第9話 新たなジャンル

 最近では、

「子供の声がうるさいと言って文句をいう人が増えてきて、嫌な時代になった」

 という人がいるが、果たしてそうなのだろうか?

 昔なら、子供が泣きわめいたり、奇声を挙げたりすると、親が子供を叱りつけて、近所に誤って回ったものだったが、今では、

「子供が泣くのは当たり前、近所はそれくらい我慢しないと」

 という風潮になりつつありそうで、そっちの方がどうなんだろう?

 子供というものを、最初から泣くものだと決めつけるのは危険な気がする。確かに、子供は言葉が喋れないので、泣き声で知らせることもあるだろう。ただ、それも幼児の間だけだ。

 喋エルようになってから、わがままを言って泣き出した子供に対して、オタオタしてしあう親がいる。中には、

「静かにしなさい」

 と言って怒れば、余計に泣き喚く子もいるが、それは稀なケースであり、ほとんどは、黙るのではないだろうか。

 ちょっとしかりつけるだけでいいのに、そんな簡単なことができない親というのは、どういうことなのだろう。怒ると、さらに泣き声が大きくなって、収拾がつかなくなるということだろうか?

 ただ一つの問題は、躾と称して、子供を虐待している親がいたりする。そうみられるのを怖がっているからだろうか?

 いや、少しだけ叱るのであれば、虐待になどなるはずもない。一つ平野が気になったのは、

「大人の中には自分を抑えられなくなると思っている人がいるからではないだろうか?」

 と感じていることだった。

 最初は、軽い躾のつもりだったのかも知れないが、子供が自分の恫喝で黙ってしまうと、子供を使って、自分のストレス解消に使おうと思う親だっているかも知れない。

 特に、父親に逆らうことのできない奥さん。あるいは旦那は浮気をしているのではないかと思って、やきもきがストレスに変わっていく奥さん。

 そんな奥さんは、かなりのストレスを抱えていることになるだろうが、その分、解消させる方法がなかなか思いつかない。

 そんな時、子供を恫喝することで、ストレス解消になったり、下手をすれば、子供を的にして、旦那への不満を爆発させることで、サディスティックな大人がいないとも限らない。自分もそんな人間だと思い込んだとしても、無理もないことだ。

 それを危惧して子供に対して、迂闊な態度は取れないと感じている人もいるのではないだろうか。

 そうなってくると、まずは自分が怖くなる。自分が怖くなると、子供を相手にしている自分がさらに怖くなる。

 子供が自分を見る目によって、精神状態に大きな変化がみられるとすると、子供に関わることが怖くなる。

 つまり、自分という人間が信じられないので、子供の信じられないという理屈である。自分がよく読む小説家も、同じような発想を持っていた。

「子供を教育できないどころか、自分がまともな教育を受けてきていないことを自覚していない親がいる」

 ということを書いていた。

 この問題が、そのまま苛めの世界に波及しているのではないだろうか。

「苛める方は、苛められた側の気持ちが分かっていない。だから、苛めはなくならないのだ」

 という話を訊いたことがあるが、そんなことは最初から分かっていることであるはずなのに、そもそも苛めに走る子というのは、親から迫害を受けていたり、いわゆる「親の愛情」を受けずに育っていない子供なのではないかと思われるが、果たしてそうなのだろうか?

 苛められる側の子供の方が、親からの愛情を受けずに育ち、親から迫害を受けることで、表で何も言えなくなると、苛めのターゲットを探している方は、迫害を受けているのに黙り込んでしまっている連中を見て、

「どうしてあんなに卑屈になるんだ」

 と思うことだろう。

 卑屈になると、苛めたいという衝動に駆られている連中にとっての恰好の餌食である。

 昭和の頃の苛めというと、陰湿なものはなかったという。今のような陰湿で人情の欠片もないような苛めというのは、まったく人間としての愛情や、それに類するような感情が備わっていないと言ってもいいだろう、

「苛められる側にも何か原因がある」

 と昔から言われてきたが。それは間違いないだろう。

 しかし、

「苛める側には苛める側の理屈がある」

 というのは、まったく当てはまらないということだろう。

「苛めをする人間は、人間的に誰かを苛めていないと我慢ができない人間だということだ」

 という理屈である。

 だから。苛めが陰湿で。geん度というものを知らない。苛められた方には自殺に走るというのも分からなくもない。

 そう考えると、苛められる側に原因があると言っても、それは仕方のないことで、悪いのは苛める側である。そもそも、自分が誰かに苛められていて、それをいじめられっ子で晴らそうというのは、これほど理不尽なことはない。

