第33話 愛情弁当と桜の神の歓迎

汗も引き、腰かけた姿勢で足のストレッチをしていると途中で追い抜いて来た同じバスの親子が上がって来た。母親は疲れているようだったが、男の子は元気で、踊り場に舞い降りて来た一羽の蝶を眺めていた。

暫く桜の木の周りをふわふわと舞っていたがすーっと翔の左肩にとまった。

周りにいた人達も歓声を上げる。

暫くの間翔の肩で羽を開閉して休んでいたが、またふわりと祠の方へ舞い上がり桜の木を回ってから山の中へ消えていった。

蝶は羽の前側が黒で、後ろの羽は茶褐色がベースになっていて、黒い翅脈しみゃくに半透明の浅葱色あさぎいろの美しい斑模様まだらもようが入っていた。

「何て言う蝶々?」

男の子が母親に言った。

「何て言うのかしらね。青いアゲハ蝶かな。帰ってから調べてみようね。」

母親が言うのを見て二人は立ち上がり席を譲ってから翔が口を開いた。

「アサギマダラっていうんですよ。ここが標高の高い山地の証拠で、秋には台湾みたいな温かい地方に何百キロも飛び、海を渡る個体もいる蝶です。」

男の子がベンチに腰掛けて足をぶらぶらしながら母親のスマホを借りて調べてみる。

「本当だ!綺麗な蝶々だよね。ここは紫陽花しか花咲いていないのに飛んで来たんだね。」

翔に聞きに来たので、しゃがんで目線を合わせてから森を指差して話す。

「あそこに赤紫のアザミが咲いているでしょ。その下にちょこちょこ咲き始めているのがフジバカマっていう花。両方ともキク科の植物なんだ。アサギマダラはキク科の花が好きなんだよ。」

男の子は目を丸くして聞いている。様子を見ていた母親が翔にお礼を言う。

「ありがとうございます。詳しいんですね。」

「この山に登る前、ガイドブックやネットで調べた内容です。山の生態系に興味があるものですから。」

山に入れなかった翔は小さな頃から『山』そのものに憧れを持っていた。童話や小説の世界と同様に『山』は異世界の存在だった。触れる事が出来ない分『知識』として貪欲に情報を吸収していた。自然科学をはじめ、翔が理系科目に強いのもこうしたコンプレックスに起因するところはある。

