第3話 引きこもりの感情

          

 高校二年生の時の引きこもりは、学校に対してというよりも、家にいてノイローゼのようになったことからお引きこもりだった。そういう意味で、引きこもって家にいるというのは、どこか矛盾しているのだが、引きこもってエームばかりしていると、そのうちに飽きが生じてきたのだ。

 ずっと部屋にいて、雨戸も締め切り、部屋の明かりだけをつけて、朝なのか夜なのかも分からない状態で、ゲームばかりしていると、そうなるのも当然のことだった。ヘッドホンをして、音楽を聴いていたり、ラジオを聴いたり、雑音は入らないようにしていた。

 最初は、心配していた親だが、どこの親でも同じなのか、そのうちに何も言わなくなる。完全にビビッてしまっているのか、平野の頭の中では、

「ふざけんなよ」

 と言いたかった。

「どうせ、世間体のことしか頭にないんだろう。引きこもってくれていて、表に出ないのであればそれはそれでありがたい」

 とでも、思っているのかも知れない。

 食事だけは、部屋の前に置いてあるので、それを適当な時間に引き入れて、食べるだけだった。食べたものは、また表に出しておくと、いつの間にか片づけている。平野は腹が減れば食べるだけで、それでいいと思っていた。これこそが典型的に引きこもりで、そんな状態が一か月くらい続いただろうか?

 最初の頃は学校にも行っていた。たぶん、

「引きこもっているのに、学校には行くというのはどういうことなのかしら?」

 と、親は思っていたことだろう。

 そして、そのうちに学校に行かなくなると、親は本当に心配になったのか、話をしたいと言ってきたが、その時の平野は誰であっても人と話をするのが一番嫌だった。

 そのことを分かろうともしない親に腹も立ったが、その理由は、やはり親が世間体のことしか考えていないと思ったからだ、

「ねえ、話をしましょうよ。あなたが何を考えているのか知りたいの」

 と母親は言ったが、

「放っておけ。どうせ家にいるんだから、世間様の前に出るわけでもない。だったら、それでいいじゃないか?」

 と父親は母親に言っていたが、

「そうね」

 と母親も、半分だけだが、納得したような言い方だった。

 ウソでもいいから、

「何言ってるのよ、お父さん。あの子は苦しんでいるのだから、話くらい聞いてあげるのが親の務めというものよ」

 と言ってほしかった。

 もっとも、これは平野が考えた模範解答で、こんあ百点の回答をほしいと思ったわけではない。逆にここまで完璧な回答は、却って信憑性がない、ウソっぽい言葉に聞こえて、わざとらしさ満載である。

 だから、せめて、父親に逆らうくらいはしてほしかったが、不満がありながら、承諾するというのは平野が想像した中で、最悪のことであった。

 逆らいもせずに、半分承諾。きれでは今までとまったく変わっていないではないか。それを聞いた時、

「俺は、この引きこもりの理由の一つに、そんな親への反発もあったのではないだろうか?」

 と感じたのだ。

 自分がどうして引きこもるようになったのか、正直分かっているわけではない。何となく漠然としたモヤモヤがあり、それが引きこもりという形で現れたとは思ったのだが、分かっているのは、

「理由は一つではないような気がする」

 ということであった。

 引きこもりが楽しいわけではない。いつまでも引きこもっていられるわけもないとも感じている。

 だから、その理由を一つずつ解明し、解決するしかないと思ったが、それだけで済むものなのか、平野は悩むのだった。

 まず、一つは分かった。だが、この件に関しては、自分が関わる問題ではないということから、問題の完全解決はできないだろうと思った。後は自分がどこまで歩み寄れるかということなのだろうが、平野は、そこは、諦めしかないのだろうと感じていた。

 親に対して、もう何も望まないことにした。

「どうせあんな親なんだ。死ぬまで治らないだろう。だけど、俺はそんな親から生まれたんだ。自分が結婚して子供を持つことができたとすれば、絶対に世間体を最初に考えるような子育てはしない」

