オ・ソロイ

朝吹

オ・ソロイ 前篇


 隣家は廃屋だった。崩壊した木造家屋に巻き付いてぎっしりと花を咲かせている気持ちの悪いその植物の名を教えてくれたのは、行方不明になった苑子そのこさんだ。苑子さんは今も見つかっていない。なんとなく苑子さんとは、この世ではもう逢えない気がしている。

 崩れた古い家の外壁に這いまわる時計草は遠くから見れば綺麗なのに、近くから見ると、耳たぶのあたりが冷たくなるような気がしたものだ。

「せめて真ん中から生えている、あの変てこな部分がなければ、まだいいんだけど」

 片目を瞑るようにして時計草の中心部の雌蕊しずいを指さすわたしに、苑子さんは「あれは生殖器官よ。生々しいわよね」と頷いた。

「こうしましょう。園子そのこちゃん、これはね、妖精さんが上着や帽子をかけるところなの」

 三つに分かれたそれぞれが長・短・秒針に見えるから時計草という名がついたそうだが、わたしの眼には触覚に見える。さらにその後ろで五又に分かれている部分も気味が悪い。

 苑子さんは雌蕊の先の膨らみを指した。

「妖精さんが外套や帽子を、時計草のここに引っかけるの」

 妖精ときいて、わたしの脳裏にはたちまちアーサー・ラッカムの絵画が想い浮かんだ。苑子さんがいつも使っている栞がその絵だったのだ。わたしは苑子さんに文句をつけた。

「日本にはあんな妖精はいない」

「天使でもいいのよ。園子そのこちゃんの眼には、見えないだけよ」

 妖精も天使も西洋のものでしょ。

「さあ、もう帰りましょう」

 不満顔のわたしの手を引き、苑子さんは廃屋から離れた。

 苑子さんとわたしは同じ名だ。二人とも『その子』だ。ただし漢字が違う。

「あなたも、その子というのね」

 わたしと苑子さんは施設で出逢った。苑子さんは十八歳。わたしは八歳。十歳違い。

 これからは、わたしがあなたのお世話をするわ。

 苑子さんはわたしを見て微笑んだ。



 わたしは宗教施設で育った。と云うと、誰もが顔の前に一枚の幕を垂らして、それ以上深入りしてこない。

「宗教施設といっても尼僧院みたいなところで、女の人しかいなかったの。いろんな事情で家を出たり、自力では子どもを育てられなくなった母親が子どもを連れて共同生活をする処なの。一番似ているのはDVシェルター」

 素早く説明を付け加える。すると「ああ、そういうこと」と途端に人の態度は緩和した。

 閉鎖的な施設で育った為にわたしは世の中の人たちが当然のように知っている情報に疎く、世間ずれが激しい。隠しておくよりは特殊な育ちであることを最初に打ち明けてしまうほうを選んだ。

「どんな処だったの」

 生い立ちを告白するわたしに、人々は施設のことを訊ねる。いい処だったよとわたしは応える。古くて大きくて、外観は北海道の、にしん御殿に似ているの。

「高原野菜を育てていて空気がきれいで、夜になると山の上には天の川が見えたのよ」

 近づかないで。

 二度とこの子に関わらないで。

 何度も後ろを振り返りながら、母親がわたしの手を引っ張って歩いている。

 何処に行くのママ。

「詳しいその場所は云えない。追いかけてくる人たちから隠れるための住まいだから。春になると、畠にたくさんの蝶々が舞うの。敷地の中にはいろんな果実の樹が植えてあって、施設の女の人たちは共同作業でジャムを煮ていた」

 御殿に暮らす女たちは大人も子どもも、麻のだぼっとした服に前掛けをつけて、頭には三角巾をつけていた。

「アーミッシュのむらみたいだね」

 工房から届けられた試食用の蜜柑のタルトをかじりながら、恋人の航也が云った。商品開発部にいる航也は手許のPCに味見した点数と改善点を書き込んでいる。

「そう、そんな感じ」

 調子よく相槌を打ったものの、アーミッシュが何か分からない。後で調べておこう。


「この子は園子その子です。八歳です」

「よろしく、その子さん」

 女しかいないその施設に母親に連れられて入ったわたしは、わたしと同じ名をもつ苑子お姉さんに迎えられた。翌日の午後、台所で苑子さんとクッキーを焼いたことを憶えている。透明の袋に入れてリボンをかけ、町に持って行って売るのだ。

