雨のあと

第1話

何処へ

我らは何処へ行けば良いのか

故郷を追われ、棲み処を失くし、我らは、何処へ

追う側は、追われる者の心など知る由もない

知る由もないから、追うのだろう

我らがどこで果てようと

愛しいものを失おうと

その心が如何ほどの痛みを覚えようと

追う側には響かない

何故

何故分からぬのか

何故、心を寄せようとも思わなんだか

この世に、己らのみあるとでも思うておるのか

悔しや

哀しや


時は平安

闇がまだ、人々の身近なものであった時代

人以外の世界が、現の隣にあった時代

それを、人々が理解していた時代


京の都。少納言邸。

 一人娘の優雨姫は不機嫌だった。

「それで?」

見過ごしに彼女の父、正親と話をしているのだが、当の正親は汗を拭き拭き話をしている。それに対する彼女の態度は冷ややかだった。

 貴族の姫君らしく、扇を持ち、静かに座っているが、そのぴりぴりとした空気が、御簾越しにも正親に伝わっていた。

「だから、その、な?女御様も、身内が宮中にいる方が心強いだろうと……」

「父さま」

「はい」

「父さまは以前仰いましたよね?私が姫らしくさえしていれば、好きなように生きていいと」

「そ、そうだな」

「何なら結婚相手も自分で選べばいいと」

「う、うむ」

「それが、どうして宮中に出仕する話になるわけですか?しかも典侍として」

「いや、ほら、それは、お前、お前があまりにも男勝りであちこち駆けまわっておったから、儂も父としてお前の行く末を案じて……」

そう言うと、正親は狩衣の袖で顔を隠した。

「泣き真似をしても駄目ですよ」

それに対しても姫は冷静だった。

「本当のところはどうなのです?」

「……いや、あのな、お前が宮中に上がって、もし、運よく主上の手が付いて、男御子でも授かれば、儂の出世も、などと……」

「父さま」

「思ってません。思ってませんとも!」

そう、行った時、既に時遅く、ばきっと派手な音がして、直後、御簾を突き破って壊れた扇が飛んできた。

「こんな家、出ていきます!」

優雨姫はそう言うと、足音も荒くその場を立ち去った。


 弟の部屋で、優雨姫は勝手に弟の浅黄色の狩衣を拝借した。男物の衣装は、小さい頃に好んで身に着けて居たので着方は分かる。そうして、着替えが終わると、自分の髪をぐっと掴んだ。

 女として生まれ、伸ばしてきた髪。

 それでも、今は邪魔なだけだ。女を捨てる気は無いけれど、少なくとも、こんな長い髪をしていたら、遠くまでは行けない。

 それまで伸ばしてきたものを切る。

 それまでの自分を捨てる。

 その事に、躊躇がないと言えば、嘘になるけれど、

「父さまも父さまだわ。約束したのに。私との約束よりも、自分の出世の方が大事だって言うの?」

そう思うと、再び姫の心に怒りが湧き上がって来た。

 少なくとも、今ここで髪を切ってしまえば、出仕の話は進まなくなる。見つかっても時間稼ぎにはなるはずだ。

「ええい、」

姫は一声、髪の束を断ち切った。


 カッと音を立てて矢が的に突き刺さると、周りで見ていた家来衆に歓声が上がった。それを見て、射手が可愛らしい笑顔を見せた。射手はまだ稚児姿の子供だった。利発そうな顔と、人好きする笑顔が人々の心を捉えていた。

「いやいや、さすが優雨姫ですな」

「姉姫でこの技量となれば、幼い弟君もさぞ……」

「聡明な総領姫に将来有望な若君。お家も安泰ですな」

大人たちは子供を勝手に裁量していた。

 そんな中で、優雨姫の清々しさは際立っていた。

 姫は幼い頃より、まるで男子のように育った。女の着物を嫌い、男の子の形をして、外を走り回る方が好きだった。彼女の父母は、そんな姫を戸惑いながらも、そのままで育てた。

 一つは、どうしても彼女が言う事を聞かなかったことがあり、もう一つは、彼女が、女性が覚えるべき事も、きちんと覚えたからである。

 皮肉にも、嫌いだと思う事を、最短の時間で習得することで、それにかける時間を減らすという方法を取ったのだった。それができるという事も稀有なことではあるのだが、彼女にとっては大した問題ではないようだった。