「自分は苛められているんだから、誰かを苛めてもいいだろう」

 という屁理屈を持ってしまう。

 そのような無限ループがいつまでも続いていくので、時代が進むごとに、苛めがどんどん陰湿になっていくのだろう。小説で辛辣なことや、ストレス解消になるような話を書くことくらい、大したことではないだろう。

 世の中というのは、何かが起こると、その解決法に、行き過ぎた解釈が生まれることがある。前述の性犯罪の冤罪にしてもそうだ。それまで迫害されてきた、

「性犯罪弱者」

 が、コンプライアンスや、ハラスメントという言葉の遵守において立場が強くなり、やってもいない人を犯罪者と決めつけることが多かったりする。

 本当は犯人でもないのに犯人扱い。最終的に無罪になったとしても、社会的な立場は失ってしまうだろう。会社にもいられない。結婚していれば離婚。相手に民事訴訟で訴えられれば、慰謝料の問題。踏んだり蹴ったりである。

 自分たちが弱い立場にいるという思い込みが、そういう冤罪と悲惨な人生を歩まなければいけないことになる。

 そういう意味で、タバコとは同じように迫害されていたとしても、種類が違う。

 最近では、受動喫煙防止という法律ができ、ほとんどの場所でタバコを吸ってはいけなくなった。

 さらに、

「タバコを吸っているのを見られただけで、罪悪だ」

 という風潮になってきている。

 これも、性犯罪に関するコンプライアンスという考え方に近いものがあるだろう。

 だが、タバコの場合は、

「百害あって一利なし」

 と言われる通り、タバコは吸っているだけでも、吸っている人の近くにいるだけでも、

「副流煙」

 というものによって、病気になる確率は高いと言われている。

 まるで、伝染病を移しまくっているかのようではないか。

 それを数十年前までは問題にはならなかった。問題にしようとする人が増えてくることでやっと問題になったのだ。

 だが、あれから四十年くらいであろうか。今ではタバコを吸うのが罪悪とばかりに、白い目で見られた李する。

 この前まではパチンコ屋などでタバコを煙たいなどというと、喫煙をしているくそ親父から、

「ここでは吸ってもいいんだ」

 と切れるバカがいる。

 高校生の平野は言ったことがないが、先輩からそういう話を訊かされると、本当に虚しくなってくるのだ。

 つまり、法律が変わっただけで、我慢できているのであれば、もっと早く思い切ったことをしてもよかったのではないかと思う。緩い政策をしていると、そのうちに手遅れにならないとも限らない。それが環境問題だ。

 コンプライアンス問題にしても、性犯罪であったり、会社のハラスメントであったり、そのほとんどは泣き寝入りばかりであった。

 例えば強姦罪などは、うまい弁護士に罹れば、

「このまま訴えると、被害者のお嬢さんが、裁判で好奇の目に晒されることになりますよ。それなら、示談に応じて、お金を貰って、訴えを取り下げる方が、身のためだと思いますが」

 と言われて、泣き寝入りということになったり、あるいは、会社なのでは、

「この会社でこれからもやっていくにしろ、他の会社にこれから面接に行くとしても、こういう裁判を起こしたところは相手にしてもらえないですよ。明日は我が社だと思うでしょうからね」

 と言われると、当然、こちらも泣き寝入りするしかないだろう。

 大企業ともなると、顧問弁護士がいたりする。会社のトラブルの専門家にかかれば、コンプライアンス問題など、いくらでも丸め込めたのだろう。

 ただ、今はそういう問題を相談できる民間相談所もできたし、コンプライアンスに関しての会社側の義務も結構定着している。

 そんなことを考えると、性犯罪にしても、コンプライアンスにしても、これからは弱者が守られるということであるが、これは、逆に弱者を利用した、上層部への逆セクハラであったり、逆性犯罪であったりする。

 まるで、美人局のようなやり方だ。

 つまり、悪者に対してあまりにも世間が肩を持つようになると、法の厳守に便乗し、悪くもない人間を、嫌いだという理由だけで、犯罪者に仕立て上げることも可能だということだ。そういう意味で、コンプライアンスも性犯罪に対しての問題も、今の世の中の対策は、諸刃の剣のようだと言ってもいいだろう。

 今はそのことについて問題意識を持っている人は少ない。実際に自分が被害に遭わなければ、ピンとくる話ではない。かつての性犯罪のハラスメントも、関係のない人間にとっては。どうでもいいことだったのと同じではないだろうか。

