第4話
物陰で見ていた優雨姫が声を上げた。
「し、」
晴明がそれを短く咎める。
だが、気づかれてしまった。
「おのれ、貴様の術か、」
そう言うや否や、狐は晴明に向かって走り、炎を吐いた。それを晴明は扇で受け止め、流す。
「典侍、術など使っておらぬ。私はここだ」
そう言うと、狐は取って返して月夜見に襲い掛かった。すると、どこからか馬の嘶きが聞こえた。
「花佐目!」
優雨姫の声の響く。花佐目は月夜見と狐の間に割って入った。かつて、そうして優雨姫を庇ったように。その花佐目の背に、子狐が乗っていた。
それを見つけて、狐は一度地にその身体を下ろした。
「何じゃ、同族か。我の邪魔をするな」
狐は尚も青い炎を口からちろちろと覗かせて唸っている。
子狐は何かを伝えようとしているが、力が足りず、言葉にならない。代わりにその目からぽろぽろと涙が零れ落ちた。
「お狐様。どうぞその怒りをお納めくだされ。この子のために」
いつのまに来たのか、晴明が子狐を抱き上げた。子狐は暴れもせず、晴明に抱かれている。
「黙れ、黙れ黙れ黙れ!」
狐は吠えた。だが、何かが狐の怒りを収めようとしているのは確かだった。狐は苦しそうにしている。本人も、収まるものなら収めたいのだ。しかし、収まらない炎は、誰よりも狐自身を傷つけている。
「其方らの怒りは、我の血に通じるものであろう。我を殺してその怒りが解けるなら、我は構わぬよ」
そう言って月夜見は苦しがる狐の前に進み出た。
「この身一つで、贖えるなら」
(違う)
それを見た優雨姫の心に言葉が浮かんだ。優雨姫が子狐を見ると、子狐も優雨姫を見ていた。そして、晴明の腕から飛び上がり、優雨姫の腕に飛び込んだ。
瞬間、光が周りを満たした。
気が付くと、優雨姫は一人、森の中に立っていた。そこは深く静かな森で、時折、風の音や、鳥の声が優しく聞こえて来た。
その森は、とても美しく、木漏れ日が玉石のように輝いていた。木も草も花も、誰に遠慮するでなく、自由に生きていた。苔生した岩、生い茂る草木、警戒心の薄い動物達。それは、どこか、人の介在を許さないような雰囲気があった。
しかし、それは、すぐに打ち破られた。
大きな音を立てて優雨姫の近くにあった大きな樹が切り倒された。そして、その傍の木も倒れた。そしてそれは次々に広まった。まるで何かのおもちゃのように、何もないのに樹だけがどんどん倒れていく。
「あ、」
優雨姫の上に、一本の木が倒れて来た。思わず身を屈めて頭を抱えたが、それは透き通っていて、優雨姫の身体をすり抜けて倒れた。どの木も同じように、優雨姫にはぶつかることなく倒れていく。
その中で、優雨姫はたくさんの鳴き声を聞いた。いくつもの種類の、いつくもの鳴き声。姫の足元をたくさんの動物たちが走り抜けていった。大きな動物もいる。鹿、狼、熊。
捕食と、被捕食の関係にあるものたちも、今はそのことを忘れ、一目散に逃げている。
棲み処を荒らされ、追われたたくさんの動物達。
その波の中に、同じように立つ、一人の女性がいた。何かの毛皮を巻いただけの、簡素な衣服を着ている。髪もぼさぼさで、顔も真っ黒に汚れていた。
「あなたは?」
「カヤ」
「どうしたの?」
「家が、なくなった。家族も、いなくなった」
そう言って女は静かに目の端から涙を零した。
優雨姫はその顔が、万里典侍に似ていることに気付いた。あまりにも姿形が違うため、分かりにくいが、何故かそう確信した。
優雨姫は、もう一度辺りを見回した。カヤがそっと優雨姫の手に触れる。すると、そこここにに木を倒していく人間の姿が見えた。
だから、カヤは人間を恨むようになったのか。
そのカヤの姿の後ろに若い狐が見えた。狐はその後、嵐に巻き込まれ、身を守る物も、食べるものも無くして弱って息絶えた。
恐らくは、その森を一つつぶしたことで、もっと多くの獣が同じ道を通ったはずだ。
「だから、人間を恨んだの?」
「人間の、一番偉い人がいなくなればいいと思った」
それを聞いて優雨姫はぎょっとした。
「それって、」
つまりは主上である。
「でも、さっきは、」
「あの人が主上。知らなかった?」
カヤが主上を狙っていて、そのカヤが月夜見を狙った。つまりは、月夜見が主上であることをさしている。彼女が人を間違っていなければ、だが。
優雨姫の喉がごくりと鳴った。まだ信じられない気持ちでいる。そもそも主上があんなに軽々しく外を出歩くはずがない。
「間違いないの?」
「間違いないわ」
「そう、間違いない」
その声に目を向けると、そこに月夜見、主上が立っていた。
「お前、」
「待って、」
目を吊り上げるカヤの前に、優雨姫が立った。
「この人が、森をつぶしたの?」
「……違う」
「つまりは、この都を作った時の帝。ということだろう。この地を切り開くために、森をつぶさねばならなかったはずだ」
