第8話 小説の世界

 平野が感じた悲惨で理不尽なものとして、最近よく聞くのが交通事故であった。

 数年ほど前だったか、飲酒運転の犠牲になった親子が話題となり、飲酒運転撲滅が叫ばれたことがあった。

 特にその事件が発生した県では、警察が必死になって飲酒運転撲滅を訴えていたのだが、まったく減るよしもない。しかも、酷い事故であったり、事故を起こした人間の素性が酷いのも、その問題の県だったりした。

 学校の教師であったり、市の職員であったりと、さらには、警察官などもいたりして、実に嘆かわしいことである。

 元々その県は、以前から交通マナーに関しては、全国ワーストとずっと言われてきたようなところで、

「黄色信号は行け、赤信号は中止して渡れ」

 とまで言われるほどである。

 もちろん、信号が赤になる時の話ではあるが、これが常識と言われている県なので、事故が起こるのも当然といえば、当然だ。

 さらに、、酷いのは、運転手が事故を起こした時の状況だ。

 無免許、飲酒、薬物と、検問されれば、逃げるしかない状況で、結局逃げてしまい、そこで事故を起こす。しかも、無免許というのは、免停などという生易しいものではなく、免取状態の人が乗っての無免許だったりする。

 人によっては。

「そんなやつは厳罰にして見せしめにすればいい」

 という意見もあるが、冷静に見ている人は、

「無免許だろうが、運転する人は運転する。飲酒などで、運転する人は、自分だったら絶対に事故は起こさない。あるいは見つからないということをどこから出てくるのか分からないが、根拠のない自信を持っているのだろう。そんな連中なので、どんなに刑を重くしたって、乗るやつは乗るのだ」

 という意見であった。

 そんな連中をどうやれば撃退できるというのか。以前に読んだ小説では、そんな連中を車ごと消す機械を開発したようなことが書かれていた。

 というよりも、

「その車を消して、三十分後の同じ場所に現れるようにタイムマシンをセットしておいた」

 というのだ。

 するとそれを聞いた人は、

「なんだって? そんなことをすれば、三十分後にちょうどそこにいた人と正面衝突してしまうかも知れないじゃないか?」

 と言われて、

「うん、それも面白いじゃないか」

「ええっ? 何の罪もない人の車にぶつかるわけだろう?」

「そういうことになるね」

 とまるで夢を見ているかのような会話に、話をしていて、質問者は頭がおかしくなるところであった。

「いいじゃないか。そうやって車が少しずつ減っていけばいいんだ、車を運転するから、事故も起こるし、公害問題にもなる。少しずつ車の数が減って行けばううのさ」

 と、ものすごい乱暴な言い方だった。

 だが、話を訊いていた人も、

「何となく、悪い話ではないような気がする」

 と感じてきていた。

「この世は、すべての人に平等だなんてことはないのさ。だから突発的な事故だって起こるし、それを誰かのせいだと誰も思わないから、さっきの話だって、まるで悪いことのように言っているだろう? 人の運命なんて分からないんだ。ただ、それを誰か一人が生殺与奪の権利を持っていたりすると、恐ろしいということになるのさ。だけど、宗教なんて結局は、神様がいて、その神様によって正接与奪の権利があるのだと思い込んでいるわけだろう? それが普通の人間でなぜいけないのかって思うのさ。だけど、誰か一人をターゲットにしてはいけないけど、誰かが犠牲になるというロシアンルーレットのような神様の存在は、宗教では身とえられているのではないか? そう思うと、悪を懲らしめるという意味での犠牲をいとわないと考えれば、今のようなタイムマシンを使うというやり方も、正当性があるんじゃないかな?」

 という、話をしていた。

 さすがに読んでいて、不快ではあったが、よく読んでみると、

「さすが、ストレス解消に読んだ本の作者による作品だ」

 と感じるのだった。

 この作家の話は、かなり恐ろしい話ではあったが、これをオカルトやホラーとして捉えるのであれば全然ありだった

 小説というものを、いかに捉えるかと考えると、

「フィクションであれば、何でもあり」

 というのが、最優先だとすれば、少々のことは許される。

 ただ、放送禁止用語や、社会全体に対しての影響が大きいもの。例えば、模倣しやすく、事件に発生しやすいものなどは、NGなのではないだろうか?

