第3話 妙光山 黎明寺

翌日曜日。

雫の運転で黎明寺に向かう。昨夜からの雨はあがっていたが、ヘッドライトが濡れた路面を照らし、湿ったロードノイズを出していた。

雫は普段の行動からは考えられないような、滑らかなハンドルさばきで横浜横須賀道路に入る。

保土ヶ谷バイパスから東名高速道路横浜町田ICに入ると薄明りが広がり路面の霧を浮かびあげた。大井松田ICで降り、最初の分岐を山北方面に向かう。国道246号線に合流すると緩い登り坂に入り、『谷峨やが駅入口』の信号に近付いて来た頃には再び小雨が降り始めた。信号を越えると道は下りになりスピードが乗って来る。右の角にガソリンスタンドがある『清水橋』の交差点を右折し県道76号線に入る。

地元の小さな商店を抜けて清水橋を渡った。ここからは長い登り坂が待っている。左に河内川こうちがわうかがいながら、次第に谷を形成していく。道路には所々『ダム放水中 危険』の電光表示板が点灯して河川への進入を警告している。

助手席の翔は左の川を見ると茶色に濁った水は勢いを増して流れているのが見えるが「思ったほどの流れじゃないね。」と言うと、運転中の雫は「そうでもないよ。普段の倍以上の流れだよ。」と姉弟で会話する。

雫はルームミラーに目線をずらすとシートベルトで席に納まったままの母親が寝息を立てている姿を見て微笑んだ。

徐々に坂の勾配が急になり路面がアスファルトからコンクリートの舗装に変わるとタイヤが噛む重低音のロードノイズと短い間隔の振動を出していった。

翔は走りながらダムの放水が見えるかと思って期待していたが、道路は緑深い山の中へ進んでしまい放水している姿は見られなかった。

木々に覆われた分岐をダム方面に曲がると舗装が戻り短い隧道ずいどうを越え更に登って行く。

左に大きく曲がるカーブを越えると、照明が暗く長い隧道に入る。

その隧道を越えると道路が広がり視界が開けるようになる。

道は平坦になり、左の白いガードレールと木々の隙間から神奈川県の水瓶『丹沢湖』が水をたたえている姿が見えた。

まだ開いていない飲食店と丹沢湖記念館を越え永歳橋を渡る。

ジンクリアと讃えられる透明な湖水も雨で濁りが入り幾本かの茶色い筋を描いている。

橋を渡り切り西丹沢方面の分岐に向かう頃には雨脚は更に強くなってきた。

分岐を抜けると再び登り坂が続き、水量を増してきている中川川なかがわかわを右にのぞみながら進む。

ダム湖に流入する上流の川は濁りが少ないが川幅は広がりその勢いは増していた。

崖の整備で道幅が狭くなっているカーブを越えると道の左右に二件ある温泉宿が見え、その先に『妙光山 黎明寺入口』の立札がワイパーの隙間から確認出来た。

寺への細道に入ると車一台が通れるだけの荒いコンクリート舗装された急勾配の坂道があり、木々に覆われた九十九折つづらおりの坂をゆっくりと登って行く。

雨の水が川の様に流れて来る坂道を登りきると砂利敷きの駐車場が現われた。

奥に黒のワゴン車と黄色い軽自動車が止まっている。

軽自動車の隣に停車させると、高速から寝息を立てていた母が大雨に驚いていた。

傘を差しながら車を降りる。

滝のように水が落ちる石の階段の右前には『妙光山 黎明寺』と掘られた古くて白い石の寺標が低く刈り込まれたつつじに囲まれて立っていた。

もう一度階段を見上げると、薄紫色に淡く咲いている紫陽花あじさいとともに黒い瓦屋根に木肌が雨に濡れて黒ずんだ山門が弾ける水にかすんで見えた。

三人は顔を見合わせると、無言で石段を登り始める。

山門まで登りきり、雨水を払っていると玄関の引き戸が開いた。

「弥生。大変な日に来たね。しずちゃん。運転大丈夫だった?」

タオルを持ち作務衣を着た祖母が声を掛けてきた。

「お母さん。元気にしていた?お正月は来れなくてごめんね。」

祖父の三回忌で昨年末に帰省して以来だった。

母が応え、傘を差し小走りで玄関に向かう。差し出されたタオルを受取り軒下で拭き取っていると、本堂の渡り廊下から法衣を着た伯父がこちらを見ていることに気付く。

軽く会釈をするとニッコリと笑って住屋の方へ歩いて行った。

濡れた靴と靴下を脱ぎ、祖母に連れられて冷房の効いた居間に入ると伯母が待っていて麦茶が用意されている。

山寺とは思えない洋風な内装の部屋で、当然のように冷暖房完備であり、全室床暖房まである。こんな山奥なのに何故か携帯も全メーカー使用可能だ。窓の外は土砂降りになり風も強くなって来た様子だが、室内には外の音が全く聞こえてこない。

伯母から一瞬でずぶ濡れになった服の代わりに作務衣を渡された。

着替えて待っていると濡れた法衣のすそを手拭で拭(ぬぐ)いながら伯父が入って来て声を掛ける。

「大変だったね。こっちは夕べから降り通しでね、これ以上降ったら下の道は通行止めになるかもしれないよ。」

ダム湖周辺の道路は降水量が一定値を超えると通行止めになるゲートが幾つかある。

ここに来るまでに通った隧道にも警告板があった。


「さて、早速だけど本題に入ろう。翔だけ一緒に本堂に来てくれ。」

伯父の顔が住職のそれに変わった。


住屋から板の間の渡り廊下を伯父の後を追って歩く。

幅四尺五寸で三間さんげんほどの長さの渡り廊下は、翔達が到着した時に開いていた戸が全て閉まり、風雨に曝され音を立て、時折雷の音も聞こえて来る。

本堂に入ると四本の金柱に囲まれた須弥壇しゅみだんに、二本の大きな蝋燭ろうそくの炎に照らされた薬師如来像が鎮座していた。

壁の間接照明が天井の曼荼羅まんだら橙色だいだいいろに照らし堂内は落ち着いた明かりで包まれている。雨戸が全て閉まっていたが普段は開け放たれ、障子越の柔和な自然光に満ちていた事だろう。

外陣げじんと呼ばれる礼堂の中央に白い敷物が敷かれ座布団が一つあり、そこに座るように言われた。正座して座るとお香の匂い、『白檀びゃくだん』の香に包まれる。正面の薬師如来像を見上げると柔らかい、慈愛に満ちた微笑みを湛えていた。

寺の御本尊である薬師如来像に深く拝礼してから、内陣ないじんを降り本尊を背にして宗麟住職が向かい合って床に座り、翔に足を崩すように促す。

伯父の身長は翔よりも15センチメートルくらい低い、170センチメートルほどのはずだが直接対面するといつも実際より背が高く感じていたが、こうして法衣を着て対峙すると、より威厳を感じ内面に質量を持つ大きな大人の印象を強く感じ取る事が出来る。

母親より五歳上の筈なので今年ちょうど五十歳だが、見た目はずっと若く見え、顔の表情と同様に引き締まった身体をしている。

少しの間を置いて、伯父は口を開いた。

「ちょうど十年になるね。」優しくささやいた。

「はい・・・」どう答えてよいかわからず言葉が続かない。

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