第2話

 優雨姫は縁の柱に身を預けて、一人、庭を眺めていた。

 晴明は用事があると言って席を外してしまった。

 あまりにも色々なことが起きすぎて、頭がぼぅっとしていた。今はどうこう考えを巡らせるよりも、少し頭を休めた方がいいのかもしれないと、ぼんやり思った。

 晴明の家の庭は、一見すると手入れの行き届いていない荒れた庭だった。しかし、よく見るとそこにある植物たちには一定の法則があるようにも思える。

 雑然としているが、不思議と荒廃しているようには感じない。人の都合に捻じ曲げられていない、草花たちの自由がそこに温存されているようにも思えた。蝶が飛び交い、蛙の鳴き声がする。湿った土の匂い。草の青々しい香り。それが心を慰めてくれていた。

「はぁ」

優雨姫は、深く息をした。そのたびに、体の中から余分な力が抜けて、思考が晴れていくようだった。その中で、優雨姫は先刻、まだ晴明が居た時のことを思い出していた。


「……何の真似にござります?」

晴明は平伏している優雨姫を覗き込むようにして言った。優雨姫はぱっと顔を上げると真っ直ぐに晴明の目を見つめた。

「何卒、私をこの家に置いて頂きたく」

「あなたを?」

「はい」

「ここに?」

「はい」

はきはきとした姫の受け答えとは裏腹に、清明はすぅっと目を細め、横を向くと大きくため息を吐いた。そうして、ぱらりと扇を開くと、口元を隠して目線を外した。

「仮にも姫君がかような場所で男と二人……」

「だ、だって、女房方もいらっしゃるのでしょう?女一人というわけでは……」

「あれは私の式神にて。人間の女子は間違いなくあなた一人」

「……家人とか、雑色とか……」

「居りませぬ。全て式神。人がおりますれば、驚いて逃げ出しましょう。並みの人なれば」

ふふふ、と、悪戯っぽく晴明は笑った。

「しかし、晴明様。彼女は私をお助け下さいましたよ?」

いつの間に居たのか、晴明の背後から小さな女官が顔を出した。優雨姫は小さく声を上げたが、その姿は美しく、つい見とれてしまった。

「あ、貴女は?」

「はい。私は昨夜、あの小さな狐と共に居りました者。結果的に、姫様に助けて頂きました。ありがとうござりまする」

女官は丁寧に頭を下げた。

「彼女もあなたの、その、」

「式神」

「なの?」

「いかにも」

そう言って、晴明は暫し何かを思案しているようであった。すると、先の小さな女官がいつの間にやら晴明の肩に上り、何かを耳元に囁いていた。それに晴明は頷いているようであった。扇の影で何やらこそこそと内緒話が進んでいる。

 そうして、晴明は小さく咳払いすると、ゆるゆると口を開いた。

「姫様には出仕のお話があるとか」

「ええ」

「お厭とか?」

「はい」

「して、頂けませぬか」

「……はぁ?」

「お受けいただけるのでしたら、ここに居て頂いても構いませぬよ?」

姫は一瞬、相手が何を言っているのか分からなかった。抑も、それが嫌で家出したのに、

「それでは、」

何の意味もない、と、言おうとしたのに、晴明は姫の目の前にずいっと人差し指を立てて示した。

「ひと月」

「ひと月の間、こちらに居て頂いて構いませぬ。その間、出仕のお話、せめて前向きに検討してはいただけませぬか。一月後に結論を出して頂ければよろしい。もちろん、お断りいただいても結構。正し、その場合はその先こちらへお預かりするわけにはいきませぬ旨、ご承諾頂きたい」

「……受けた場合は?」

「その場合はもとよりこちらへはおりませぬでしょう」

ふふと笑う。その赤い唇が憎たらしかった。

 しかし、確かに姫にとってそれほど悪い条件ではない。ひとまず、ひと月は雨露をしのげる場所が確保できる。その間に他に移る手立てを考えてもいい。今ここで断れば今夜の宿も無いが、少なくとも一度受け入れればしばらくは生活に困る事は無いのだ。