 ただ、模倣を予見するのは難しく、実際に起こってしまったものであっても、発売禁止になることもないだろう。

 あくまでも、マネをした可能性があるというだけで、本による模倣を証明できるものではない。

 この作家の話は、結構模倣されているかのようだった。

 以前に見たニュースで似たような話があったのだが、それは、不可能であるかと思われる犯罪をやってのけたのだが、今もその犯人は捕まっていない、どこをどう逃げているのか、ユースでは、

「神出鬼没の犯人」

 ということで、捜査員を煙に巻いていると言って、犯人ではありながら、世間では賞賛されていた。

 別に誰かを殺したわけでもなく、以前から悪徳商人というウワサのある富豪の家の金庫から、まんまと大金をせしめたのだった。

 家主が寝ている間に金庫が開けられ、大金が盗まれたということであったが、実際には、金庫から盗まれた金が問題ではなく、その奥の書くし金庫にあった薬物やけん銃などが問題だったのだ。

 それを犯人、あるいは、犯人グループが、公表すれば、自分たちの立場が怪しくなる。富豪の屋敷は、反政府勢力のアジトだったのだ。

 やつらは、どうしたものかと考えたが、

「自分たちは水面下で捜査し、警察にも並行して捜査させ、警察が真相に近づかないように警戒しながら、警察の捜査に便乗し、最終的にブツを取り戻すという作戦に出よう」 

 としているのであった。

 実際には、その情報は警察にも漏れていて、警察も目的は犯人逮捕というよりも反政府勢力を壊滅させることが目的だった。

 そのため、警察も全力を挙げていた。

 刑事課が捜査をする中で、公安が動きを見せ、公安が動き出したことに警戒を示し始めた反政府組織であったが、あくまでも警察の目的は、

「反政府組織の動きを見張ることで、犯人に少しでも近づく」

 というものだった。

 しかし、犯人逮捕が目的ではなく、犯人に対して反政府組織が何をしようとするかで、やつらの息の根を止めることができるのではないかと感じたのだ。

 警察も暗政府組織もお互いに、それぞれを利用しようとしていたことには違いないが、目的は犯人ではなく、組織の方は、犯行の隠滅であり、警察の方では、組織の激越というそれぞれに裏で真の目的を持っていたのだ。

 小説では、警察の捜査は結構的を得た捜査が行われ、結構早い段階から、犯人たちをあぶり出すことに成功していた。

 組織では、

「そろそろ、こちらも行動に移すか」

 ということで、犯人を追い詰める計画を見せるが、公安が後ろから忍び寄ってきているのを知らなかった。

 警察内に、組織の内定者がいることを警察も分かっていて、わざとニセの情報を掴ませて、やつらを陽動し、公安がまんまとやつらを逮捕したというわけだ。

 しかし、それは、組織も分かっていたことのようで、捕まったのは、あくまでも下っ端の犯行だった。しかも、別に犯人たちであるということを知らずに組織の下っ端の連中が、

「勝手にやったこと」

 ということで、組織は頑なに関与を身とえなかった。

 こうなってしまうと、迂闊に警察も組織には手を出せない。まるで鬼の首を取ったかのように捕まえた相手が、実はおとりだったと知った時、警察の幹部連中の地団駄を踏んで、悔しがっている姿が見えたことで、作者の警察に対しての留飲が下がっているのを感じた。

 だが、ここで反政府組織の方は、完全に油断したようだった。

「自分たちが仕掛けた罠に引っかかった相手を見ていると、自分たちも罠にかかっていたとしても、そのことには気づかないものだ」

 という話があるが、まさしくそうであった。

 警察にいっぱい食わせたということで、組織は、慢心があった。そのため、同時並行で警察の仕掛けている罠に気付かなかったのだ。

 そもそも、警察が、犯人にいっぱい食わされたというだけのことで、大げさに地団駄を踏んで悔しがったのだ。警察はそこまで取り乱すのがおかしいとは、慢心のせいで思わなかったのだ。

