第3話
「あなたに出仕の話が来たきっかけになった女御様はどちらの女御様ですか?」
その日の夜、夕餉の最中にそう晴明が切り出した。
「……藤壺の更衣様よ。いとこなの」
「面識は」
「小さい頃に何度か遊んだくらい。多分、向こうも顔は覚えてないと思う」
「それでもあなたをと?」
「父様がねじ込んだのよ。私に手がつけば出世できるって……」
それを思い出すと箸が折れそうになったので、優雨姫は大きく深呼吸して自分の気持ちを収めた。
「しかし、あなたの父君はそれほど出世欲は無い方ですよね」
「知ってるの?」
「お噂を少々」
「ふうん」
そう言われてるのか、と、思った。
良い事なのか、悪い事なのかは分からないが、そう積極的に娘をどうこう、とはしないだろう。今回のことも、たまたまそういう話が出たから、ちょっと欲が出た程度だろうと、姫は思った。
(まぁ、殿上人ならね)
運が向いてきたと思えば、出世をと、思っても仕方ないのかもしれないと今なら少し落ち着いて思えた。しかしそれが、自分との約束を破っていいことにはならないが。
(せめて、一言謝罪なり何なり……)
行儀が悪いと思いつつ、姫は箸を噛んだ。
「万一ばれてもお身内ならば大丈夫と思いますので」
「え?」
考え事をしていた優雨姫は驚いて顔を上げた。口から間抜けに出て来た箸を、そっと下ろす。
「後宮に遊びに行っていただけますか。昇殿を許されたばかりの若い公達ということで」
「はぁ?」
優雨姫は驚いた。後宮は今の天皇、つまり、主上の妻たちの住まいだ。そんなところに得体の知れない者が忍び込んだら騒ぎになるに決まっている。まして、自分は男の形、当然だが、無位無官。何かあった時に言い訳ができない。
「無理!」
「大丈夫ですよ。堂々としていればばれません」
「そんなわけないでしょう!」
「では、まじないを一つ、授けますので」
「まじない?」
そう言うと、件の女官がぴょこんと肩口から飛び出した。
「彼女を付けましょう。目くらまし程度は使えます。彼女の姿を借りて女官となり、名を名乗って、従姉姫に会いに来たと言えば、話は通るでしょう」
「通るの?」
「通るようにしておきます」
晴明はにっこりと笑って言った。
何やら有無を言わせない雰囲気を感じ、優雨姫は黙るしかなかった。これ以上ごねると、出て行けと言われかねないと思い、しぶしぶ頷くと、晴明も嬉しそうに頷いた。
(楽しんでるだけなんじゃ……)
そう心の中でついた悪態に、何故か子狐の声が答えたような気がした。
「それで?先触れもなしに来たというのですか」
「ごめんなさい」
「そんな恰好で?」
「すみません」
「どうせ来るなら、出仕してくれればよかったでしょう」
「御尤も」
潜入早々、お付きの女房にばれて、騒ぎになりそうなところをいとこ姫の藤壺の更衣が収めてくれた。
ただ、本人からこってりしぼられてしまったわけなのだが。
「本当のところはどうなの?」
「……その、後宮でお困りのことは無いかと……」
一応、遠縁の公達、ということで、二人は御簾を隔てて話している。表情は伺い知れないが、御簾の奥でぱらりと扇を開く音が聞こえた。
「誰の差し金です」
「いえ、その、」
「お言いなさい」
「安倍晴明です……」
優雨姫はしぶしぶ小さな声で言った。
「そうですか……しかし、重要なのは、何故か、ということ」
「と、仰いますと?」
「誰かの依頼なのか、個人的な事なのか、ということです」
「個人的」
優雨姫は少し考えた。それはつまり、晴明が個人的に興味を示すようなことが、この後宮で起きているという事。
「やはり、何か怪異がございましたか?」
「姫」
「はい」
「あなたが何故すぐに見つかったと思います?」
「つまりは、警戒が強くなっているということ」
「その通りです」
ため息交じりの声だった。女御は姫の言葉を否定しない。つまり、何かがあったのだ。怪異と呼ばれる、何かが。
女御の話によれば、その怪異はたびたび起こるのだという。
あるものは、渡殿で泣き伏す女房の霊を見たと言い、あるものは、黒い、得体の知れない物体が廂からぶら下がっていたと言い、またある者は、突然後ろから首を絞められたという。
「何より、全てがバラバラで、統一性がない。同じものの仕業なのか、あるいは別々のものが何かをしているのか、人の手による物か、あるいは真正、妖の行いなのか」
「女御様は恐ろしくはないのですか」