 畠で作る作物、ジャムや焼き菓子、手作りの小物。これらを私たちは道の駅で売っていた。

「手すりのささくれに気をつけてね。古いから。戦後すぐに、戦争未亡人が共同出資して建てた家なのよ」

 苑子さんは二階建ての御殿のようなその家の中を案内してくれた。

「戦争未亡人の他にも、徴兵のせいで若い男の人がいなくなって適齢期を逃した女の人や、配偶者と死別した人などが、戦後、寄り集まって此処で暮らしていたの。そのうちに女たちの駆け込み寺のようになっていったのよ。行政よりはやく、此処は女のための避難所だったの」

 初代の女たちのうちの一人に旧財閥系の令嬢がいたことから、半世紀ほどは潤沢な資金を基に悠々と成り立っていたのだが、時代が変わり、代替わりし、法律関係を一手に引き受けてくれていた顧問弁護士も他界するにつれて世間からもすっかり忘れ去られてしまい、実態のない宗教めいた看板だけが残された。

 世事に疎い老嬢たちは未来を見据えて何か現実的な手を打つこともなく、古い日本家屋で自給自足をしながら初代の住人は順番に死んでいき、わたしと母が辿り着いた頃の施設は、女たちが月謝のようにして月々納める金と、端末を扱える若い者たちが中心になって始めた手芸のネット通販、出稼ぎで、ほそぼそと成り立っていた。

「原始共産主義みたいだな」

 似たような宗教団体は世界中に他にもあるらしい。恋人の航也がわたしの黒髪を撫ぜる。すごくきれいな髪だと褒めてくれる。施設で過ごした子どもたちの髪はドライヤーの熱にもあたらない。その習慣を今でも続けているので、わたしの髪はつやつやなのだ。

 


 航也に頬ずりや口づけをされると、苑子さんにも同じことをされていたことを想い出す。苑子さんと違って男の顔には髭があって、剃っていても剃り残しがちくちくとこちらに刺さる。

 その航也がわたしの誕生日にお揃いの指輪を誂えて贈ってくれた。オ・ソロイだ。

 そう云うと、「お揃い」と訂正された。

「全体的に浮世離れしているのは仕方がないとしても、だいたいにおいて、姉妹のようにして育った苑子さんの影響が君は大きいよ。オ・ソロイって何。なぜお揃いのことをそんな風に云うの」

 ピーピー豆の音。

 神経に触る者がいるとかで、音楽を鳴らすことも許されなかったあの施設で、苑子さんは植物を楽器にすることをわたしに教えてくれた。烏野豌豆からすのえんどうを口に咥えて吹き鳴らす。唇の上に草の苦い味がする。小学校へは山を越えて通った。苑子さんが毎日、送迎してくれた。

「こっちはナズナ。こうやって三角の部分を少しはいで耳元で振ると、三味線のように音が鳴るのよ」

 畦道で飽くことなく草笛を鳴らしているわたしを見詰め、苑子さんは妖しく微笑んだ。少し苦い味がするでしょう。憶えておいて。それは愛し合う時の味だから。

 小学校でリコーダーを習うと、わたしは野原で烏野豌豆にかわり、たて笛を吹き鳴らした。観客は苑子さんだけだ。

「今晩で千日目よ」

 へえ、千回も苑子さんと一緒にお風呂に入っていたのか。

 昭和の大工が建てた、御殿のような施設のお風呂は浴槽が小さめで、底が深く、膝を折らないと入れない。古めかしいタイル貼りのお風呂。青磁色をした縦長のタイルの行列はわずかに歪んでいて、当時の職人が一枚一枚貼り付けた痕が見て取れる。浴槽よりも洗い場の方が広くて、わたしはよくタイル張りの床の上で石けんを滑らせて遊んでいた。浴槽の縦長のタイルと違い、洗い場は、角のとれた台形や丸みを帯びた色んな形状のタイルが敷き詰められていて、その中にお気に入りの一枚があった。筒状のかたちをした薄桃色のタイル。それを見ていると口の中が甘くなる。マシュマロに見えるのだ。

 そのお風呂に、わたしは毎日、苑子さんと一緒に入っていた。

「苑子さん、わたしにもあれをして。園子ちゃんにするように、わたしにもして」

 或る日、掃除当番だったわたしが風呂場の脱衣所に入ると、高校生のしずちゃんが苑子さんの首に両腕を回して接吻をねだっていた。



》後篇

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