第4話 事故の報告書と事件の真実

十年前。

翔は槍穂岳西側にある崖下の川原で発見された。

大きな怪我はなかったが夏にもかかわらず手足の指先に凍傷を負っていて、多くのボランティアと救助隊員に緊急搬送され回復したものの、家を出てから五日分の記憶を完全に失っていた。


発見される五日前、翔は父親に連れられて槍穂岳に入山した。その後二人は行方不明となる。

翔の記憶が無い為、その間に起きた出来事は未だに解明されていない。

翔が救助されて更に二日後、父親である神崎隆一りゅういちの遺体が発見された。

翔が見つかった場所から北西方向に約2キロメートル。

槍穂岳と巳葺山みぶきやまの中間に位置する登山道からは大きく外れた原生林の中である。

遺体の損傷は酷く、熊に襲われた事故として即日地元の猟友会による山狩りが組織され、一週間の調査の後、オスの月の輪熊が駆除され事態は終結した。

事故の詳細は報道されず、『親子の悲劇』とだけ地方紙に小さく取り上げられたのみである。


法衣のそでの中で腕を組み薄く眼を閉じて住職が語り始める。

「十年間、いろいろ手を尽くして真実を探ったのだが、当時の調査以上のものは何も出てこなかった。私も何度か山に入ったが時間も経ってしまい正確な足取りは掴めないままだ。登山道の外を彷徨さまよっていたおかげで、『丹沢のマタギ』私がそう呼んでいるだけだが、彼らは猟友会とは別で、山住をしながら昔の方法で猟生活をしている。実際には林業や農業事業者達の人達だ。そうした人達と知り合いになれた。彼等からは山道の見立て方や山での不思議な事柄は幾つか聞けたよ。ただ一つだけ、十年前。あの年だけは東丹沢では、特に槍穂岳周辺の山々からは、何故か獣の姿が全く見られなかったという事は分かった。でも、それだけだの事だった。」


十年前。翔が七歳の誕生日を迎えた日の事だった。

朝、父親の隆一に電話が入った。長い問答の後『分かった』とだけ言って電話を切っていた。それから着替えて父の車で槍穂岳に向かった。母や姉にはすぐに戻ると告げていたようだったが、覚えているのはそれだけだ。その次の記憶は入院していた病院で目が覚めた後、父が死んだと告げられた場面になってしまい、ただ泣いた事しか覚えていない。


「僕の記憶が戻れば何か分るんでしょうか。」精一杯の返事になった。

「検死、司法解剖の結果は理解出来る様になったかい?」住職は静かに問う。

「獣と思われる切り傷による外傷で出血多量が原因と。」


司法解剖の結果や当時の出来事を母も姉も教えてはくれない。

もしかしたら本当に知らないのかもしれない。

発見が遅れたのも父の隆一が行き先を告げていなかった為、捜索願を地元警察署に出した後、父親の車が槍穂岳登山口付近の無料駐車場で発見されてからの山岳捜索となった事による。

事故の経緯を自分で調べるようになったのは中学に入学してからで、協力してくれたのは目の前にいる伯父であり、従兄の俊之であった。


「表向きの情報はその通りだけどね。」

「えっ」息を呑んだ。

「今『当時の調査以外分からない』と言ったけど、公にされている情報には隠蔽されている部分があるのさ。」

住職は閉じていた眼をゆっくり開き、翔を見据える。


「もう話してもよい頃だと思う。弥生、お母さんだけは知っている事だが。お父さんの本当の死因は・・・」


住職の話では、隆一の体は一本の大きな白樫の木に引っ掛かっていたという。まるで弾き飛ばされたかのようにその木自体、根が地面から浮き上がり後方に傾いていた。隆一が飛ばされたであろう軌道にある木々は20メートルに渡り左右に倒れていた。隆一の死因はその衝撃によるものであった。外傷の傷は確かにあった。傷は右の胸から左下腹部にかけて六本の裂傷を負っていた。刃物か鋭い鉤爪状のものによる傷であったが、その傷による出血多量死ではないというのである。


「大丈夫かい。」住職は言葉を切って翔を見る。

「はい・・・」情景は浮かんだが自分の所持している情報との違いや、伯父の話が常識離れし過ぎていて理解には遠く及ばない。


子供から見ると大人は皆大きく感じるものだが、父の体はとても大きかったと思う。

当時の記録によると、隆一の身長は187センチメートル体重約70キログラムであった。奇しくも今の自分と同じくらいの体格である。20メートルもの距離を、木々をかき分けるほどの力で、そんな大きな人間を吹き飛ばすことが出来る生き物が、もしくは何かしらの装置が、ましてや自然現象が存在するのだろうか。