「一番恐ろしいのは人の心でしょう。後宮とはいえ、政治の中枢に近く生きていれば、嫌というほどわかります」
後宮にいる者達は、自分の意志ではなく、政治の道具として入った者がほとんどだ。優雨姫もそうしてここにくるはずだった。しかし、それは今のところ現実にはなっていない。口には出せないが、優雨姫の心には、そうした後宮の者達への、憐憫の気持ちが湧き出て来た。
そして、明日は我が身という恐怖心も、また。そのような所で、自分が真っ当に暮らしていける自信がない。それもまた、出仕を拒んだ理由の一つだ。
「その、人の心の発する妖が、怪異の元であったとしたら?」
「それは、何より恐ろしいですね。晴明は、このことを解決しようとしていると、思っていいかしら」
「恐らく」
「そうね。信じましょう」
そう言うと、女御はぱちんと扇を鳴らした。さわさわと衣擦れの音がして、誰かが入ってくる気配がした。
「文箱を」
女御は手紙を書くつもりなのだ。恐らく、それは晴明宛の秘密の手紙だ。優雨姫は、御簾の隙間から出された漆塗りの文箱を、静かに受け取った。
持ち帰った文箱を晴明に渡すと、晴明はそれを開いてしげしげと眺めていた。
「何が、書いてあるの?」
優雨姫が聞くと
「読みますか?」
それを差し出されたものの
「人の手紙を読むのは、ちょっと……」
「別に、恋文ではありませんよ」
そう言って晴明はくすくすと笑って手紙をひっこめた。
「怪異の内容が知る限り書いてあります。伝え聞いた話であることを前提に書いています。恐らくは、女御様自身はまだ、怪異に直には遭遇していないのでしょう」
「それと、多分」
「半信半疑」
「そう」
「直接の対策は恐らく、陰陽寮の偉い方がしていらっしゃるとは思いますが」
「そうなの?そんな話は出なかったけど」
「今は調査中なのだとしても、遅かれ早かれ何かの対策はなされるでしょう」
「まぁ、女御様方も怯えているみたいだし、何もしないって事はないよね」
「私達には私たちに出来る事をしましょう」
「できること?」
「とりあえず、」
晴明はそう言うと、文机に向かった。
「明日にでももう一度、お使いをお願いします」
翌日、優雨姫は再び藤壺を訪れていた。
晴明から託された文箱を女御に渡すと、中ではそれを開け、何やらしているようだったが、御簾で隠れて優雨姫には見えない。
しばらくすると
「ありがとう。優雨姫、いえ、今は雪都ですか」
それも文に書いてあったのか、女御が優雨姫の男名を言った。
「まぁ、そうですけど……そうですね。どこで誰が聞いているとも知れませんから、雪都で」
「しかし、この非常時に不謹慎ですが……」
「何でしょう」
「何やら、少し、楽しいのです」
そう言って、女御は小さく笑い声を漏らした。
「は?」
「ほら、後宮は何もないでしょう?少々退屈で……もちろん、人死になどは起きてはいけませんが、怪異といえども、今のところ驚かす程度でしょう?それに、晴明様や、あなたとの交流など、平素ではできませんから、何やら心が浮き立つようです」
「女御様……」
優雨姫は少し呆れてしまった。だが、どこかで安心もしていた。
藤壺の更衣、元の名を暁姫という、は、自分が思っていたほど、後宮には染まっていないようだ。
昔の記憶は既におぼろげだが、実際に彼女と会って、少しなりとも思い出したことがある。暁姫は気が強く、冒険心にあふれていたように思う。自分はその影響を受けているのかもしれない。彼女は、自分以上に悍馬だった。
そうなると、不思議に思うことがある。
「女御様は、どうして……」
「入内したか?」
「はい」
沈黙が流れた。そして、ぱらり、と、扇を開く音が聞こえた。そして、静かにそれが閉じられ、また、開く音が聞こえた。それは、まるで女御が中で、話すことを迷っているようにも感じられた。
そして、ぱちんと閉じる音が高く響くと、さわさわと音がして、人の気配が薄くなった。人払いをしたのだ。
そうした上で、女御は話し始めた。
「私とて、不安じゃなかったわけでは無いですよ」
「閉じ込められるような感覚は?」
「もちろん」
「それではなぜ?」
「面白そうだったから」
「は?」
「だって、ここも私にとっては知らない世界。知らない山や、知らない国に冒険に行くのと同じ」
ふふっと女御は笑った。
