っぽが男根みたいだし」

 今、なんて。

「アレみたいだろ。古代の落書きによくこんな形で書かれてる。そう見える」

 時計草の花言葉を学んで猛反省して下さい。キリストの受難を象徴する花でもあるんだぞ。わたしは航也の手からぱらぱら漫画を取り上げた。



 苑子さんがいなくなった後、わたしは普通科の高校と専門学校に通った。専門学校卒業と同時に施設を出て洋菓子店に就職し、月給の少なさに嘆きながらも、地方都市で何とか独り暮らしをしていた。専門学校の費用は母親と再婚した台湾人の男性が出してくれたらしいが、わたしにはよく分からない。母親の顔も忘れがちだ。再婚した母親は夫のいる海外に行ってしまったからだ。

「園子には二度と逢わないで」

 母親の金切声が耳を打つ。

「二度とわたしたちに関わらないで」

 大きくなると、古い記憶に辻褄が合ってくる。ああそうか。航也と付き合うようになって、ようやく合点がいった。父親だった男は母の眼をぬすみ、隠れてわたしの身体を触っていた。父親だと想っていたが、多分あれは、その当時母が付き合っていた赤の他人の男なのだ。

「必要以上の不健全な接触があったということでよろしいですね」

 役所から来た人たちが、苑子さんを聴取している。誰かが告げ口をしたのだ。わたしではない。わたしは十歳年上の苑子さんのことが好きだったのだからそんなことをするはずがない。外部に漏らした者は誰だろう。静ちゃんかも知れない。


『冷やすと美味しいレモン味のシュークリーム』


 黒板みたいな看板にチョークで新作のイラストを描く。ケーキ工房の敷地内にはログハウスを模した併設の売店とカフェがある。地元情報によく特集されるせいか辺鄙な場所にあるわりには他県からも車を列ねて客が来る。

 白、黄色、赤のチョークの粉が手の中で混じる。絵が描けるので看板書きを頼まれているのだ。

『ケーキ工房直営食べ放題(飲料代込)』

 その横に朝顔を描いた。真夏の太陽が朝から下界を照らしつける。ケーキ・バイキングは夏休みのイベントとして大人気だ。親に連れられた子どもたちが連日食べ放題に押し寄せる。

「夏季限定のゼリーはすぐに無くなるから今日も多めに出してもらおう」

 販売促進部の社員が朝礼の後に店内を見廻って出て行った。星型に型抜きをして中に金魚のかたちのゼリーを沈めた冷製の菓子はこの時期よく売れる。

 園子ちゃん。

 苑子さんの唇がわたしのうなじに触れる。とても白くて細くてきれい。お人形のような首ね。そして石けんをつけた苑子さんの両手が掬い上げるようにしてわたしの胸を掴む。みて。真ん中に小さな赤い実がある。まあるいお菓子みたい。こうされると気持ちがいい? 教えて。

 お餅をもみもみ揉まれているみたい。

 ようやく感想を口に出すと、苑子さんは風呂の中ではじけるように笑った。

 檸檬色の石けん。薄荷色の浴槽のタイル。風鈴の音色。

 苑子さんの若い女のからだ。

 そこには、しなやかにうごめいて絡まる白い裸体と黒髪はあっても、わたしの記憶の中に赤はない。

「わたしと園子ちゃんがお揃いのお洋服を持っていることを、静ちゃんに、そんな風に云われたの?」

 湯舟の中でわたしが頷くと、いつものように「じゃあこうしましょう」と苑子さんは云った。わたしが嫌な顔をするものは、時計草のように、いつも苑子さんが別のものに置き換えたり云い換えてくれる。

 オ・ソロイ。

「お、そろい」

「そう。オ・ソロイ。だから静ちゃんが咎めた『お揃い』は的外れ」

 苑子さんの手や指がわたしのあちこちに触れている。お風呂の蒸気でわたしはぼうっとしていたし、お湯の中で滑るだけだったし、くすぐったいなとしか想っていなかった。浮世離れしているかどうかは知らないが、そういうことに対してわたしはかなり晩熟の方だった。

「二度とわたしたちに関わらないで。この子に触れないで」

 母親が怖い顔をして恋人に告げている。家に来ていた男の顔はまったく想い出せない。やがて夢の中で母親がきつい調子で怒鳴りつけているのは、男ではなく、苑子さんの顔に代った。