翔にとって父親の記憶は七歳までのもので、かすみをつかむような感じになっていた。

ただ、いつも一緒にいて楽しかったと思う。父と二人だけで出掛ける時はいつも白い大きな犬がいて遊び相手になってくれていた。

『あの犬はいつからいなくなったのだろう・・・』


「続けてもいいかな。」放心している様子の翔に住職が問う。

翔は我に返り応える。

「お願いします。」

「事故の現場を発見したのは先ほど話したマタギの一人だ。捜索本部に通報すると規制線が張られ、すぐにヘリで搬送されてしまった。しかも森の上空からワイヤーで担架を吊っての収容だった。一遭難者、しかも絶命が確認されている場合、危険を押してヘリを使う筈がない。さらに、あの辺りからの搬送先は普通、松田にある総合病院だが、そのまま横浜の大学病院に送られていた。家族が横浜在住だからという配慮とは考えられない。」

実際、先に発見された翔は大勢の救急隊により陸路を使って登山口まで運ばれ、神奈川県立松田総合病院に緊急搬送されていた。

「大学病院って、市大病院のことですよね。」

横浜市立大学病院法医学教室の医師が検死の報告書を作成していた。

「搬送先は青嵐学院大学附属病院せいらんがくいんだいがくふぞくびょういん。そこの法医学者による執刀で解剖、検死がされた。我々遺族の同意は一応とったが、隆一の行き先はその時点では知らされていなかった。」

「青嵐大病院って・・・」

「お母さんが今、働いている病院さ。雫や俊之も在籍している大学の附属病院でもあるね。君もいずれ進学する大学さ。」


私立青嵐学院大学。

大学令施行時における最も古い私立大学の一つであり、メインキャンパスは神崎家の三人が住んでいる横浜市綾南区にある。大学病院も道を挟んで向かいにあり専用の地下道でも通じている。行政機関や、隆一の勤め先でもあった地元企業のY.PACをはじめ全国の企業などからの依頼を受け数多くの研究が行われる名門大学の一つである。大戦までは帝国海軍の極秘研究所が置かれていたとも噂される総合大学であり海洋研究も行われていて校内に専用港と研究船まで所有している。また、図書館や考古学資料の蔵書数は国内屈指であり分野によっては国会図書館や国立博物館を凌ぐとさえ言われている。

翔が通う高校はこの大学の附属校である。


「検死の報告書は公式には市大の先生が発行したものが使われているが、その先生は実際には存在しない。しかし市大も警察も正式な検死報告書であるとしている。」

「検死官が存在していないってどういうことですか。それに、アレ?その状況だと、事故死ではなく・・・」

決定的な違いにやっと意識が追い付いた。

「解ってきたかい。そう隆一は何者かに殺されたのだ。熊などではない人智を超えるほどの何か大きな力で。現場の異常な状況から十分に事件性はあった。しかし事故として処理してしまった。事情により我々も同意したのだがね。」


人が死んだ場合、事件性の有無が問われる。

そのための司法解剖であり検死の報告書なのだ。

父、隆一の検死報告書には『事故死』と結論付けられていた。

しかも熊のような獣に襲われて傷を負い出血多量によるものとされていた筈なのである。

『熊』しかも本州の熊は北海道にいる大型のヒグマと違い月の輪熊である。

大柄な人間を20メートルも吹き飛ばす力はない。ヒグマでさえ出来る芸当ではない。

そもそも木々を薙倒なぎたおして飛んだ人間の肉体がどのような状況になるのか、考えたくもなかった。

検死結果は嘘だったという伯父の言葉が間違っているのか。思考が加速して空回りを始めるのを感じた。いずれにしても、検死の報告書は実際に有効となった。

行政手続きも全てその報告書に乗っ取って行われていたのである。

それなのに、その報告者が存在しないという。

「でも、そこまで知っていて何故事実を隠したんですか?その事情っていうのは・・・母さんも知っていたんですよね?」

「うん、県警から連絡があって青嵐大病院に呼ばれたのはお父さんの発見後二日経ってからだった。君と雫を妙子にまかせて、先代の住職であった父と私、そして弥生の三人で向かった。」

話し始めると宗麟は組んでいた腕を膝の前に出し座禅を組むような姿勢で軽く眼を閉じた。

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