優雨姫は、御簾の中にいるのが本当に女御なのかと思った。先ほどまでとかなり雰囲気が違う。だが、今感じるそれは確かに、気が強くて冒険好きな、あの、暁姫に違いなかった。
「同じ、か」
それなら、自分もここに来ればよかったのかもしれない。自分だけのためではなく、全ての人のためになるのだから。
「あら、でも、あなたは嫌だったのよね」
「それは……」
「嫌だと思って、お屋敷を飛び出したことは間違いじゃないと思うわ」
「え?」
てっきり怒られると思った優雨姫は肩透かしを食らった形になった。
「それはそれで冒険でしょう?私とあなたの冒険は決して同じではないわ」
「それは、そうですね」
「それに、だからこそこうして、良い顔のあなたと再会できた」
「見えるのですか?」
優雨姫はきょろきょろと周りを見回した。どこかになにか仕掛けが在るのかと思ったのだ。もしくは、何か晴明が文箱に仕込んだのかと。
「雰囲気ですよ」
「ああ……」
それなら自分にも伝わっている。
見えないけれど、きっと、御簾の向こうの女御は、昔と同じ顔をしているはずだ。
見えなくても、伝わっている。きっと、自分が今ここにいるのも間違いでは無くて、誰かが綿密に計画した、その、一端なのかもしれない。
それが、誰のものかは分からないけれど、良い物であってほしいと、優雨姫は心で思った。
その時、突然、先日彼女を襲った得体の知れない恐ろしい物の感覚が蘇った。
(ああいうものもいるんだ)
目に見えないもの、この世の者でないもの。それは、晴明の操る式神も同じかもしれない。しかし、彼女たちはあのような恐ろしさは持っていない。そもそも晴明の屋敷には恐ろしいと思うものはいない。だが、あの恐ろしいものも、確かにいるのだ。人の力の及ばない場所に。
「さて、私はここに残るわ。別の仕事があるの」
ふいに聞こえた声に優雨姫は驚いた。だが、それが、晴明が自分にくっつけていた小さな女官であることに気付いた。
「別の?」
優雨姫は小声で言った。
「元々私はここにいたの。だから、元の仕事に戻るのよ」
そう言って、彼女はぴょこんと肩から飛び降りると、御簾の向こうに消えた。
「何かありましたか?」
「あ、いえ」
急に黙ったように見えた姫に、女御が声をかけた。
(何か、引っかかる……)
見えなくなったその小さな背中に、優雨姫は疑問符を投げかけずにはいられなかった。
晴明の屋敷に戻ると、藤那がにこやかに出迎えてくれた。
「晴明様なら厩ですよ」
聞いてもいないのにさらりとそう言われた。呼んでいるのかと聞き返そうとも思ったが、優雨姫はそのまま厩へ向かった。自分も何となく花佐目に会いたかったのだ。
すると、何やら楽しそうな笑い声が聞こえた。
「そうですか、あの姫はそんなに悍馬で……」
誰と話しているのかと、姫はさっと身を隠した。姫とは恐らく自分のことだろう。
だが、誰もいなかった。そこにいる人間は晴明だけだった。彼は、花佐目の鼻面を撫でながら、微笑みを浮かべている。
そうして、くるりと優雨姫の方を向いた。
「お帰りなされませ。お遣い、ありがとうございました」
「うん。まぁ、私も楽しかったから、いいよ」
そう言って、優雨姫は隠れるのを止めた。
「誰と話していたの?」
「花佐目とですよ」
「花佐目と?」
「はい」
晴明がそう言うと、花佐目も返事をするように小さく鳴いた。
自分にしか懐かないと思っていた花佐目が、他の人間に懐いていると思うと少々面白くない。
「そんなに怖い顔をなさらなくても。大丈夫ですよ。花佐目の主はあなたですから」
「そ、そんなに怖い顔してた?」
「印象です」
晴明は涼し気にそう言って、また小さく笑った。
どうもこの男はつかみどころがない、と、姫は胸中で思った。
「さて、子狐はどこにおりますか?」
そう言うと、聞きつけたように、花佐目の背中に子狐が姿を現した。
「姫もご存知ですね」
「うん」
「近々、皆に働いてもらわなくてはならなくなるでしょう。今のうちに休んでおいてください」
「え?」
「今は何も。ただ、お休みくだされませ」
そう言って晴明は人差し指を唇に当てた。
何故か、他の動物たちも同じようにしているように見えた。皆の目が、同じ色に光っているように感じたのだ。
その日の、夜、後宮。
藤壺の女御が眠っていると、何かの気配を感じた。女御は薄く目を開けて、部屋の四方を見渡した。身じろぎもせず、あくまで寝たふりをして。
すると、御簾の向こうに誰かが居るのが見えた。
(曲者?)