 基本的に、何にでも興味を持つ性格であったことも幸いした。

 男になりたいと思っているわけでは無く、好奇心が人一倍旺盛なだけなのだ。それがただ、今世の女性の在り方に会わなかっただけと言える。

 それが、彼女にとっての最初の不幸であった。


「今日からは、女の子らしくしていただきます」

「ええー!」

それは、裳着の日の出来事であった。優雨姫が屋敷の古参女房から言い渡された言葉である。

 しかし、そもそも裳着の儀式を行うということ自体、姫には面白くなかった。そのために髪を伸ばさねばならなくなり、気軽に外も歩けなくなった。行動を制限されるという事が、何より嫌いなことであった。

「あなたは姫なのですよ?後々は良い公達にお通いいただいて、婿になって頂いて、この家を継いでいただかなくては」

「嫌よ!顔も見た事無い人となんて」

「ですから、文を交わして人となりを……」

「絶対嫌!」

そう言うと、姫は泣き伏してしまった。それを宥めるのに周りの女房たちが心を砕き、むしろその心に姫はしぶしぶ機嫌を直した。

 それでもどうにか、姫らしくなっていったのは父親との、件の約束があったからであった。


「それが破られたのなら、私だけが約束に縛られることは無いんだわ」

短くなった髪を結い上げ、烏帽子を被ると、厩へと向かった。

「花佐目」

優雨姫は、厩にいた馬の中で、ひときわ目立つ象牙色の馬に声をかけた。馬はぴくりと耳を動かして、姫を見た。大きな顔を抱き寄せ、頬を寄せると、日向の匂いがした。動物の体温や匂いは心を癒してくれる。それが、人によって傷つけられた後なら尚更温かく感じられた。

「花佐目。お願い、私に付き合ってね」

優雨姫はそう言うと、慣れた手付きで花佐目に馬具を着けた。

 姫は、馬に乗るだけでなく、その世話をするのも好きだった。女の形になってからも、時折やってきてこっそりと花佐目の世話をしていた。その方が落ち着くのだ。

 何より、この花佐目という馬を、姫は気に入っていた。

 花佐目の毛色は稀有なもので価値が高かったが、誰にも懐かずに姫の少納言家まで流れて来た馬だった。

 それが不思議と姫に懐き、姫は好んで花佐目を乗り回していた。

「花佐目」

姫は花佐目の頭に自分の頭を押し当てた。

「家出するわ。悪いけど、追手を振り切ってもらいたいの」

そう言うと、花佐目は、返事の代わりに姫に擦り寄った。優雨姫は花佐目に跨ると、その首をぽんぽんと叩いた。

 そして、きっと、睨み付けるように前を見、花佐目の腹を蹴った。


「どけどけーーーー!!」

優雨姫は叫びながら駆けた。家人達は何が起きたか分からずおろおろと道を開けた。

 身なりを変えているので当然だが、馬に乗っているのが誰なのかもわかっていない。それに気づいて優雨姫は口端に笑いを浮かべた。

 想定の範囲内だった。

 誰も、貴族の姫が馬を駆るとは思っていない。姫の幼い頃を覚えている者ならば、あるいはと思うかもしれないが、今、この状況でそれを確信するものはいないだろう。

 姫はその勢いで開いていた門を駆け抜けた。

 土煙だけがその場に残る。

 その先の、姫の行き先はようとして知れなかった。


「って……家出て来たけど行く所無いな……」

かぽかぽと間抜けな足音を立てながら、優雨姫と花佐目は当て所なく京の都をうろうろしていた。

 日は傾き、遠からず夕闇が降りて来る。

「あんまり不審にうろうろすると検非違使にみつかるかも……」

そう思っていると、ぴたりと花佐目がその足を止めた。

「どうしたの?花佐目」

姫が聞くと、花佐目は、見ろ、というように首を前に動かした。何か生き物が駆けている。それは、子供の狐のように見えた。その子狐が、自分の方へ向かって駆けて来る。

(こんな往来に狐?)

近くまで来ると、子狐は疲れてしまったのか、苦しそうに息切れをして、その場に蹲ってしまった。すると、近くにいた子供たちが、子狐の方へと駆けて行った。

「危な……」

姫がそう言って馬から降りた瞬間、子供たちは子狐をすり抜けてしまった。

「え?」

姫は驚いて子狐を見た。子狐の方も、子供達に全く気付かない様子で、蹲って震えていた。その姿が透けているようにも見える。

「お前、何者なの?」

すると、急に花佐目が高く嘶いた。

「何?」

姫が顔を上げると、何かの気配を感じた。

(何か、大きくて嫌なもの!)