 その間にも、徐々に警察の罠がやつらに迫っていて、犯人グループをやつらが発見したところで、警察は完全に組織の暗殺集団を包囲していた。

 組織の連中が行動を起こせば、もう終わりであった。

 組織の方は、実行犯も、幹部の方も、すっかり警察のやり方に騙されていた。

「騙される方は、自分たちが前に騙したのと同じような方法で騙されるとは思ってはいないからな」

 とよく言われるが、まさにその通りであった。

 結局、公安はその連中の逮捕に成功し、さらに犯人グループも抑えたことで、無駄な血を流すこともなく、積年の願い叶って、反政府組織の息の根を止めることができたのだった。

 だが、長い目で見れば、反政府阻止胃の分子が、世の中に蔓延っていて、それはそのうちアメーバのように寄ってくることで、元の形を取り戻し、組織は、別の形ではあるが、新たな反政府組織を作り上げるのだった。

 警察はそれを一つ一つしらみつぶしで壊していくしかないのだ。

「これほど、報われない、もぐらたたきのような仕事もないな」

 と、少なからずの公安の人間は考えていることだろう。

 ただ、警察組織のように単独犯を中心に捜査するのではなく、あくあでも敵は反政府組織だということが分かっているだけ、普通の警察官よりも、士気は旺盛であるのは間違いないだろう。

 そんな状態を小説に書くことで、作者は、いくつか警察と反政府組織との抗争を、シリーズ化していた。

「これで何作かは、ネタに困らないかも?」

 と思っていた。

 実際に、

「事実は小説よりも奇なり」

 というような実際の事件は多く、似たような事件をいかにもフィクションであるかのように書いていたのだった。

「フィクションというのは、何でもありだと思うので、そこまで難しくないと思うのだが、そこに事実が絡んでくると、結構難しい話になってくる」

 と作家の間では、あるあるになっているようだが、

「何でもあり、何でもいいというのが実は難しい。言い訳がきかないからな」

 と言われている通り、どこまでが許容範囲なのかということであったり、どのように先を見ればいいのかなどということを考えていくと、いつもスムーズに書けているはずの原稿が、急に書けなくなってしまうということもあるようだ、

 この作家も、この小説を書いてから、しばらく絶筆をしていたということである。

 一年に何冊も新刊を出しているような作家なのに、二年近くも出していない時期があった。どうやら、出版社との連絡も立って、

「少し、休筆にしたいと思います」

 というのを、一方的に出版社に送り付けて、姿を晦ませた。

 さすがに出版社も困ったようだが、作家というのは大なり小なりそういうところがあるので、出版社も最初から覚悟はしていたようである。

 作家はその間、執筆のことは忘れて、何か所か、逗留していたようだ。

 執筆を忘れたというのは、あくまでも、本を出すための執筆ということで、自分がまだプロになる前の心境に戻りたかったというのが本音だった。

 だから、逗留してる場所は鄙びた温泉宿であったり、有名温泉地の中でも、一番老舗で、老舗過ぎて、客が寄り付かないようなところにいたのだ。

 そこで少し執筆をしたり、温泉に浸かったりと、その日暮らしを堪能していた。

「これが、そもそもの俺の姿なんだよな」

 と自分でも思っていて。プロであるくせに、アマチュア気分になり、小説を書けるようになった時の感動を思い出していた。

 一度プロになってしまうと、よほど環境を思い切って変えてしまわないと、アマチュア時代の自己満足の世界に入ることはできない。

 それが、プロとアマチュアの壁であって、結界というものではないかと、作家は感じていたようだ。

 本を読んでいると、作家の心境が垣間見えるようで、小説は楽しいものに感じてきた。

 ストレス解消に、妄想としてはできるが、実際に行動に出せないことを代弁するかのような小説は、小説評論家たちには、不評のようだった。

「小説というものは、いかにさりげなく自分の気持ちを文章として生み出し、読者の想像力を膨らませることができるかというのが、肝である。こんなに露骨にストレス解消を目的としてあからさまな話を書くのは反則である」

 という批評をしている人がいたが、果たしてそうなのだろうか?