「……分かった。受けるわ」

ふん、と、鼻を鳴らす優雨姫を、晴明と女官の二人は意味ありげにそっくりな笑顔で見ていた。


 優雨姫を濡れ縁に残し、晴明は書庫で熱心に巻物を広げ、何かを調べていた。時折、肩の女官と話をしながら、次々と巻物を広げ、並べている。

 そうしているうちに、女官が何かを囁き、晴明とくすくすと笑い合った。 

 と、遠くから、バタバタと誰かが走る足音がした。今この屋敷で、そのような足音を立てる者は一人しかいない。晴明は小さくため息をつくと、入り口に目をやった。

「晴明!」

案の定、優雨姫が走って来た。

「花佐目は?私の連れていた馬はどこ?」

晴明はふっと笑った。ようやく、自分の周りが見えてきたようだった。

「無事にござります。厩にてお預かりしておりますれば」

「あの子、私以外に懐かないんだけど」

「大丈夫ですよ。それにしても、大変良い馬にお乗りですね」

「そうなの?馬の価値はよくわからないわ。でも、気が合ったから、一緒にいるって決めたの」

(あの馬と気が合うとは、さすがというか……)

晴明はじっと姫を見ていた。晴明は時折そうして優姫の顔を見つめる。その理由が姫には分からない。理解できないせいで、その状況にはいつまでも慣れず、優雨姫はついと視線を外した。

「それと、ほ、ほら、さっきの出仕の話。私、髪を切ってしまったのだけれど。ひと月では元には戻らないわよね」

「問題ないですよ。心配なさらずに」

「ふ、ふうん」

話を逸らそうとした話題でもあったが、髪が戻らなければ、出仕の話もなくなるかもしれないと思っていた優雨姫は内心がっかりした。

「私はもう少し調べ物をしますので、先に休んでてください」

「はあい」

姫がそう言うと、いつの間に来たのか例の式神とやらの女房が立っていた。見た目はほとんど人間と変わらない。式神だと言われた後でも実感がわかない。

 彼女は少し年かさの、普通の貴族の屋敷で言えば、古参女房といった年だろうか。そう見えはするが、そもそも式神に年が在るのかどうかも分からない。

「彼女について行ってください。寝所を用意しましたから」

「あ、ありがとう」

何故か少し名残惜しい気持ちになった。晴明の傍を離れるのが不安なのだ。

(そういえば、あの時の嫌なものはどうなったんだろう。花佐目にも会いたいし……話したいことがまだたくさん……)

そう思っていると、晴明が振り向いてにっこりと笑った。

「今日のところはおやすみなさい。全ては明日以降にいたしましょう。大丈夫。この屋敷にいれば安全ですよ」

「そ、そう?じゃあ、おやすみなさい」

見透かされたような気分になりながら、それでもどこか安心できた。

(普通は嫌なものだけれど)

それを嫌と思わせない、不思議な雰囲気が、この屋敷と晴明にはあった。


 優雨姫がその女房に着いていくと、渡殿を経て別の対屋に通された。その間も、虫の声や、鳥の声が聞こえてくる。それはまるで、この屋敷の小さな住人達が客人を見物に来ているように思えた。

「藤那」

先導の女房が小さく声を発した。それにつられて姫が視線を向けると、そこには別の女房が待っていた。

「あ、いらっしゃった。私、姫様のお世話を任されることになりました、藤那です」

「これ、藤那、あまり軽々しい口を利くものではありませんよ」

「あ、いいのいいの。そのくらいの方が私も話しやすいです」

優雨姫は慌ててそう言った。すると、それまで叱られて曇っていた藤那の顔がぱっと華やいだ。藤那は先導の女房より大分年下見えた。新参の女房といった風情である。それを見て、また先導の女房が困った顔をした。それもまた、いいからと宥める。まるで、普通のお屋敷の女房達を見ているようだった。

「あ、あのね。それと、出来ればあなた達の事、詳しく聞きたいんだけど……」

姫が言うと、先導の女房がくるりと振り向いた。

「私どものこと、と、申しますと?……申し遅れました。私は常夜と申します」

「このお屋敷に女房は二人だけ?」

「いいえ、もう一人おります。明日にでもお引き合わせいたしましょう」

「その、その方も、式神、とやらなの?」

「私共も、ですが」

「そうでしょうけれど」

「そう見えます?」

「いいえ」

藤那の問いにそう答えると、二人は顔を見合わせてふふっと笑った。何だか藤那とは気が合いそうだと思った。そう思った時、藤那は、はっとして常夜を見た。また怒られると思ったのだろう。すると、常夜は諦めたようにため息を吐いた。