聡史は様子を見ていたが翔が話し終わると男の子の所に来て、翔の反対側にしゃがんで言う。

「いい経験出来たね。ここでちょうど半分登って来たところだよ。これからがきつくなるからお母さんを助けて頑張るんだよ。」

「うん・・・」

男の子は言ったが、不思議そうに祠の後ろを眺めている。

翔はその視線の先を探るとにっこり笑って振り向き、男の子の頭を撫る。

「しー」

微笑んで右手の人差し指を口に当てた。


リュックを背負い、チェストストラップとウエストベルトを締めて歩き出す。

第二鳥居で一礼したがやはり風は吹かなかった。

二人は顔を見合し、笑い会って鳥居をくぐった。

鳥居を抜ける時ふわりとひのきの香が漂ってくる。

足を止め周りを見渡すが、参道からはしいの木や樫木かしのきは見えるが、檜は見えない。

周辺の山には檜や杉の人工林があるのでどこかに植わっているのだろうと思い、再び歩き出す。

第二の鳥居まで既に七百段の階段を上っている。

踊り場のベンチで休む人達が増えてきていた。

『ここで千段です』と木の板に焼き印を入れた看板があり、二人は腰に手を添えて上の鳥居を見る。

「やっと最後の鳥居が大きく見えて来たな。残り四百段か。もうちょいだな。」

聡史が言う。

二人とも息は上がっていない。

相変わらず檜の清々しい香りがして、休んでいる人たちにも心地の良い森林浴の場を提供していた。

参道のすぐ脇に春楡はるにれの木があり何かが跳ねているのが見える。

他の人達も気付いたらしく人が集まって来た。

木の幹の周りを素早く移動している影を追うと日本リスが二匹いた。

人間に対して全く気にせず暫くの間走り回り隣の木に飛び移ると森の中に消えていく。

リスが消えた森の奥ではキビタキの鳴き声も聞こえて来た。

「ここに来て正解だ。今までネットや本で見ていたものがどんどん体験できる。」

翔が口を開いた。階段を上る以外の理由で心が高揚しているのを感じる。

「だろ。登山はまだこれからだけれど十分に楽しいな。流石に人気のコースだ。」

足を止めていた二人は再び参道に入り階段を上る。



最後の鳥居が目前に迫って来た。情報では鳥居の先から境内までの50メートルは鳥居前の商店街になっていて土産物や縁起物を置く店や露店が並び賑わっている筈だ。

登山口から千四百段目を踏みしめ振り返る。

真っ直ぐに伸びる階段と紫陽花が濃い緑色の森を切り取り、白く美しい道を造っていた。

くぐって来た朱色の鳥居と、所々にある灯籠が神聖な雰囲気を醸し出している。

目線を上に向けると、遥か遠くに海と空の境界が異なった青色を霞の中に見出だせる。

鳥居に向きなおし一礼して鳥居前町に入った。

境内に入るための大鳥居と御神門が見え、その前に小さな商店街と休憩所、露店が建ち並び多くの観光客で賑わっていた。

右側にある広い有料駐車場は若干の空はあるようだが三人いる警備員がせわしなく動き回っていた。


木々が無くなった分直射日光が東の空から半袖の腕に突き刺さり、暑さはそれほどでも無いものの夏である事を思い知らされる。

休憩場にあるトイレには登山口のものと同じ時計と温度計がある。

9時16分、気温24℃湿度52%と表示されていた。

天気予報は一週間分全て太陽のマークになっている。

「休み休みとはいえ一時間くらいかかったか。十分楽しかったけど思ったようにはいかないもんだな。祐樹に言われた通りの予定にしておいて良かったぜ。」

予定を組むとき、素人の二人は地図の直線距離と歩行速度をかけて行程を計算していたが、ワンゲルの中野祐樹から高低差の分が欠けていると指摘され、当初計算していた日程の倍以上になっていたのだった。

「素人って怖いよな。山をなめると本当、命に係わる。俺なんか小学生よりも『山』ド素人だからここから思い知らされるんだろうな。」

オープンテラスになっている休憩所のテーブル席に腰掛け荷物を下ろす。翔がリュックから二人分の弁当を出している間、開店したばかりの露店で聡史が串団子を買ってきた。聡史の分の弁当を渡し、団子を貰う。

「お!これが雫さん達の手作り弁当か。待ってました。本当にお前と友達になれてよかった。俺の青春に一片の悔いなし。」

右手に箸を持ち、拳を挙げて天を見上げる。

『ラオウか?』涼し気な眼差しで聡史を見ながら弁当を開ける。

母親がいない聡史は自炊出来るが楓との面会以降みんなで応援してくれる事になり、昨日から寛美や美鈴も翔の家に泊まり深夜から女性陣が弁当作りをしてくれていた。

翔の母親は病院で夜勤当番の為、寛美達と入れ替わりに出勤して朝まで戻らなかった。

聡史も泊まり嬉しさのあまり皆でしゃべり続けたため一睡もしていなかったのだった。

雫が二人を駅まで送った後、女性陣は一休みして昼過ぎから大学のプールに遊びに行くことを聡史だけは知らない。


「あんたのは、美鈴みーちゃんが詰めたんだから心して食べなさいよ。」

雫が言うと美鈴がはにかみながら手渡す。

「詰めただけだよ。」

「ありがとう」

言って受け取る。

「それだけ?」

雫に言われるがそれ以上の言葉は浮かばなかった。


テーブルに弁当と団子、水筒のお茶を広げ二人で手を合わせて『いただきます』と言い食べ始める。聡史が一口食べる毎に『旨い旨い』と言う。

事実、雫達が作ってくれた弁当は旨かった。

中身はシンプルで卵焼きやお浸し、煮物と鳥の照り焼きに、おにぎりが三つだが、今まで食べた弁当の中でもこれほど嬉しくなった記憶はなかった。

今日の予定は、昼過ぎ頃に槍穂神社の『奥宮』に行き、今回は山頂には行かず西ルートに入って簑沢権現山に向かう簑沢峠を縦走して、中間の管理人がいる有料の山小屋で一泊する。