 と決めていた。

 それは、奥さんになる人にも望むことで、結婚相手に望むことの第一条件として、今のところでは、

「世間体を必要以上に気にしない女性」

 ということであった。

 そもそも、平野が世間体を気にせずに生きていこうと思っているのだから、二人とも世間体に対して無頓着であれば、歯止めが利かないのは分かっていることだ。

 そういう意味で、歯止めを奥さんに求めるというのは、虫がよすぎるのかも知れないが、最初から備えておくという意味では必要なことだと思うのだった。

 平野は。引きこもっている間、ゲームばかりをしていて、どれくらいの日にちが経ったのか、学校に行かなくなると、さっぱり分からなくなった。

 スマホで時間と日にちは確認するが、確認するだけで、時間の経過に対して、考えることもなくなった。

 最初の頃は、

「まだ、これくらいしか時間が経っていないのか?」

 などという感覚を持っていたくせに、部屋から一歩も出なくなると、この世界が怖いというよりも、楽しくなってきた。

 引きこもりというのが、楽しいものだということを初めて感じたのだ。

 ただ、それは一瞬のことだったはずだ。完全な引きこもりになってから、時間の経過を気にしないようにはなったが、引きこもりを楽しいと思っている間は、

「時間がゆっくり進んでほしい」

 という思いがあり、その通りに時間が経過していった。

「この部屋の中では、俺の思ったとおりに時間が経過していくんだ」

 という思いがあり、これが、引きこもりを楽しいと思わせる原動力だったのではないかと思ったのだ。

 そう思っていると、ゲームが急に面白くなくなった。引きこもりが楽しいと思うわりに、引きこもっているだけでは何か物足りない気持ちになってきた。

 何とも矛盾した考えだが、その気持ちがどこから来るものなのかハッキリとは分からなかった。

 しかし、家にいる時は引きこもって、学校と塾には行くようになった。それを見た両親は、さぞや、

「これで、引きこもりも時間の問題だ」

 と思ったことだろう。

 逆に平野としては、

「誰が親の思い通りになんかさせるものか」

 という思いがあり、学校と塾以外で、家にいる時は、引きこもりを貫いた。

 逆に家を出る時は、黙って出かけるか、目が合えば、これでもかというほどに睨みつけてやった。

 母親は、びくついて、金縛りに遭った科のように、じっとして震えているようだったが、父親は何か一言でも文句を言ってやろうと身構えているが、そこまでだった。

 そんな父親の姿を見て平野は、ニヤッと笑ってやるのだった。これが父親に対しては一番効き目があるようで、まるでヘビに睨まれたカエルのように、こちらも金縛りに遭ったかのように動くことができなくなった。

「親に対しては、睨みを効かせて、最後にニヤッと笑ってやればいいんだ」

 と、対処法が分かってしまうと、もう、親なんか怖くなくなっていた。

 もし、引きこもりの理由がそれだけであれば、もっと気分的に晴れてくるだろう。同じ引きこもりでも、今までと同じようなゲームだけに勤しむことはないはずなのに、やはり、ゲームしかしていないのだ。

