第5話 連鎖反応

 そのガキがうるさいと思い、想像の中で、その親父とガキを抹殺させた平野は、半分、留飲を下げていた。

「想像することはただだし、いくらでも、頭の中で抹殺してやる」

 と思いながら、自分の思ったことが現実にならないかと感じたほどだった。

 そんな恐ろしいことを考えた自分が怖くなったり、後悔などまったくしない。それよりも、いくら想像しても、それは想像でしかない。親父とガキが成敗されることはないのだ。

「同じように静かに暮らす権利が保障されているはずなのに」

 と感じた。

 だが、保証というのは誰がしてくれるというのだろう>

「この国の国家元首? それとも天皇?」

 そんなバカなことがあるわけもない、

 天皇というのは、別に神でもない。ただの天皇家という、一般日本人とは違った種類の人間で、人間の種類が違っているわけではなく、、権利義務などの国民と国家の関係が、天皇であれば違っているということなのだ。

 天皇に対しては、一般的に一国民ということであるが、政治や国政に関することに関わることはできない。いろいろと、一般国民とは一線を画していると言ってもいいだろう。

 では、国家元首というのはどうだろう?

 大日本帝国憲法下では、天皇は国家元首であったが、今の憲法では、あくまでも象徴でしkない。となると、日本の国家元首というと、普通に考えれば、内閣総理大臣ということになるだろう。

 総理大臣には、他の大臣にはない、いろいろな任命権や、非常時における自衛隊の出動命令などの権限がある。昨今では耳に忙しい、緊急事態宣言などの発令も、内閣総理大臣の名前で行われる。

 では、その総理大臣が、我々の権利を保障してくれるというのだろうか?」

 答えは、

「否」

 である。

 しかも、もし、こんな内容をSNSなどに投稿でもすれば、

「何をとち狂ったことを言ってるんだ。ソーリななてものは、利権に塗れて、君側の奸を味方につけることと、忖度する人間をそばに置くこと、さらには、選挙で勝つことしか考えていない。金と権力の亡者じゃないか?」

 と言われたり、

「漢字が読めなくても、カンペを見て会見してもいい、ひらがなさえ読めれば、原稿にはフリガナを打ってもらえばいいのだから、そして記者会見といえば、決まった質問に対して、順番通りの回答のカンペを読み上げるだけの、小学生にでもできる仕事で、月給百万以上とか、ふざけてるよな。誰だってなりたいし、いくら悪いことをしたことがバレても、それでまわりから何を言われても辞めないんだよな」

 と言われたりした。

 確かに、こんなにおいしい仕事はない。

「まわりから、突きあげられれば、仮病を使って、病院に逃げ込めばいい」

 という前例を、何と二回も使ったバカ首相もいた。

 疑惑だらけで、この男に忖度したために、自殺までしたのに、自分はまったく悪くないと言っているのだ。

 最初に首相になって、最初に出た問題の時も、

「私は潔白だ。もし、やましいことがあるなら、総理辞職だけではなく、国会議員も辞めることにする」

 と、大見栄を切ったくせに、その事件が解決するどころか、出るわ出るわ、いろいろな怪しいウワサがどんどん出てくる。

「一匹発見すれば、十匹はいると思え」

 ということわざのようなものだ。

 それなのに、辞職どことか、

「総理大臣としての人気の通算が、一位になった」

 とかいう、長いだけで、中身はゼロの政策の、どこが誇れるというのだろうか。

 何もせずに、ただ税金泥棒をしていただけではないか。

「他にやれる人がいない」

 というだけでやっていたのだから、そんなに総理大臣というのは特殊な商売なのだろうか?(もちろん、これは皮肉なのだが)

 一度記者会見で、挙手していない人を当てて、その人が何もなかったかのように質問し、それにソーリが、普通に返答していたが、これこそ、いかにも「やらせ」ではないだろうか。

 何しろ、当てられた記者は、下を向いてスマホをいじっていたというのだから、まるで茶番だ。完全に台本ありきではないか。

 ソーリの返答も、誰が言ったか、

「壊れたレコードプレイヤー」

 まさしくその通りだと思ったが、実際には違っていて、

「レコードが傷ついているから、針が飛ぶのだ」

 というのが正解だ。

 今はそもそもレコードなどない時代なので、レコードを見たことがない人がたくさんいるだだろう。だから、そんな単純なことにも気づかない。それこそ、いかにも今の政治を示しているようなものではないだろうか。

 世の中なんて、本当にそんなもので、ただのおっさんや、漢字が読めないやつや、有名芸能人の動画を勝手に流用し、政治利用しようとしたやつが、総理大臣をやっているのだから、まともな世の中のはずはない。

 そんなことを考えていると、世の中というものが、いかに薄っぺらくて、自分の命を自分で守らなければいけないのかということがよく分かる。

 今の時代は民主主義という言葉に騙されたかのような世界になっているので、特権階級がのさばってしまい、有事であろうとも、政治家どもは私利私欲にのみ動き、国民は損な連中の盾となるのだから、たまったものではない。

 そもそも民主主義、資本主義の基本は、

「多数決と、自由な体制」

 と言っていいだろう。

 多数決なのだから、少数派に正解があろうとも、いくら間違っていようとも、過半数には逆らえない。これが本当の自由なのだろうか?