ホームページに連絡先があったので予め予約済みである。

奥宮は標高で1300メートルここからは更に700メートル登る事になり、今登って来た階段の三倍以上の登山が始まる。

少し休んで10時頃には境内から登山道に入って奥宮を目指すことになる。

境内までの階段で身体を整えて食事をとってからペースを上げる予定なので14時には到着出来ると計算していた。登山の相談をした時に祐樹からアドバイスを受けての計算だった。最初の1時間で身体の異変を感じたら躊躇なく予定変更をするようにも言われているが、二人共絶好調で十分にこなれた感じがあった。

食事を済まし、串団子の串を折りたたんで包みの紙に丁寧に入れ、他のごみと一緒にゴミ箱に分別して入れ、募金ボックスに規定の小銭を差し入れて休憩所を出る。

売店でスポーツドリンクを買いリュックのボトルホルダーに差し込んだ。

ミドルレイヤーのマイクロフリースジャケットはまだ着なくても良いと思い何時でも取り出せるように入れ直している。



二人は鳥居前町を見ながら境内へ向かって歩く。9時を過ぎて店のシャターが開きほとんどの店の人が観光客に朝の挨拶をしている姿が見えた。

鳥居前町との境に水路があり、石造りの橋を渡ると境内に入れる。右前に『槍穂神社』と石柱の社号標がある。石橋を渡り、大鳥居の前に来た時、そよ風が舞う。

「へっへっへ。大歓迎だな。」

聡史が翔を見てドヤ顔で言う。

「俺達が。だろ。」

翔も笑い出す。

ハイタッチして、改めて姿勢を正し、深い一礼をする。

大鳥居をくぐり御神門でも頭を下げてから境内に入るとどこからともなく、ふわりとした桜の香りのそよ風が舞った。

二人は周りを見渡すが当然桜の花は咲いていない。

「なんだ今の。桜餅でも売ってるのかな。翔も感じた?」

聡史が聞く。

「ふわっとした芳香だったな。体が軽くなるような・・・」

翔が応えていると手水舎てみずやで巫女と水盤に花を浮かせていた男性の神職が歩いて来た。

「ようこそお参りいただきました。大神様から御歓迎いただきましたよ。登山ですか?」

浅葱色あさぎいろはかまを履いた二十代後半の神職は二人に言う。

「はい。これから奥宮へ登り権現山に向かう予定です。歓迎って、鳥居くぐる時の風の事ですか?」

翔が応える。

「鳥居でも風が吹いたんですか。それは凄い。私が言ったのは御神門を入った時の春風の事です。桜の香でしたよね。御祭神の木花開耶姫命は桜の神様なんです。何年かに一度くらいの御歓迎です。良い旅になりますよ。」