姫は直感でそう思った。そして、反射的に子狐に覆いかぶさるようにして庇った。その姫の前に、花佐目が更に立ちはだかった。

「花佐目!」

 姫は咄嗟に背の弓を取って弦を鳴らした。矢を射っても、実体のない者には効かないかもしれない。だが、弓の弦の音は、魔のものが嫌うと聞いたことがあった。

「おのれ・・・・・・」

地の底から響くような恐ろしい声が聞こえた。

 姫の体中に鳥肌が立った。特別な力など持っていない。付け焼刃の知識で、どうにか対抗しようとしているだけだ。

 正体の分からない、何か、に。

 しかし、それも長くは続かない。相手は確かに音に怯んでいるが、逃げはしない。ただ、確実に、近寄れない事に苛立ちを募らせている。

(いけない。見えないけど……怒ってる)

空気を震わせる怒りを、姫は感じていた。しかし、今更引けない。

 姫は意を決して立ち上がると、矢を番えた。見えない相手にそれでどうこうできるとは、思えなかったが、それが姫が持ちうる唯一の戦い方だった。

(こんなことなら剣も習っておくんだった)

泣きそうになりながら、そう、思っただけのはずだった。

「どちらにしろ、この世の武器だけではどうにもなりますまい」

急に男の声が降って来た。姫の心を見透かしたように。

 そして、その男は姫を己の懐に抱くと、何かの呪文を唱えた。そして、男が足を一つ打ち鳴らすと、ぶわっと何かが相手に襲い掛かるのを感じた。

 そして、恐ろしい気配が遠ざかっていくのを感じた。

「やれやれ、何とも勇敢な方ですね」

優しい声が降ってくる。その声の気持ちよさと、緊張の糸が切れたのが重なって、姫はそのまま意識を失くした。


 気が付くと、優雨姫は広い野原に立っていた。何故か自分は女童になっていて、桃色の着物に、まだ短い髪を顔の脇で左右に二つ、小さく束ねていた。

 ふっと思い出す。ずっと小さな頃は、女の恰好をしていても楽しかった。着物もよく汚して怒られた。着ていても動きづらいと感じるようになった。そうして、自然に自分は動きやすい男の恰好をするようになったのだ。

 他の、普通の女の子に比べれば、確かに悍馬だったのだ。

 そう思って、自分が花佐目と気が合う理由が何となく分かった。結局は、自分も暴れ馬なのだ。

 姫は着物の裾をまくりあげ、野原を駆けだした。それは、どこまでもどこまでも続いていくように思えた。それが楽しかった。どこまでいっても終わりのない野原。どこまで行っても、まだ先を知りたくなる自分。先も、後も、右も、左も。どこまでどう続いていて、そこに何が待っているのか。それを考えるだけで心が躍った。

 そうして走りながら、時折小さな花を見つけ、摘んだ。両手が花でいっぱいになっても、野原は終わらなかった。

 姫はその両手の花を空に投げた。振ってくる花の雨の中で、自分も野原に転げた。しばらくころころと転がって、そして止まる。

空はどこまでも青く澄んでいた。

(ここは、どこなのかしら)

姫がそう思った時、ふ、と、何かの陰が姫の顔を陽の光から遮った。逆光で黒く煤けるそれをじっと見つめると、一匹のキツネであった。

 しかも、その顔は

「白……狐?」

「おや、目覚めたばかりと申しますに、私の本性を見抜くとは、侮れない姫君ですねぇ」

ふふふと、いう笑い声に、姫は目を見開いた。扇で半分隠れてはいるが、確かに人間の、

「男ぉ?」

優雨姫はそう叫んで跳び起きた。

 謎の男は、ぱらりと扇子を閉じた。そうして、静かに姫を見つめた。

 切れ長の美しい瞳。真白の狩衣に包まれた細身の身体。仄かに赤い唇は、静かな微笑みを湛えている。確かに、どこか白狐のようにも見える公達であった。

(どこかで、会ったような……)

ぼんやりと考えて、ふと、声に聞き覚えがある事に気付く。

「あ」

「おや、思い出していただけましたかな」

そう言った声を聞いて、姫は、謎の男が、謎の悪意から助けてくれた相手だと気づいた。

 