「そうよ」
カヤが低い声で唸った。
「私は、この身に流れる血の罪を贖おう」
月夜見が、自分の胸に触れる。悲しみを負った目だ。
「どうして、」
優雨姫は月夜見を見て言った。
「あなたがしたことでもないのに、どうしてあなたが死ななきゃいけないの」
「そうでもしなければ、罪は雪げまい」
月夜見も優雨姫と同じ光景を見たのだろうと思った。そして、彼らの悲しみを知ったのだ。
「そんなことないわ」
優雨姫はきっぱりと言った。
「考え方によれば、死んでお詫び、なんて、逃げているも一緒よ。生きて償う事が一番難しいわ。それに、今あなたが呪いで死ぬようなことがあれば、またどこぞへ遷都、ということになって、また森が失われるのではなくて?」
「そうなの?」
カヤが驚いた声をあげた。
「そうならないとも限らないが」
カヤは俯いた。
「また、私のようなものが出てきてしまうかもしれないのね」
そうは言うものの、それでも、許せない、という顔をしている。
「カヤ、とやら。私に出来ることは何でもしよう。それで、心を静めてはもらえまいか。私は、皆のために、最善を尽くさねばならぬ。それはもちろんお前のためにでもある。それを信じてはもらえまいか」
月夜見はそう言って、カヤの手をそっと包んだ。
「私は……私は……」
カヤは月夜見の手を振り払うと、頭を抱えてしまった。
許せない気持ちと、それでも、自分と同じ痛みを負うものが出てしまうことの恐れで揺れている。
「カヤ、」
優雨姫がカヤに触れようとした、その時だった。
「皆さま、こちらへおいでませ。そのものをお待ちしているものがおります故」
晴明の声がして、急に辺りが明るくなった。
優雨姫は元の荒れ野に戻っていた。辺りを見回すと、月夜見と晴明が立っていた。晴明の傍には花佐目が居る。そして、その背中には子狐が乗っていた。
「それは、私の同族か。そのものを質に取ろうとでも言うのか」
姫の後ろでカヤが言った。言葉に怒りが籠っている。一度は収まったとはいえ、揺れ続ける炎は、易く再び燃え上がる。
「晴明、」
それに気づいて月夜見が晴明の肩を掴んだ。だが、晴明は涼しい顔でカヤを見つめている。
「さて、同族と言って良いかどうか」
「この人は、迷子なのだと思う」
優雨姫は静かに言った。
「迷子?」
「そう。棲み処を失くして、家族とはぐれて、自分が安心できるところがなくなって、見失って、泣いているだけ。だから、帰るところに返してあげれば、もう悪さはしないわ」
「帰るところ、とは?」
「彼岸。狐にも、極楽浄土があるのか分からないけれど、全ての命には帰る所が在るのでしょう?なれば、そこへ。そうすれば、同じ命の流れに乗れるはず」
(私、何言ってるんだろう)
優雨姫は半ば意識がぼぅっとしていた。
まるで何かにそう言わされている様な、そんな感じがした。
それを見て、晴明はふっと笑った。
「あなた様の力をお借りしましょう。さすれば、ことは、すぐに成りましょう程に。それと、このものも」
そう言って、晴明は花佐目の背に手を伸ばした。子狐は、晴明の手に自ら身を預け、安心しきって抱かれていた。
「このものは、恐らく、そこな狐の子」
「な、私に子などおらぬ」
「そうでしょうか」
晴明に言われ、カヤは暫し記憶の糸を辿った。そして、
「まさか、」
「身に覚えはありましょう」
カヤは否定しない。
「あなたが赤子の存在に気付く前に、あなたが命を落としてしまった」
「では、」
月夜見が縋るような目で晴明を見た。晴明が静かに頷くと、ああ、と言って、着物の袖で顔を隠した。
「そういうことは、この者達だけのことではあるまいな」
「いかにも。しかし、それもこの世の理に過ぎませぬ。この都とて、いつ戦火に飲まれ、今度は人間の方が追われる身になるやもしれませぬ」
晴明が静かにそう言う。
「そうね。その身に災いが降りかかるか否かは、誰にも分からない。でも、命の終わりは必ず来るわ。その時まで、どう生きるか」
「その、時まで」
「そう」
優雨姫がカヤを見つめる。
「私は、間違っていたのだろうか」
「まだ、大丈夫。誰も殺していないわ」
「私の手は汚れていない」
「そうね」
「何人かの人は、脅かしたけれど」
「あれは、どうして?」
「女御がいなくなれば、その血統は絶えると思った」
「随分、甘い手を使ったものですね」
晴明が揶揄すると、優雨姫は、あら、と、怒ったような声を上げた。
「それはカヤが優しいからよ」
そう言われて、カヤが困ったように笑った。そして、優雨姫に何やら囁いた。
「え、」
「今は、言わないで」
カヤはそう言って、唇に指をあてた。
「だから、焦ったの。でも、もう終りね」
そう言って、寂しそうに笑った。
「このものを、受け取りなさい。ずっとあなたのことを見ていました。あなたに抱いてほしくて、ずっと鳴いていたのに、あなたは自分の怒りに駆られて見えていなかった」