「今日はも遅ぅございます。お休みくだされませ」

そうは言われても、まだ眠くない、と姫が心で思った時、

「私は他に仕事がございます故、お暇いたしますが、この藤那と暫し話されては」

「いいの?」

藤那と姫は同時に言った。

「姫様も退屈でしょうから」

と、承諾してくれた。二人は手を取りあって喜んだ。

 その様子を見つめる常夜の顔は優しかった。思いがけず得られた寝床は、今までの環境とは違うけれど、思いのほか居心地がよさそうだと優雨姫は思った。

 そんな二人を祝福するように、庭の蛙や虫たちが、ころころと鳴き声をたてた。


 翌朝、優雨姫は陽が大分高くなってから起きて来た。結局、夜遅くまで藤那と話をしてしまい、起きてからも、身支度を手伝ってくれた藤那と話をしていた。藤那は年の頃も近く、明るくて話しやすかった。そういう所を見ても、藤那が式神だということは、頭からすっかり抜けてしまう。

 遅い食事を済ませ、藤那が片付けに行ってしまうと、優雨姫は濡れ縁に出て庭を見ながら欠伸をしていた。

「優雨姫様」

声をかけて来たのは常夜だった。優雨姫は慌てて口を閉じた。怒られるような気がしたのだ。

「は、はい」

活舌の悪い返事をして常夜の方を見ると、彼女は一人の女性を連れていた。昨日話していた最後の一人だろう。

 それは、何とも線の細い、美しい女性だった。髪は真っ白で、何も知らなければ老婆に見えたかもしれない。しかし、当然ながら顔は若く、美しい。藤那よりは少し年上に見えるが、それも落ち着いた雰囲気のせいかもしれない。

「これに居りますのが薄霧にございます。昨夜よりお世話させて頂いている藤那を入れて三名、主様よりお屋敷の管理を任されております」

常夜は改めて頭を下げた。

「ありがとう。お世話になります」

優雨姫も頭を下げた。すると、薄霧もふわりと微笑んだ。

「……綺麗、」

優雨姫は思わずため息まり時にそう言った。言ったというよりは、思わず心で思ったことが零れ落ちてしまったという風情だった。

 眼差しが自分に向けられているのに気づいて、薄霧は頬を染めた。その姿もまた美しい。彼女に好意を寄せない男性などいないのではないだろうかと思えた。

 その様子を、常夜も静かに笑って見ている。まるで、自分のことのように喜んでいるようだった。

 そういう様子を見ても、この三人の女房達は、深く結びついているのだろうと思えた。

(式神にもそういう情ってあるのかしら)

優雨姫はそう思っても、口に出すのは憚られた。敢えて聞くのは失礼なような気がしたからだ。

(あるのね。きっと、)