 もう親は関係ないので、そこにイライラがあるのかと考えていると、ちょうどその時は季節が夏で、高校も、他の学校も夏休みの時期だった。

 進学塾だけは、夏休みなど関係ない。引きこもりの平野は、その時期、塾に行くのだけが楽しみだった。

 引きこもっていても、嫌だとは思っていなかったが、楽しいなどという感覚とは程遠いものがあった。

 塾にいて何が楽しいのかというと、塾での勉強は、

「自分の実力が正直に現れるもので、やればやるだけ、成績はよくなり、ひょっとすると、自分の中のバロメーターやモチベーションが、顕著に表れているのではないか?」

 と感じるのだった。

 ある日、部屋でゲームに疲れたので、ヘッドホンも外して、

「少しだけでも、寝よう」

 と思った時だった。

 部屋の外から、ギャアギャアtお黄色い声が聞こえた。

「何だ、あのうるさい声は」

 と思い、トイレに行って、窓を少し開けてみると、隣の家の親子が、口で膨らませるタイプのビニールプールの中で、行水していた。

 子供が、水浴びしながら奇声を挙げているのだ。

 しかも、親はそれを見ながら楽しそうに、子供にホースで水をかけている。親も何か子供に話しかけているが、その野太い声が、鬱陶しい。

「うるせえ、クソガキが。親も一緒になってなんだっていうんだ」

 とばかりに、一気に怒りがこみあげてきて、何とかその場は荒れ狂わずに収めたものだった。

 それから、数日、広間と思しき時間に、子供が行水していた。最初の日は日曜日だということで、父親が水浴びをさせていたが。他の日は奥さんが水着を着て、子供の相手をしていた。

 その様子を平野は垣間見るようになった。そして、密かにトイレの窓から、見つからないようにホームビデオのカメラにその様子を収めていた、

 もちろん、奥さんのエロい恰好を収めて、引きこもった部屋で見るためだった。

「俺って、変態だったんだ」

 と感じた。

 子供が遊んでいる姿は一切見ない。奥さんの厭らしい肢体を見て興奮している自分をしばらく感じていると、

「ひょっとして、意識して、嫌なものを排除できるようになれるかも知れない」

 と感じた。

 録画した動画の奥さんの部分だけを写すのは難しい。どうしても、ガキ迄写ってしまう。それでも、集中して見ていれば、奥さんだけを見て興奮することができる。嫌なものを抹殺しようと思わないでも、ビデオカメラの中の意識を奥さんだけに持っていくことができえば、これほどスムーズに問題を解決できることもないと思うのだった。

 そして、実際に平野は、奥さんの身体だけを見ることができるのに成功した。ガキの姿はちゃんとビデオに映っているのに、気にすることはなくなった。

 そのことを感じていると、その頃に読んでいた本に興味を持っていたことで、自分も書いてみたいと感じたのは、その頃のことだった。

 現実と空想が頭の中で交差して、奥さんへの厭らしい妄想が、官能小説のような話になっていったが、官能小説風に書けるようになると、今度は、それを他のジャンルに当て嵌めて見ていくことができるのではないかと思えた。

 この話を少しホラーか、オカルトっぽくできるといいと考えた。

「どうせ、小説なんだから、何したっていいよな、奥さんと厭らしいことをしたって、誰かを殺そうと思ったとしても、それを誰が避難できるというのか。どうせ、誰にも見せるつもりもないんだしな」

 と、平野はこの状況をm思い切り、自分中心の話にしてしまおうと考えたのだ。

「あの奥さんには、思い切り恥ずかしい恰好をしてもらおう。コスプレなんかいいな。セーラー服は無理があるかも知れないが、ナース服で癒されてみたいな」

 などと思い、病院で看護を受けている気分になっていた。

 実際に病気でもないのに入院していると、どこもおかしくないのに、どこかがおかしい気がしてくるから不思議だった。だが、奥さん看護婦が癒してくれているのを感じると、次第に痛みが引いてくる。元々痛くも何ともない状態で痛みが引いてくる感覚は、

「セックスって、こんな感じなのかな?」

 という妄想を抱いた。

 癒しが絶頂を迎える時、身体の奥から何かがこみあげてくるのを感じ、

「もう、我慢できない」

 と思った瞬間、頭の中が真っ白になった。

 こんな充実感を感じたことがないと思ったくせに、次第に我に返ってくると、今度は、何か虚しさを感じた。

「なんだ? この感覚は?」

 と、自分でもビックリだった。

 罪悪感でもない何かが身体の奥からこみあげてくる。この感覚がどこから来るのか、まったく分かっていなかったのだ。

 引きこもりには、何か趣味があれば、人と一緒にいなくても寂しくないという大義名分がある。もっとも、一人でいることが寂しいというのを、誰が決めたというのだ。一人でいて、勝手なことをするのを、なぜ悪いことのように言われるのか、疑問で仕方がなかった。