 平野は小説を読んでいて、

「小説家に変わり者が多いと昔から言われていたが、二重人格者であったり、躁鬱気味の人が多いからそう言われるのではないだろうか?」

 と、感じるようになっていた。

 小説を書きながらでも、表からガキがギャーギャーとわめいているのが聞こえてくると、

「あのクソガキども、ぶっ殺してやる」

 と思い、文章でいくらでも、ぶっ殺したりしたものだ。

 しかし、書いた後に読んでみると、自分が露骨に書いたつもりでいる作品は、そこまで辛辣なものではなかった。

 確かにガキをぶっ殺すところまでは書いているが、それは一瞬のインパクトだけのことだった。

「こんなに短い文章だったのか?」

 と思ってしまって、どこまで怒りが現れているのかが、自分でも分からなくなっているのであった。

 それが鬱状態なのか、今回の鬱状態は想像以上に長かったのだが、その鬱状態の中に、さらに躁鬱が存在していた。普段の鬱状態が、入れ子になっている躁鬱の鬱状態に近いものなので、この時の鬱状態というのは、普段の鬱状態よりかなり長い分、慣れてくると、自分が鬱状態にいること遺体に疑問を感じるほどであった。

 温泉旅館にいると、いろいろな発想が生まれて、その都度ノートに記している。普段は、執筆しながらの次回作への思いであったが、今回は、何もしていないところでの発想なので、幅はグッと広がったのだ。

「本当に困ったものだ」

 と思ってはいるが、さほど困っているわけでもない。

 出版社には、とりあえず一方的ではあるが断りを入れておいた、

 戻った時には、自分の席はなくなっているかも知れないが、それならそれでもいい気がした。

 今の状況で、小説など書けるはずがないということを自覚しているからで、二進も三進もいかないというのが本音だっただろう。

 温泉に浸かっていると、嫌なことが忘れられた。そもそも何に対して嫌だと思っていたのか、鬱状態になっているとよく分からない。

 分からないことがストレスになって、鬱状態に跳ね返ってくるのだろう。それを思うと、小説を書くということが、実は書いているうちに、少しずつ忘れていってしまって、かなりの部分を省略しているかのように感じた。

 そういえば、昔の画家のことを人から聞いた話だったが、

「画家というものは、目の前の絵を描く時であっても、そのままを表現しようとするものではなく、不必要だと思う部分は、大胆に省略して描いてもいいんだと言っていたんだよ」

「省略すれば分かるんじゃないかな? 絵に辻褄が合わなくなるのでは?」

「いや、そんなことはない。違和感がなくなるのは、それが絵画の魔力というもので、省略しても、どこを省略したのか、すぐには分からないようになっているのさ。それはうまい下手というよりも、作家の才能と天性の能力というものおが影響しているのではないかと思うんだよ」

 そんな話を思い出していると、

「小説でも同じことが言えるのではないかと思い、ところどころに中途半端な書き方をしてみたけど、それが謎となってラストに続いていく。それが小説というものの醍醐味なのではないかと思うんだ」

 と感じていた。

「もし、自分が絵を描けるようになっていれば、プロットを絵にしても面白いかも知れないな」

 と、自分で感じていたのだが。絵と小説とでは、明らかにお互いを侵してはならない何かがあって、その時の作家の旅は、

「それを見つけるための冒険のようなものだ」

 と言っても過言ではないだろう。

「それでも、メインは絶対に小説なんだ」

 と、並々ならぬ思い込みが小説にあることに気づいたその作家は、その時点である程度自分の作家としての道が見えてきた気がしたのだ。

 小説を読んでいると、自分も書いてみたいと思った。ストレス解消のつもりで、最初は箇条書きくらいで書いてみると、箇条書きくらいであれば、いくらでも書けた。ただ、それを文章に紡いで、さらに物語にしようとすると、ここに何らかの結界があるのだ。