 だが、一度でも、疑いを掛けられた人間にとっては、たまったものではない。法律や世間の意見が逆に作用してしまうと、実際に本末転倒も甚だしいと言えるのではないだろうか。

だから、この作家は、社会に対しての警鐘を鳴らすという意味で、思い切った書き方をしているのではないだろうか。

 本来であれば、ここまで辛辣で世間批判に近い本は、発売禁止になっても仕方のないものなのかも知れないが、あまり売れていないし、セールスもしていないこともあって、密かに売れているということか、場所は本当に端の方にあって、目立たないのだが、どこの本屋に行っても置いてある。まるで、売れようが売れまいがないと本屋としての意味がないとでもいうような、地図のようなものだと言えるのではないだろうか。

「目立たないが本屋に不可欠な本」

 という扱いに感じられた。

 この作家のことは、本の後ろの方に、

「ここまで詳しく書かなくてもいいのに?」

 と思うほど書かれていた。

 途中で、自分の作品に嫌気がさし、途中で休筆して温泉宿で一年半ほど逗留したことも、その本の後ろに書かれていたのである。

 ただ、一つ不思議なことも書いていた。

「当該作品の作家とは、我が編集部においては、一度も面会の機械があったわけではない、電話で話をしたことはあるが、面と向かったことはない、原稿も郵送うで送られてきて、今の時代にネットでのメールというわけでもない。送付の書類の消印は、いつも別のところからやってくる。やってくる。一度も締め切りを破ったこともなく、内容が少し古いことから、完成した作品を小刻みに封筒に入れて郵送してくるんじゃないのかと思われる」

 と書かれていた。

 編集者も、よくこのような得体の知れない作品を掲載したものだが、掲載当時の読者からの評判はかなりいいものだった。だが、文庫本にすると売れない。売ろうという意識がないのだからしょうがないのだが、ただ、本屋にはないといけないものだというのは、出版社の方で理解の上のことであった。

 しかし、少ししてから、変なウワサが立つようになった。

「あの本は、数十年くらい昔に、似たような作品があり、やはり正体不明の作家が送ってきた作品を掲載したことがあった。その作品への評価は、可もなく不可もなくであったが、徐々に盛り上がっていって、文庫化したのだという。すると、本が売れることはなかったが、なぜかどこの本屋からも、取り寄せの依頼があったという。ただ、どの本屋でも売れることはなかったが、ただ、本屋の端の方に置かれているだけだったのだが、それでも返品は一冊もなかった」

 というのだ。

 奇妙な発汗本であるが、それが、出版社と本屋でのトリビアのようになり、出版社の方では、

「ブームというのは、数十年に一度、再来するという。また似たような作品が送られてくれば、これはもうブームの一つとして、同じように本屋の端の方に置いておくようにしてほしい」

 と言っていた。

 そして、それから二十年後に、同じようなことが起こったのだ。

 前と同じように小説家の世間への批判が前面に出ていて、読む人によっては、不快極まりないような内容だが、ストレス解消本としては、一読の価値ありだと思っていた。

 しかし、不思議なことに、この本が売れることはなかったのだが、なぜか、

「ストレス解消オカルト小説」

 というジャンルが次第に確立してくるようになる。

 そして、その第一人者として、文壇に華々しくデビューしたのは平野だった。

 まだ、高校生であったが、ライトノベルに変わる新たな人気を博するジャンルとして、この新しい、

「ストレス解消オカルト小説」

 というものが現れるというのも、面白いと評判になった。

 かつて、二度ほどブームがあったということを、少なくとも数年はひた隠しにすることは、出版社と平野との間の発行契約において決まったことだった。

 それも、かつての二度の静かなブームで残された本の中に書かれたことだった。

 その二冊はまったく内容としては、小説というよりも、ジャンルの発生を予知するというまるで、

「大予言書」

 のようなものだった。

 だから、各本屋も、簡単に処分することはできなかったのだ。

 平野は、今日も世の中の理不尽で無責任なことを探して歩いている。そこは、ちょうど平野が最初に読んだ本で見た、温泉地を巡る旅だったからだ。

「理不尽さと無責任さを考えると、どんどん作品が浮かんでくる。これこそ、生きるエネルギーなんだろうな」

 と、平野は感じたのだった……。


                (  完  )

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理不尽と無責任の連鎖 森本 晃次 @kakku

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