「小説家やマンガ家というのは、ホテルで缶詰めにされて、まるで隔離されている状態で書いているではないか」

 と考えた。

 さすがに隔離というのは抵抗があるが、ちゃんと書いていれば、別に何をしてもかまわない。そもそもホテルや旅館で執筆を続けるというのは、自分が望んだことで、雑音が入らないようにしているからだった。

 小説を書き始めた頃は、一人で自分の部屋で籠って書いていると、気が散ってしまって、なかなか分奏が進まないものだった。小説を書いている時というのは。

「考えてしまうと書けなくなってしまう」

 と感じることから、書けるようになったのだ。

 つまり、考えずに感じることで、文章が浮かんできて、どんどん先に進んでいく。それが一旦考えてしまうと、頭の中に余計なことが浮かんできて、せっかく真正面を見て描き続けていたのが、横道に逸れてしまう。それは気が散っているわけではなく。選択肢が増えることで、書くことに疑問を感じるようになるのだ。

「もっといい文章が書けるのではないか?」

 などと考えると、先に進まなくなってしまう。

 小説を書く時は、プロットを作らないと、文章が支離滅裂になって、書けなくなると言われているが、まさにその通り。

 しかし、プロットは完全に作り上げる必要はないのだ。小説の書き方なるハウツー本の中には、

「プロットを完璧にしてしまうと、それである程度満足してしまって。本編を書き始めると、目指す場所が見えているはずなのに、見えていないことに気づいて、書き始めから詰まってしまうことがあるので、あんまり完璧にしない方がいい」

 と書かれている本もあった。

 まさしくその通りだ。

 そもそも、プロットというのは、決まった形があるわけではなく、あくまでも設計書だ。プロの作家であれば、企画書になりそうなあらすじくらいは、出版社に出さないと、出版の許可が下りないのだろうが、素人が自分で書く分には、どんなものでも構わない。

 別にプロットが絶対に必要だというわけでもないのだ。

 プロットが少しでもできていて、登場人物ができていれば、すぐに書きだすことが多い。それが、途中までであってもいいのだ。書きながら最終章に向かっていけばいいのであって。半分以上書いたくらいのところでラストの結末を考えるというのが、平野のやり方だった。

 下手をすると、いきなり終わらせることもあったりしたが、後で読み返すと、意外とうまくできていると思うことも多かった。

 最近は、無料投稿サイトなどを見つけてきて、自分で書いた作品をアップすることもある。そうしておけば、無料で開放しているので、読んでくれる人もいたりする。批評もあり、レビューも書いてくれる人もいたりした。

 基本的には、褒めてくれる人が多いのだが、中には辛辣な意見もあったりして、それに一喜一憂することもあったりした。

 小説を書いていると、やはり引きこもっていることもあってか、時間を感じないものだろうと思っていたが、自分で書く量に対して、どれくらいの時間を要するかということが気になるようになってきたので、少し気にしていると、思っていたよりも、実感と実際の時間との間に差がないことが分かってきた。

「確か友達は、書いていると、あっという間の気がするんだ。下手をすると、五分くらいしか経っていないのに、実際には一時間くらい経っていたなんてこともあったりしたんだよ」

 と言っていた。

「それだけ集中しているからなんじゃないかな?」

 と言ったが、その時、

――自分もその感覚を味わってみたいものだな――

 と感じたのだった。

 その気分を味わってみたいと思っていたのに、実感と実際の時間が同じというのは、実に寂しい感じがした。

――集中していないということかな?

 と感じたが、それは違うと思いたい。

 やはり引きこもりという状況に陥った時、感じる時間に対しての感覚がマヒしてきたということなのかと、感じていたのだが、それがある意味間違っていたのではないかと感じるのは、集中しているはずの感覚を自分で信じられないことへの憤りなのかも知れない。