 また自由という言葉も曖昧だ。

 一人の自由を守ろうとすると、必ず誰かの自由が脅かされることになる。最初に不自由を訴えれば、後から訴えたやつよりも、心理的に有利になるのだろうが、それは、きっと、後出しじゃんけんのような発想から来ているのではないだろうか。

 どうしても後から出した人の信憑性は疑われる。それも多数決と同じような理屈で本当に平等だと言えるのだろうか?

 そういえば、民主主義に平等という理念はあるのだろうか? 多数決で自由が基本であれば、平等を訴える場合は、少なからずの矛盾が生じる。

 しかし、平等主義という考え方があり、これはい自由主義、民主主義などと言われるものの基礎となる考え方であり、つまり、平等が基礎にない民主主義というのは、真の民主主義とは追わないのではないだろうか?

 そうなると、今の民主主義は本当の民主主義なのかということにもなる。要するに、民主主義をいただいて、政治に参加している人間によって民主主義と言ったり、言わなかったりするのではないんだろうか。そう考えると今の時代は決して民主主義ではないと言えるだろう。

 だが、どうだろう?

 民主主義、民主国家というのは、、これほど曖昧なものでもないような気がする。

 独裁国家であったり、社会共産主義国家に関わらず。

「○○民主主義共和国」

 などと謳っている国もある。

 そこぞの、

「将軍様」

 をいただく国がそうではないだろうか。

 それを思うと、民主国家。民主主義という言葉がどれほど薄っぺらいものであるかということが分かるような気がする。

 もちろん、日本はそこまでのひどい国ではないが、せっかくの精神国が、あと十年やそこらで、孔子国の仲間入りするのもそう遠くはないだろう。

 隣国の恫喝には屈し、何もいうことができない腰抜け政府。

 因縁を吹っ掛けてくる方も来る方で、一人の独裁者が権力を握り、最近ではバイオテロを企んだという気配もある。さらにもう一つの国は、とっくの昔に片付いている話を勝手にほじくり返してきて、本来であれば、論争になること自体おかしい状況でも、日本という国は甘いので、相手国の言う通りカネを出したのだ。

 それを、さらにハイエナのように集ってくるという、一度味を閉めたら話さないという愚かな国である。

 しかも、その国は、国家元首である大統領が、最後にはすべての人が悲惨な結末を遂げている。

 退任後に逮捕され、獄中死をしたり、暗殺の憂き目にあったり。クーデターを起こされたちと、まともに人生を終えた人は一人もいないというそんな歪んだ国なのである。

 そんな国に恫喝されて、それこそ壊れたレコードのように、

「遺憾の意を示します」

 という言葉ですべての苦情としているのだから、どこぞの首相のように、

「安心安全」

 という言葉と、

「○○に撃ち勝った証」

 などというお花畑思想のめでたい頭脳をお持ちになったそんな男を、

「他になり手がいない」

 というだけで、政権の座に座らせておくということ自体が間違っているのだ。

 そういうこと言っているから、世界から舐められ、

「ぼったくり男爵」

 と言われる、某スポーツイベントの首領に見透かされてしまい、いいように利用されて、国家の存亡の危機を迎えることになるのだ。

「他の国だったり、大日本帝国であれば、こんな政府に対して、どこからかクーデターが起こるか、内線が勃発するのだろうが、日本という国自体がお花畑なので、政治家もさぞや助かっていることだろう」

 という人も結構いるだろう。

 有事になって、まずいと政府が思うよりも先に国民が気付いた。

 しかも政府は、国民には下手に逆らえないと思っている。だから、君子危うきに近寄らずで、自分の私利私欲以外のことは、適当なのだろう。

「国民なんて、適当に演技していれば、それで騙せる」

 とでも思っているのか、国民も舐められたものである。

 そういう意味では某国のような大統領に対して国民が毅然とした態度を取る国とは違う。そこだけは、

「日本も茅屋のようであってほしい」

 と考えている人は多いだろう。

 そうすれば、迂闊な政治をすることもない。国家元首になったのだったら、病院に逃げ込んだり、言い訳をして政権を投げ出したりなどしないだろう。何しろ国家元首としての態度が、今後の自分の命に直接かかわってくるからである。

 平野は、あまり政治に詳しくはなかったが、数年前から興味が出てきた。有事といえる国家の危機、いや、全世界規模の人類の危機と言ってもいい時代に、ほとんどの人が政府に協力するというよりも、政府批判をしていた。

「本当なら、一致団結して、国難を乗り切らなければいけないのが、国民と政府の立場だ」

 と言えると思っていたのに、一体どうしたことなのだろう?