 苑子さんは施設から姿を消した。追い出されたのだ。

 役所の人たち、それと学校の先生から色々訊かれてもわたしはほとんど何も応えなかった。一緒にお風呂に入っていました。小学校に通う時は手を繋いでいました。苑子さんはわたしの面倒をみてくれました。

 だから何があったのかを正確に知っている人はいないはずだ。一人だけ知っている者がいるとしたら、それは静ちゃんだろう。その静ちゃんも苑子さんに先んじて施設からいなくなったから、密告者が静ちゃんだったのかどうなのかを確かめるすべもない。



 隣家の軒先に吊るされた風鈴が鳴っている。すだれの隙間から日差しが針状に眩しく浮かぶ。

「戦争未亡人だけでなく、女の人しか愛せない女の人も、ここには集まったのよ」

 わたしに触れながら苑子さんが何か云っている。わたしにはまだ意味が分からない。苑子さんの唇がわたしの唇に触れる。草の味なんかしない。女の人の唇は柔らかくてマシュマロで出来たおもちゃの舟みたい。

「天使かと想った」

 航也は入社してきたわたし見て愕いたそうだ。

「とても可愛くて、天使かと想った」

 惚れた弱みにしても大袈裟な。客観的にみてもわたしは平凡な顔立ちだ。ただ、内面の淡泊さや無個性が外に出るのか、世俗の垢には染まらない人形のような、無性に近い印象があったのだろう。それには、苑子さんがわたしにかけた呪文も影響しているのかもしれない。



 夏風が吹く。空が青い。苑子さんの服をわたしはまだ大切に持っている。

 オ・ソロイ。

 苑子さんがミシンを使ってわたしに洋服を縫ってくれる。冬は毛糸でセーターを編む。小学校に通学するのに施設の恰好では目立つので、季節ごとに普通の子と同じような服を苑子さんが作ってくれた。それは全て苑子さんとお揃いだった。

「わたしと園子ちゃんだけの、オ・ソロイよ」

 独特の言葉を唱えて、苑子さんはわたしに新しい服を渡してくれた。苑子さんが施設からいなくなると、わたしは苑子さんが自分の為に縫った大人用の服をもらいうけて、その服を着て施設から専門学校に通った。

 前掛けと白い頭巾。畑の上を飛び回っていた、たくさんの蝶。男が一人もいない高原の秘密基地で、男たちの眼から隠されていたわたしたちの生殖器官。

 ちらちら。ちらちら。白い羽根が舞う。妖精や天使が朝の野原を飛び回る。

 施設はすでにない。あの場所に戻ることも二度とない。わたしはその址を知ることはないだろう。知らないままでよいのだ。敷地は最後に残っていた権利者がついに売却し、今頃あの一帯は黒光りする太陽光パネルが一面を覆いつくして、うねうねと黒いテトリスのように見苦しく大地に続いているはずだ。

 緑の上に落ちる日光は日陰をつくるが、武骨な黒いパネルは、ぎらりと太陽を反射する。妖精や天使はそんな処にはいないのだ。でももしかしたら、放棄された御殿の廃墟には、隣家から蔓がしのびより、朝顔や時計草が太陽光パネルに負けじと不気味さを競って咲き乱れているのかも知れない。あのタイル貼りの風呂にも雨水が落ち、浴槽にはぎっしりと、時計草が時を止めて揺れているのかも知れない。そこに妖精は遊びに来るだろうか。

 わたしの苑子さん。

 その子。

 航也と結婚して子どもが生まれ、わたしは子育てに忙しい。わたしの年齢はすでにあの頃の苑子さんの年を超えた。行方不明のまま見つからない苑子さん。今でもその名を心の中で呼ぶ。はるか遠い処にいる知らない若い女の名を呼ぶような気がわたしにはする。あれは性愛などとは違っていた。幼い少女を相手に、雛あそびをしていた苑子さん。

 御殿の中に棲んでいた無性の人形たち。妖精か天使を愛することが出来るのは、妖精か天使の存在を信じる者だけだ。

 わたしの園子ちゃん。

 その子。

 あなたはわたしの天使よ。

 オ・ソロイね。

 「その子」は誰にも何にも繋がらないまま、男女の性からも離れ、日陰に花を咲かせている。仄かな苦みのある草の味を漂わせ、想い出の中、廃墟に月のように浮いている。



[了]


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オ・ソロイ 朝吹 @asabuki

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