17.私のテキトーな創作論⑪~文学って、なんぞ?~


『智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。』

 草枕/夏目漱石より引用。



 小説をお読みになる方であれば皆様、ご存じかと思いますが、夏目漱石先生が書いた『草枕』の冒頭です。



 人の世って生きにくいよねぇ。はー、やだな。

 という自暴自棄な文章かと思いきや、この文章の続きは、「人の心を豊かにする芸術は尊い」という結論で閉じています。



 ――人が暮らすこの世界は生きづらいけれど、あらゆる芸術は人の心を変えてくれる。



 このような尊大な価値観をベースにし、人との交流や命の尊さと重さを余すことなく描いた『神様のカルテ』(夏川草介先生作)について、少し語ります。


 この小説の主人公である栗原一止くりはらいちと先生は、草枕も含め夏目漱石先生を敬愛する変人医師です。そんな栗原先生の周りで起こる命の物語が尊すぎて、涙なしには語れません。


「一体、夏川草介先生は『草枕』を何万回読んでるんだ?」と思わせるくらい、深みのある物語です。


 小説は1~3、ゼロ、新章と、2023年7月現在で5冊が発売されています。文庫本にもなっています。


 どれも素晴らしいお話が詰まっていておすすめなのですが、最近読んだ新章は、医師としての栗原先生の生き様(作者・夏川先生の価値観)と末期がんの患者の価値観とが真っ向からぶつかり、「命とは何か」という問いに対する一つの模範解答を描き切ったように思いました。私はページをめくるたびに号泣していました。



 草枕も素晴らしい文学ですが、神様のカルテも私にとってバイブルと呼んでも差し支えの無い文学です。




 さて。

 ここで、私は「魅力のある小説ってなんだろう?」という問いにぶつかります。



 ツイッターを眺めていると、

「純文学って何?」

 という問題は永遠のテーマのように思います。



 エンタメ小説と純文学って、一体何が違うの??



 大きな括りで言うと、『草枕』は純文学で、『神様のカルテ』はエンタメ小説でカテゴリー分けされると私は思っています。




 そもそも、小説のネタとテーマなんて、そこらへんに余るほど転がっています。


 そのテーマを使い古した鍋にぶちこんで、どこまで煮詰めていくのか。その煮詰める過程にどんな味のスパイスを入れるのか。主人公にどんなドラマがあって、悩みがあって、葛藤があるのか。

 汚れるものは何か。汚すものは何か。


 そんなふうに、作者の全身が泥と欲と苦悩にまみれて、しっかりと前を向いた先に見える微かな光が、自分の伝えたいもの――書きたいものであると考えています。


 私たちは、

「綺麗ごとを盾にして、文章を雑に振りかざしているんじゃない!」

 と言う感じで、主人公の行く末を想像すると身体に戦慄が走り、瞳に涙がにじんでくるような、そんな自分の気持ちに相反するような物語を無意識に避けていないでしょうか。



「こんな話、絶対書きたくない……」と考えた重いテーマこそ、それに深く真剣に向き合い、繊細かつ緻密に書かないといけない。



 そんな作品こそが芸術であり、そんな人が真の作家なんじゃないでしょうか。





 魅力のある小説って、言葉では表現することのできない作者の想いが言葉の隅々に詰まっているのだけれど、それを決して限られた言葉で伝えるのではなく、限られた日常に切り取られた普遍性が文字を通して誰かの感情を一つひとつ抜き取ってぐらつかせる不安定な構成で成り立っていると、そんな気がしてなりません。


 そう。実に不安定。

 ぐらついた土台の上に織り重なったジェンガのようで、さらにブロックを引っこ抜いてぐらつかせる。読者の心だって、不安定です。



 普遍性と言うのは、「テーマを与えて語る」のではなく、作者も読者もどちらもが、「テーマを紐解いていく」ものと私は解釈しています。だからこそ、不安定で、曖昧なものにならざるを得ないのかもしれません。



 だからこそ、「純文学とは何か?」って、しばしば論争になるのでしょう。明確な答えは、そこにないのです。


 物語を通じて浮かび上がってくるものは、一体、何なのか。

 それが作者も読者も共通して、ぼんやりと描かれてくるものこそが、普遍性たらしめるものなのかなと、そんなふうに考えています。


 数学で言うと、「逆・裏・対偶」みたいな感じで、異なる読者のすべてが、共通して持つ悩みや葛藤、ひいては成長を自身に当てはめていくような形なのではと、なんとなくですが、模索しています。



 ですので、自分が何を伝えたいのかは、あまり物語の中で多くを語りすぎず、読者の感性に委ねて、自ら思考させるものなのかなぁ。考えれば考えるほど、深淵は霧が洞窟の中へ吸い込まれていくように遠ざかっていき、消えていくのです。



 エンタメ性を持った爽快感も大事なのですが、作者も含めた読者に「記憶と感情と五感のすべてに寄り添うような気付き」を与えるような物語――これが魅力のある小説なのでしょうか。これが私の目指す小説の、一つの理想――到達形なのです。



 純文学も、エンタメ小説も、関係ない。

 あなたの心に残り生き様を教えてくれた小説が、文学ぶんがくというものなのだ。



 ……なんて。

 偉そうに結論づけてみましたが、作家でもなんでもない、アマチュア小説家の呟きでございました。



 ということを最後に語り、このテキトー創作論シリーズは一旦、閉じたいと思います。

 最後までお読みいただき、誠にありがとうございましたっ!



 月瀬澪。


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その物語を「えがく」理由 月瀬澪 @mio_tsukise

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