そう、一人で納得して、優雨姫は微笑んだ。


「お客様?」

「そうです。優雨姫様をお連れするようにと」

常夜はそう言いながら姫の狩衣を直していた。

 姫は家出の際に替えの衣装を持ってこなかったのだが、朝起きると男物の装束が一式用意してあった。

 常夜が用意したというそれを、藤那が着せてくれたのだが、どこかおかしかったようだ。それを常夜が少し不機嫌そうに直している。

 若い女房の不手際に立腹しているのだろうということを察し、優雨姫は苦笑いした。

「さ、直りました。では、お客様の元へご案内いたします」

そう言う常夜の後に着いて、優雨姫は渡殿を歩いて行った。

 その時は、何故か虫の声も、蛙の声もしなかった。

 それが少し寂しかった。


「こちら、私の遠縁の者です。一時、我が家でお預かりしております」

晴明は、客の男に優雨姫を紹介した。もちろん、男として、である。

 相手の男は深青の狩衣に身を包んだ、気品のある公達だった。その物腰からかなり上の位の者であろうと思えた。

 そのような身分の公達に、まして、男としてなどと、会ったことのない優雨姫は激しく動揺した。

「は、初めてお目にかかります」

何を置いても深々と頭を下げるしかなかった。

「はは、そのように畏まられますな。どうぞ、友のように。して、お名前は何と?」

そう訊かれて、優雨姫は困った。男名など考えてもいなかった。

「ゆ、雪都、と」

本名が優雨、雨から転じて雪。安易ではあるが、今はそれしか思い浮かばなかった。

「雪都。なるほど、雪のように白い肌をしている」

男にそう言われ、優雨姫、つまりは雪都はどきりとした。女だとばれたのかと思ったのだ。ここは、男らしくしなければと、こほんと咳ばらいをした。

「しょ、初対面の男に失礼でしょう。これでも私は馬も弓も得意で……」

「気に障ったのでしたら申し訳ない。だが、これでも褒めたつもりでね」

男は悪びれもせず、にっこりと笑った。

「わ、私は名乗ったのだから、そちらも名のって頂きましょう」

雪都は話の流れを変えようと、男に訊いた。

「さて、名乗るほどの名も持ち合わせてはいないのだが」

「お戯れを」

それまで黙って聞いていた晴明が、どきりとするような甘い声を出した。それを聞いて男が笑う。

「では、月夜見と」

「ツクヨミ、分かりました」

努めて男らしく、雪都は頷いた。それを見て、晴明と、月夜見、と、名乗った男が、何やら意味有り気に微笑んでいたのが気になるが、その日は顔見せということで、それでお開きとなった。

 雪都、こと、優雨姫がどっと疲れたのは言うまでもない。


「花佐目……」

夕刻、優雨姫は厩を訪れていた。昨日から気にはなっていたのだが、ずっと知らない顔ばかり見ていて、知っている顔が恋しくなったのだ。

 優雨姫が行くと、花佐目は鼻を鳴らして喜んだ。

「不自由してない?」

そう言うと、花佐目は大丈夫というように優雨姫に顔を擦り寄せた。その黒い瞳が、自分のことよりも、優雨姫を気遣っているように見える。

「私は大丈夫。とりあえず、この屋敷には置いてもらえることになったし、何とかなるわ」

そう言って、花佐目を撫でていると、その背中にぴょこんと小さなしっぽが見えた。不思議に思って見ていると、そこに、あの時の子狐が姿を現した。

「お前、あの時の……」

子狐の姿が透けている。この世のものではないことが分かる。だが、不思議と怖くない。

「お前、ずっとここにいたの?」

この世のもので無ければ、物も食べないだろうし、暑い寒いも無いだろうとは思うが、最初の様子があまりに怯えていたので心配ではあった。

 だが、当の子狐は、花佐目の傍で心地よさそうにしていた。

「この馬の傍なればご心配はいりませぬよ」

声に振り向くと、そこにはあの小さな女官が居た。

「あなたは、」

「はい、晴明様の式神で、小花と申します」

そう言うと、女官はぺこりと頭を下げた。

「あなた、あの時、この子といたの?」

「はい。でも、あまり詳しいことは申せませんよ」

「でしょうね」

何かしらの探りを入れようとした優雨姫はがっかりした。しかし、彼女の主人は晴明なのである。それを考えれば、彼女が余計な情報を流すはずもない。

「じゃあ、どうして花佐目と居れば大丈夫なのかは聞いてもいい?」

「それくらいでしたら。この馬はとても高い気を持っておりまする。さすれば、この子狐の弱った気も、癒されましょう程に」

「よく、分からないけれど、元気をもらえる、ってことかしら」

「そういうことです」

女官はにこにこと話している。

「それで花佐目が元気がなくなったりはしないの?」

「それほど柔ではござりませぬ」

「そのようね」

もう寧ろ当の子狐と戯れる様子の花佐目を見て、優雨姫は安心した。

「さ、そろそろ陽も落ちますれば、お屋敷にお戻りなされませ。花佐目は厩番がきちんとお世話いたします」

「それも、式神?」

「はい」

「そうよね」

優雨姫は何とも腑に落ちない気分になったが、花佐目の機嫌が良さそうなので、それを信じる事にした。

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