 優雨姫は、自分の置かれている状況が飲み込めずにいた。どこの誰とも知れぬ男の屋敷の濡れ縁で、その男と向かい合って座っている。

 刻限はどうやら朝のようだった。どうやら一晩この得体の知れない男の厄介になってしまったようだった。

「白湯を」

「あ、はい。どうも……」

その家の女房と思しき女性が持ってきた白湯を、姫は用心深く口に運んだ。含む前に一度、こっそり香りを確かめて。

(何も……)

「入ってはおりませんよ」

男が微笑を浮かべて言った。姫はぐっと息を詰め、咳き込んだ。含んだ白湯が気管に入ってしまったのだ。

「姫は」

男が言った。優雨姫はどきりとした。

そうだ。

この男はずっと自分を姫と呼んでいる。

 勘なのか、何かを知っているのか。

「何処より参られました」

「……な、何の事やら。姫などと……」

「違いますか?」

「……」

優雨姫は生来、嘘を吐くのが苦手な質である。かと言って、本当のことを言ってもいいのか判断しかねた。そうなれば、黙るしかない。

「質問を変えましょう」

男の言葉に姫は内心ほっとした。

「あの刻限に何故あの場所におられました」

先刻の安堵はどこへやら。姫はまたも窮地に立たされた。

「わ、私は男です!先ほどから姫、姫と失礼でしょう」

「それは失礼いたしました。で、貴女様は何故あの刻限にあのような場所に?」

男は涼しい顔で大して悪びれるでもなくそう言った。動揺しているのは始終、姫の方だった。

「そ、その、通う……姫が……」

しどろもどろになりながら、そう言った。やはり、嘘は言えない。どうやってもおかしい態度にしかならない。

「ほぉ」

しかし、男は、責めるでなく、じっと優雨姫の目を見つめている。姫はうっかりその目をそらしてしまった。怪しまれると思った。自分が男の立場でも相手がこんな態度を取ったら嘘を吐いていると思う。

(ええい)

姫は心を決めるとすくっと立ち上がった。

「いかにも、私は少納言家の優雨姫!心無い出仕を求められ出奔した次第!素性が知れるのを恐れ、慣れない偽りを申しました。そのことに関してはお詫びいたします。以上!」

姫は一息に、半ば叫ぶようにそう言った。

 しん、と、姫の語気と対照的な静寂が流れた。

 姫の身体にどっと汗が噴き出した。名乗りを上げてどうするのか。却って状況は悪くなってないか。考えてみれば、今の自分は丸腰である。相手の男の素性はやはり知れないままだ。もしも、怪しい素性の男だったら。このまま拉致られでもしたら。

「ふっ」

男が扇の後ろで息を漏らした。そして、横を向いてふっふっふっと堪えたような笑いを漏らしている。

「何が可笑しい!」

姫は真っ赤になって言った。

単純に笑われたことが恥ずかしいのと、自分がしている事が自分でも意味不明になっていることとで。そしてその混乱をを吹き飛ばすように叫んだのだ。

「いえ、何とも勇ましい姫君だと思いまして」

「なっ」

優雨姫の頭は瞬時にして思考を停止した。かーっと頭に血が上る。だが、不思議と怒りは出てこなかった。ただただ恥ずかしさがあった。

「お座り下され。白湯のおかわりを差し上げましょう。落ち着きますよ」

そう言われ、姫はすとんと腰を落とした。すると、待っていたかのように、先ほどの女房が白湯を差し出した。それを受け取り、静かに口へ運ぶ。

(あ、)

先ほどからあったのかどうかは分からないが、白湯から仄かに花の香りがした。何かの花の香を移しているのか。理屈は分からないが、口から鼻にその方向が抜けると、気持ちがすぅっと落ち着いた。

 そうすると、姫にも相手を観察する余裕が出て来た。

 少なくともこの男は自分に対して害意は持っていないらしい。それだけは分かった。だが、弱みを見せたくはなかった。自分が今の状況に不安を覚えている事など、知られていい事のようには思えなかった。

「こっ、こちらが名乗ったのだから、そちらも名乗るのが礼儀でしょう」

姫は強気な振りをしてそう言った。まずは相手の素性が知りたい。

「晴明。陰陽寮の安倍晴明と申しまする」

男はそう言って深々と頭を下げた。

 その名に聞き覚えはなかったが、陰陽寮というところは知っている。政治には詳しくはないが、星を読んだり、法術を以って、人の助けになるものがあるというように記憶していた。そこに属するものが、所謂、陰陽師。つまり、この男は陰陽師なのだろうと思った。昨日のことを考えてみても、それが一番しっくりくる答えだった。

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