 最初は、

「あまり過激なことを書いて、実際に本当のことになって、それが自分に降りかかってくればどうしよう?」

 などという浅はかなことを考えたものだが、書いた小説が本当になるのであれば、これほど楽しいこともない。いくらでも書いてやりたいと思うことは存在するのだ。

 だが、心の底で、どこかに罪悪感があるのだろう。下手に結界を破って、ストレス発散だけを目的に書いていると、その戒めを受けることになるのであれば、本末転倒である。

 ただ、今回試しにであるが、隣のガキのことをちょっと書いてみた。プールでうるさかった時のことを思い出しながら、

「お前なんか、プールで溺れてしまえ」

 と思っていると、プールで泳ぐことが本当になくなった。

 これは伝え聞いた話であるが、家族で市民プールに行った時、子供を幼児用のプールだからと言って、一人で泳がせていたのだったが、興味本位からか、子供が水に顔をつけてしまい、呼吸法を間違えたのか、水を飲み込んでしまったようだ。かなり苦しかったようで、意識がなくなるくらいにまでなってしまったようだ。

 急いで、救急車を呼んだり、蘇生措置を施したりして、何とか意識を取り戻したが、子供は完全に水を怖がるようになり、親も神経質になって、学校でもプールで泳げなくなったようだ。

 学校で先生は、それでも少しずつでも泳げるようにしたいと努力をしたようだが、子供が完全にトラウマになっているようだ。顔を洗うのも怖いという。

 学校でも、

「しばらくは、このままにしておいて、しばらくすれば、水に慣れるようにしていこう」

 という方法を取るようにしたのだ。

 家でも、水に関わることはしなくなり、庭で何かをすることもなくなった。

 そのおかげもあってか、友達と遊ぶこともなくなり、静かになったのだ。

 平野は、自分が悪いのかも知れないと思ったが、悪いことをしたという意識はなかった。

「俺は自分の権利を守っただけだ」

 と感じたのだ。

 それでも、若干の後ろめたさがあったのは、人間としての感情を考えたからだったが、うるさくして他の人に怒られたり、文句を言われて家族ぐるみで、ご近所トラブルを起こすことを思えば、子供が大人しくなるくらいいいのではないだろうか。

 これも一つの教育である。

「うるさくすれば、近所迷惑になって、まわりから疎まがられる」

 ということを、子供が悟ればいいだけのことだった。

 何も子供だからと言って、うるさくしてもかまわないというわけではないのだ。

 そもそも、

「子供というのはうるさいものだ」

 という概念が間違っているのではないか。

 大人になれば、近所迷惑だということも分かるし、明日は我が身なのかも知れない。

 いくら文句を言っても。大人というのは、

「子供がすることだから」

 と言って、自分の子供の正当性を訴えるが、そんな奴に限って、今度は隣室で子供がうるさくしていたら、

「うるさい」

 と言って、文句をいうに違いないのだ。

 そもそも、近所づきあいというと、皆相手のことを考えていると言いながら、しょせん、自分のことしか考えていない。子供のことであれば、子供を言い訳にして、自分を正当化しようとする。

 平野は、ストレス解消の小説を書いている作家の話を思い出していた。

 確か、温泉宿に泊って、小説を書いている時、いつも妄想の世界にいるということだった。

 ただ、その妄想の世界というのは、自分の家で小説を書きながら想像する光景が、小説を書き終わった時に打ちあげ気分でいく温泉だったという。

 しかし、実際に温泉に行ったことはなかった。連載がひっ切りなしで、温泉に余裕をもっていけるほど、精神的に落ち着いてはいなかった。

 だが、温泉宿のことを考えていると、なぜか小説を書く手も止まることはない。書いている内容と想像していることが違っているというのも、おかしな感じであるが、集中していると、えてしてそういうこともあるのではないかと感じたのだ。

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