神職は笑顔で話してくれた。


境内に入ると目の前に大きな神楽殿がありその手前に狛犬が神域の守護をしている。

狛犬の左手前に神職がいた手水舎があり、巫女が一人で花を並べている。

対面の摂社が三棟あり、お祀りされている神様の名前が書いてある様に見えた。

神楽殿の手前で左右に分かれた参道があり右には『宝物殿』左には『社務所』と看板が掲げられている。

思っていたよりも広く大きな神社であった。


境内を見回してある事に気付く。

「あの。この神社の狛犬は普通の神社の物とは違うんですね。」

翔が訊ねる。

「ええ。神社の御神使しんし様は狼の御姿をされております。大神祭おおかみさいでは御神使様の物語を舞うのです。来年、御機会ありましたら、いらっしゃってください。」

神職は神社の起こりや大神祭について説明をした。

寛美が語った『大神祭』の起源を思い出す。自分との関係に思いを馳せた。

『次は家族で来よう』強く思う。

神職と話していて聡史の気配がない事に気付く。

キョロキョロしていると神職が笑顔で手水舎を指差した。

『・・・いつの間に・・・』巫女の花桶を持って楽しそうに手伝っている。

『あいつは本物だ』がっくりと肩を落とし神職と一緒に手水舎へ歩く。


手水舎に来ると桶の花は全て水盤に色鮮やかに浮かべられ、涼し気な情景を創り出し、梁に通された竹の格子に結ばれた無数の風鈴が風にそよぎ涼の音を醸し出す。

立ち上がった龍の口から水が落ち、中央の太い竹筒が受け口となり縁に組まれた竹の吐水口が六か所あり、水が滴っている。

翔は滴り落ちる水で手を清め口をすすぐ。

「ありがとうございました。」

聡史に言って巫女は去っていった。

名残惜しそうに目で追いながら聡史も手と口を清める。

「よろしければ、登山の安全祈願なさいませんか?拝殿で受付できますよ。」

神職は言い巫女と同じ方向、社務所に歩いて行った。

腕時計を見ると9時47分を刻んでいる。

「時間押しているけどお祓いして貰おうか。」

聡史が言う。

「そうだな。これだけ歓迎して頂いて素通りしたら罰当たるな。」

翔は応えるが日本の神を意識するようになって正式な挨拶をしたいと思っていた。

神楽殿を左へ曲がり参道に沿って迂回して拝殿の前に出る。

参拝客は多くいたが今は授与所でお守りやおみくじ、御朱印を授かるために列を作っている。

拝殿の右側にも授与所が置かれ大勢の人がいたが拝殿前には誰もいない。

神楽殿を背にして参道を歩く。拝殿の両側に注連縄しめなわを巻かれた楠木くすのきの巨木があり、それぞれ白木の柵で囲まれていた。

拝殿前で一礼して階段を上がる。

賽銭を差し上げ前を向くと、本殿の御神域が奥に見える。

仕切りの欄間には光雲らしき人と女性。おそらく村長の娘の雫が三頭の狼を従える物語を伝える古い彫刻が見える。

拝殿で参拝して左側の御祈願受付に向かい靴を脱ぎ、呼び出しの鈴を鳴らすと巫女が出て来た。

「御祈願ですか?こちらにご記入ください。」

言われ、それぞれ書き込み『初穂料』を差し出すと待機所に通される。

程なくして、受付の巫女に呼ばれ拝殿内に通される。

太鼓の音が鳴り、手水舎で説明をしてくれた神職が烏帽子えぼしを被り、狩衣かりぎぬを纏って現れた。

「ようこそお参りいただきました。」

改めて言い、前室で『修祓しゅばつ』という禊払みそぎはらいを行い、本殿へ導いた。

巫女がお祓いの作法を伝え、指示されるまま従い神職が祝詞のりとを奏上して、登山の安全祈願は行われた。

通常の御祈願の場合、木の御札を授与されるのだが、ストラップ付の小さな御札を頂く。

二人で神職にお礼を述べる。

「槍穂の大神様のご加護を授かりました。無理をせず、楽しい登山にしてください。」

和やかに話してくれた。

本殿からの退場の際、再び太鼓の音で送り出された。


靴を履き、頂いた御札をリュックに着ける。

先程まで人がいなかった拝殿前は長蛇の列が出来ていて、祈願の受付にも記入待ちの人達が並んでいる。

巫女も二人いて、手水舎の巫女がいるのを聡史が見つける。

「お祓いしてもらいましたよ」

愛敬を振りまくと、巫女も爽やかな笑顔で応えてくれたので聡史のテンションは更に上がった。

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