「なるほど、いろいろ調べてみると。これは国民が怒るのも無理はない」

 という内容が、次々と出てくるではないか。

「少し落ち着いてきたかな?」

 と感じさせる時間の間隙をついて、またしても、暴言が上手いタイミングで飛び出してくる。 

 それこそ、マスゴミの羽毛壺である。

 その当時、国民はマスコミのことを、

「マスゴミ」

 と呼んでいた。

 マスゴミは、世間を煽って、自分たちの時期を面白く見せ、それで利益を得ようとする。ジャーナリストという言葉が恥ずかしくて名乗れないのではないかと思えるほどの連中がたくさん蔓延っている。

「あの時の有事の際の一番の悪は、マスゴミではないか?」

 と言われていた。

「たくさんあるマスゴミの中で、一つや二つはまともなところがあってしかるべきなのに。あの時のマスゴミは完全に逝かれていた。やはり一番の戦犯はマスゴミだろう」

 というのが、大半の考えであった。

 その次が政府。

 これは言わずと知れた悪の根源であるが、ここに関しても国民が悪くないとは言えない。

 そんな政府に投票したのは国民であり、それだけに、文句が言いにくいというのもある。

 ただ、これは三番目の悪である、一般市民とは主旨が違っている。

 三番目の一般市民というのは、

「何事にも自分は関係ないという顔をして、世論としての力だけは強く持っていることで、一番悪くないと思っていて、しかも、他の連中に責任を擦り付けているという意味で。これ以上の悪はないのかも知れない。

 伝染病が流行った時、

「マスクをつけろ」

 というのに、自分か大丈夫だと言ってマスクをしないやつ。

 自分だけが死ぬのであればそれでもいいのだが、そんなバカな連中が市中感染を招くのだ。

 作者や平野も人のことはいえないが、自分は悪くないと思って、平気で悪口を並べているやつが一番悪いのかも知れない。

 そういう意味で今の時代は、

「とにかくストレスがたまりまくる時代だ」

 と言えるのではないだろうか。

 そんな世の中で、一体どのように暮らしていけばいいのか、それぞれで考えたはずなのに、伝染病の恐怖が収まると、かつての世の中に戻ってしまった。

 いや、前よりもひどくなっているかも知れない。

 平野は、あの不自由な時代に、冷静になって考えた時期があった。

「少しは収まって、落ち着く時期もあるだろうが、すぐにリバウンドして、前の生活に逆戻りするに違いない」

 と思っていた。

 その理由は、あの伝染病に関しては。どこぞの国のバイオテロだと思ってはいるが、それ以上に、環境破壊などの人間に対しての大いなる警鐘だと思っていた。だから、マスクや飲酒の制限、イベントの観客制限などは、半永久的に続くものだと思っていた。

 しかも、続くべきものだとも思っている。

 かつての聖書の中にあったように、人間が我を忘れて遊びなくっている時、神様が降臨し、世界全体を浄化するということが何度も行われている。このウイルスが、その浄化のために必要不可欠なものだとすれば。一体どうすればいいのだろう?

 人類滅亡を望んでいるわけではないが、消えてほしいと思う連中は少なからずいる。ひょっとすると、我々の知らないところで浄化という作用が行われているのかも知れない。

「あなたの隣にいる人は、本当に昨日までのその人だと断言できますか?」

 であったり、

「あなた自身、昨日までの自分だったと言い切れますか?」

 という言葉を、笑って聞き流せるだろうか?

 ひょっとすると、ドキッとしてビビっているのかも知れない。

 人類が滅亡というところまでいかなくとも、多少なりとも滅亡への警鐘であることには違いない。

 日本人は。人の死というものに対して印象が浅い。戦争もなければ、昔からの死因として言われていた死以外の突然の死というものに、さほど意識がない。事故や自殺などは、その時は衝撃であろうが、結構すぐに忘れてしまうのである。

 地震や水害などの天災であっても、

「風化させてはいけない」

 と、活動する人がいるが、そもそも、風化させてしまうだけの民族性だということを意味しているのである。

 世代が変わっていくのであえば、しょうがないところもあるが、少なくとも記憶が鮮明な、二、三年で風化などという言葉が出てくること自体、異常なのではないだろうか。

 ただ、マスゴミがそう言って煽っているだけなのかも知れないが、そのマスゴミの餌食になるのも一般市民、同じ穴のムジナとも言えるのではないだろうか。

「流行などは、ものによって違うが、基本的に周期があって、それに沿って、再度流行ったりするものである」

 と言われている。

 それを一緒の連鎖と言ってもいいのではないだろうか。

 そういう連鎖というのは、世の中の癌であるのだが、別の見方をすれば、一種の必要悪なのではないかとも思える。

 他の悪を退治するための、必要な悪、ということは、このような連鎖を伴う悪よりももっと悪質なものがあるということであろうか?

「連鎖というのは、一体どういうものなのであろうか?」

 と、考えさせられる。

 さすがに高校生の平野にはピンとすることもないだろうが、蔓延っている悪の中で、いかにこれからの世をまともにできるのかを取捨選択できるかどうかが問題であろう。

 いくら日本が民主主義で主権が国民だとしても、すべてに得になることなどあるわけもない。今のままでは、

「後出しじゃんけんの方が勝ってしまう」

 というそんな世の中にしてしまっていいのだろうか?

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