晴明がそう言いながら、カヤに近づく。カヤは怒らなかった。カヤの目は、真っ直ぐにその手に抱かれた子狐に注がれていた。
「私も誰かを泣かせていた。ごめんなさい」
そう言って手を伸ばすと、子狐はカヤの腕に飛び込んだ。
「狐。其方に問う。汝、真に望みしものは、何ぞ」
カヤは、小さく唇を動かした。それだけなのに、そこにいる全ての者に言葉が聞こえた。
カエリタイ、と。
すると、それに応えるように、空から一筋の光が降って来た。それがカヤを包み込むと、まるで天女のような姿に成った。少し悲しそうに微笑むその顔を見て居ると、ごめんなさい、という言葉が頭に響いた。
「私の方こそ、すまぬ。許せ。これよりは心がけよう。全ての事に、犠牲となるものが生じるのだという事を」
ツクヨミの言葉に、カヤの目から涙が零れた。そうして、二人は天へ上っていった。
「やれ、見事な化けっぷりですね」
「さすが狐というところか」
「しかし、これでやっと他の念を片付けられます」
「他の、念?」
優雨姫がそう言った途端、背筋がぞっと寒くなった。
「おいでになったようですよ」
気が付くと、彼らの周りを取り囲むように、真っ黒い炎が燃えていた。
「何あれ、どうするの?っていうか、どうにかして!」
優雨姫は晴明の肩を掴んで乱暴に揺すった。
「核を失くしてますからね。長くは持たないと思いますが」
「核って何?」
「あの狐を核にして集まった、良くない念の集合体ですよ」
「良くない念って、あの時、私を襲ったのも、」
「その通りです」
優雨姫は晴明に最初に会った時のことを思い出していた。
「あの時のあれは、一度狐に憑いたものが分離したものでしょう。私が式神を宮中に送ったのがばれたのでしょうね」
「そんなことは今はいいから!」
「消える時に道連れにされなければ良いが」
月夜見が追い打ちをかけるように不吉なことを言う。
「優雨姫、一つ、お願いがあるのですが」
「何でもするわ」
「貴女様のお力をお貸しいただきたい」
「力?」
「そう、こうして、」
そう言うと、晴明は姫の手を取った。
「優雨、水の名の力を借りて、かの者に安らぎの雨を」
晴明がそう言うと、晴れているにも関わらず、さあっと雨が降って来た。その勢いは決して強くはないが、見る見るうちに黒い炎は消えていった。
それを見つめる月夜見の目は厳しい。彼は、心の中で何度も繰り返していた。
忘れぬ、忘れぬ、と。
全てが終わると、三人は迎えの牛車に乗って、帰途に就いた。三人はずっと無言で、牛車の車輪の音だけが聞こえていた。
花佐目は珍しく、大人しく手綱を引かれていた。引いているのは、晴明の式神だけれども。
「優雨姫」
月夜見に呼ばれ、姫は慌てて顔を上げた。今更ながらに思う。月夜見は主上なのだ。
「改めて、私からも出仕を頼みたい。何なら、かの狐の在った典侍の地位を」
「それは良い考えですね。穴も塞がり、強力な守りが得られましょう」
「やはりそう思うか」
「ちょ、ちょっと待って!」
優雨姫はさすがに声を上げた。
「何、名前ばかりですよ。仕事としては、更衣の話し相手でもしていればよろしい」
「そういう問題じゃなくて!主上のお声がかりで典侍とか!もう入内しろって言ってるようなものじゃない」
「私はそれでもかまわぬが?」
ツクヨミはそう言ってにっこりと笑った。
そして、優雨姫の手を取ると、
「このまま、後宮に来て頂いても構わぬのですよ?」
「……っっっ」
優雨姫の手が震えたかと思うと、月夜見の頬に音高く一撃が入った。
「……全く、姫は私を何と心得るのか」
「ただの胡散臭い男でしょう」
月夜見と晴明は、晴明の屋敷の濡れ縁で酒を飲んでいた。
「何故だ」
「何故も何も、最初にあなた様がそう、名乗られたのでしょう。まだその名残が消えないのでは?」
「おお、確かに」
月夜見はぽんと手を打った。
「それに、かの姫のそういうところをお気にいられたのでは?」
「まさしくな」
「それで、姫はどうした。おらぬようだが」
「姫様ならお屋敷に帰られましたよ」
常夜がそう言いながら、二人に酒をもってきた。
「ご両親には伝えてありましたからね。今頃全てばれているでしょうが」
「晴明が伝えたのか。後で怒られはせぬか」
「どうとでも」
月夜見は杯の酒を呷った。
「かの姫は、来ると思うか」
「恐らくは」
「何故じゃ」
「藤壺の女御様をお守りするために」
「なるほどな」
「それと」
「それと?」
「冒険を」
「冒険?」
そう言って、晴明は盃の酒を見つめた。
ゆらゆらと月が揺れている。
それを見て、意味ありげにふっと笑った。
雨のあと 零 @reimitsuki
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