 だが、時間の感覚と実際の過ぎた時間が同じであっても、時間の感覚が戻ってきたわけではない。却って、

「時間というものが、絶えず同じ間隔で刻まれているのだ」

 ということを身に染みて感じただけで、毎日が同じ感覚になってしまい、昨日のことなのか今日のことなのかすら分からなくなってきた。

 もし、決まった時間に薬を飲むことが必要であるならば、飲んだかどうかをノートにでも書いておかなければ、分からなくなってしまうほどのレベルである。

 まさか、こんな年で痴呆症などということはないだろうが、引きこもりというのは、実際にこの年での痴呆症を引き起こすものになるのではないかと感じるほどのものであった。

 ただ、書いている小説が、普段はストレスになりそうなことを、自分の感情の中で爆発させる内容なので、完全にストレス解消のためだけに書いていると言ってもいい。

 自分の小説の中で何人の人間を殺したであろうか? 相手が子供であっても、女であっても老人であっても関係ない。気に食わないやつは、肉親であっても。小説の中でぶち殺している。小説に書いたことが、現実に起こるわけでもなし、このような小説を人に見せるでもなし。やりたい放題だった。

 女だって、やりたい放題。最近では、AVをダウンロードして見ていることも多い。それは、あくまでも、自分の小説に役立てるという意味でのダウンロードだった。暴行モノや痴漢もの、さらには、SMのような変態プレイなどが多かった。

「AVなんだから、過激で興奮するものでなければいけない」

 と思い、ハードなものであったり、サイコなものにまで手を出したりしていた。

 そんな映像を見ながら、自分で文章にしてみると、これがなかなか難しい。

「官能小説というのは難しいというが、本当にそうなんだ」

 と思ったので、官能小説というジャンルではなく、他の小説に官能的な部分を織り込むような小説を書くことにした。

 やはり、ターゲットとしては、探偵小説だった。ただ、ミステリーにしてしまうと、トリックの部分が難しく、うまくいかないので、ミステリーにオカルト的な内容を醸しださせることで、ラストを曖昧にし。その曖昧さが、ラスト数行で、どんでん返しを起こさせるような内容にできればいいと考えていた。

 小説を何本も書いてみたが、自分で納得のいくような作品は一本も書けなかった。

「小説を書くというのは、本当に難しいことだな」

 と感じたが、その裏返しに、

「素人なので、何を書いてもいいということで気が楽なように感じるが、何でもいいということになると、範囲は無限にあって、自分で絞り切ることができないと、永遠に書き始めることすらできなくなる」

 というものがある。

「何を書きたいのかということのはずなので、そんなに難しいのではないのでは?」

 という人もいるが、何かを書きたいと最初から思っていることがあるのであれば、こんなに苦労することもない。

 今のところ、本当に書きたいと思うのは、ストレス解消になることであって、そのためには、いくらでも人を殺してもいいし、蹂躙してもいい。宗教でいえば、

「地獄に落ちるような所業」

 を小説の中でどんどん書いている。

「一体、何回、地獄に落ちれば気が済むというのだろう?」

 と感じるほどである。

 小説を書いていて、最近多いのは、隣のガキを殺すというシチュエーションだ、この間のプールでのうるさかったことを思い出すと、身体が震えるほど怒りがこみあげてくる。

「父親までもが、子供と一緒に遊んでいる、この二人、どのように抹殺しよう」

 という思いからである。

  どうせ殺るなら、ナイフで刺すなどのような単純なやり方では面白くない、中学時代に読んだ探偵小説の中には、結構えげつない殺し方がある。見た目には血を流すわけではないが、ちょっと想像しただけで、これほど恐ろしいやり方はないというような話であった。

 また、中国や西洋の処刑の話でも、血は流さない方法の方が恐ろしいものもある。ぞっとするような処刑方法である。

「どうせなら、一思いにやってくれ」

 と言いたいだろう。

 処刑される人間も、まわりで見ている人間も、本当に溜まったものではないのだろう。

 世の中には、本当に恐ろしい処刑方法もある。

 手首足首に綱をつけて、身体を引き裂くかのような状態にしておいて、炎天下で、塩水につけた綱手、放置しておく、乾いてくると、綱が縮んできて、身体を引っ張るようになる、最後には、身体が耐えきれず……。

 考えただけでも実に恐ろしい。

 こんな残虐な気持ちになったのは、やはり引きこもっていた時に培われた精神なのだろうか?

 平野はそんなことをずっと考えていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る