そう思った。だが、それでも動かなかった。その人影のようなものは、ゆらりとゆらめき、御簾を素通りして入って来た。
女御の喉がごくりと鳴った。
(人間じゃない)
その影は御簾を通り越して女御に迫った。その姿は太く長い蛇の様であった。そして、その頭とみられる部分が、ぬぅっと、女御の顔を覗き込む。
そしてそれは、女御の腹部に手のようなものを伸ばした。するとそれは、何かに気付いたようだった。
そして、真っ黒い中に、女の顔が現れた。能面のような、表情のない顔。だが、それは、ぐにゃりと歪んだ。
そこにあったのは、怒りの形相。
(声が、出ない)
さすがに助けを呼ぼうとした女御だったが、喉が固まってしまったように声が出なった。体も動かない。女御は初めて恐怖を感じた。それを見て取ったのか、女の顔が奇妙に歪む。笑いとも、怒りとも取れない顔。
そして、腹部に伸ばされていた女の手が、針のようにとがった、その、瞬間だった。
「危ない!」
声が上がり、晴明が寄越した文箱の中から、何かが跳び出した。そして、それは影に襲い掛かった。小さな文箱から出て来たにも関わらず、それは人間の男一人分の大きさになっていた。跳ね飛ばされた影に、それは持っていた光る槍を突き立てた。
ぎゃっと悲鳴が上がり、影が四散した。
「良かった。間に合った」
「……そなた……」
女御が体を起こしながら、声を震わせた。
そこにいたのは一人の美しい鬼であった。
「動いた、か」
同時刻、屋敷の濡れ縁で酒を飲んでいた晴明が、盃の酒を見つめて呟いた。
翌日、主上に仕える女官の一人、万里典侍に文が届いた。彼女はその日、体調を崩しで臥せっていたが、文を読むなり跳び起き、急いで外出の支度をしたという。女官は通常、滅多な事では外出できないが、何故か彼女は主上の火急の用という大義名分を得ていた。
その、典侍の姿が、後宮から出るなり消えたという。
次に万里典侍が姿を現したのは、都の外れの荒野であった。何れの時か、そこには豊かな森が広がっていたであろうと思わせる場所。どうしてそこが荒れてしまったのか、今となっては知る者は少ない。
その地に立って、典侍は遠くを見る目をしていた。何とも言えず、泣きそうな顔で。そうして、辺りを見渡していると、一人の男が歩いてくるのが見えた。
その男を認めるや、彼女の眉根がぴくりと動いた。
「何故……」
その男は月夜見であった。月夜見は彼女の前で立ち止まり、静かに扇を開いた。そして、その扇で口元を隠しながら静かに言った。
「あなたが用があるのは私でしょう」
それに対して、典侍は首を横に振った。
「貴方様がこのような場所へ来るはずもない。これは何かの術でしょうか」
そう言って、自嘲気味に笑った。
月夜見はそれを静かに見つめている。
「私はあなたに報いたい」
「馬鹿な」
月夜見の言葉に、典侍の顔がみるみる変わっていった。
その目は吊り上がり、顔と手足に毛が生えた。口は大きく裂け、牙が生えている。四つん這いになると、着物の裾から太い尾が見えた。一本では無い、ゆらゆらと揺れる何本もの尾が、炎のように重なって見えた。
「私はあなたを喰ろうてしまうやもしれませぬぞ」
「それも構わぬ」
月夜見は逃げなかった。驚きもしなかった。まるで、彼女の正体を知っていたかのように。
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