第6話 理不尽と無責任

 平野は、そんな立派なことが言える人間ではないと思っているが、世間というところには、

「偽善者」

 と呼ばれる人間が溢れているように思う。

 特に、誰かが何かの事件や事故で犠牲になったという話を訊くと、

「それは可哀そうだ」

「冥福をお祈りします」

 などと、SNSに書きこまれていて、そのうえで、その犯人や事故の責任の所在という意味で、誰かを攻撃している。

 人を攻撃するための大義名分として、かわいそうだと言ったり、冥福を祈るなどという言葉を、まるで言い訳のように使っているのを見ると、どうにも理不尽に感じられるのだ。

 確かに気の毒なのだろうが、SNSで避難している連中にとって、痛くも痒くもないことだろう。それを、あたかも正義感を振りかざして、

「○○警察」

 のごとく、

「俺が正義なんだ」

 と言わんばかりの人たちに虫唾が走るのは、いけないことなのだろうか。

 さらに、マスゴミもそんな連中を煽ったような記事の書き方をする。しょせんやつらは、自分たちの記事が売れればそれでいいのだ。世間的に騒動になってくれた方が、自分たちの記事が売れるのだから、ありがたいと思っているに違いない。

 そんな中で、どこに正義などが存在するというのだ。正直平野は、事故に遭ったり、事件に巻き込まれて死んだ人を、かわいそうだとは思わない。kしれない胃の毒とは思うかも知れない。

 そんなことをいうと、白い目で見る人がいるが、自分の身内でもないのに、よく涙を流せるなと思えてならない。偽善に思ってしまうのは、捻くれているからであろうか?

 まあ、人が死ぬというのは、少し話が大げさであるが、少し話の視点を変えて、例えば、何かのスポーツ大会などで、自分の母校の選手が、全国大会に出るとか、いうことになると、校庭から、表に見えるところに、

「○○競技 二年〇組 ○○君 全国大会代表 がんばれ」

 などという横断幕が掛けられていたり、最寄りの駅にも似たような横断幕が掲げられていたりする。

 平野は、それを見るたびに、虫唾が走った。

「そうやって大人がおだてておいて、結局どうなるというんだ?」

 と思うからだ。

 昔の野球留学制度などのある学校の話をよく聞いたことがあり、今でもスポーツ推薦などというものもあったりする。

 中学高校で優秀な成績を挙げた人が、

「学費は無料」

 ということで、大学に推薦で入学する選手が結構いる。

 野球などの場合もそうだが、基本は、

「選手の間、成績が残せれば学費は無料だが、選手として成績が落ちれば、学費が発生する」

 というものだった。

 スポーツなどは、ケガとは隣り合わせである。

 時に野球などのような団体競技だと、まわりの手前、故障するかも知れないと思っても、試合では無理をしなければいけない。そのせいで、野球ができなくなったとしても、誰も面倒は見てくれない。したがって、学費免除もダメで、学校では成績がついていけず、結局退学を余儀なくされる。そんな生徒が大半を占めているという。

 当然脚光を浴びるのは、ごく一部の人たち、落ちこぼれて、退学していった連中に対して、有名選手をちやほやはしても、忘れていくだけのことではないか。

「持ち上げておいて、手を放して下に叩き落す」

 それを無責任と言わずに何というか。。要するに、有名で時の人でないと、誰も相手にしないのだ。そんな連中がちやほやしている一部の人間だって。ケガをして選手でいられなくなったら、すぐに忘れられる。オリンピックで金メダルと取ったと言っても、果たして次のオリンピックが始まれば、よほどのファンでもなければ、

「誰だったっけ?」

 という程度である。

 世間の冷たさというのはそういうもので、誰が落ちこぼれた人間の面倒など見るものだろうか?

 世間からは忘れ去られていき、あれだけちやほやしていた連中が急に冷めた目で見始める。

「スポーツができなくなったやつなんて」

 という目で見る。

 明らかに上から目線である。そんな目線を浴びていると、自分が委縮してくるのが分かり、そうなると、自分が本当は何もできないことを悟るのだ。

 スポーツでちやほやされていた時は、何でもできると思っていた。それは自分が何でもできるわけではなく。何をしても許されるというような印象があり、お金を出して買わなくても、店の人が、

「いいよ、持っていきな」

 というような態度を取ってくれたからだ。

 まだ少年なのだから、そういう好意を喜んで受ける方が、子供らしくて好感が持てるだろう。下手に遠慮などすれば、却って生意気に見られるということさえ考えるようになっていた。

 だが、スポーツができなくなると、普通であれば、

「かわいそうに」

 ということで、同情してくれるものだと思っていた。

 しかし、世間の目はそんなに甘くはない。地元のヒーローでも何でもなくなってしまった少年は、持ち上げる必要もない。つまり。世間は彼という人間を見ていたわけではなく、

「地元のヒーロー」

 という偶像を持ち上げていただけなのだ。

 そのため、誰も彼を擁護することはなくなり、見捨てることになる。

 学校では、それまですべてを犠牲にしてスポーツをしてきたので、勉強などとっくの昔に追いつけなくなっていた。

 今までは、

「授業に出席さえしてくれれば、それでいい」

 とばかりに、完全にえこひいきしていたのだ。

 そんな人間なので、教室では完全に浮いてしまった。他の生徒は決して彼を地元のヒーローだという目で見ていたわけではない。

「あいつだけ贔屓されて」

 という嫉妬の目で見ていたのだ。

 だから、もう贔屓もされない。誰も相手をしてくれる人もいない。そうなると、学校に行く異議すらなくなってくる。

 学費は援助もないので、辞めるしかないだろう。そうなりと、後はお決まりの転落人生が待っているだけだった。

 働くと言っても何ができるわけではない。半グレ集団か、某自由業のマルボウさんにでも入るしかない。そこでも、

「元スポーツ選手」

 などという贔屓があるわけではないが、世間に中途半端にいるよりもいいのではないか。

 こんな人間がどれほどたくさんいるだろう。毎年のように全国大会に出て、ちやほやされた選手がいるが。その人たちがプロになって、しかも成功するなど、ほんの一握り、ほとんどの人間は切り捨てられるだけなのだ。

 これはスポーツに限ったことではない。アイドルの世界であってもそうだ。世の中に溢れるだけのオーディションがあり、そこで一万人以上の中からグランプリに選ばれた人が、グラビアアイドルとしてデビューしても、グラビアアイドルというのも、世間では山ほどいるのだ。

 テレビドラマの主役になったり、CMに出演することもあるだろうが、その一回で終わりで、あとは、地方営業を余儀なくされたり、仕事を選んでいられないほどの状態になるということも、珍しいことでもない。

 芸術家の世界だってそうだ。有名な賞を受賞して、デビューできたとしても、そこから先がいばらの道で、次回作ができずに、受賞がピークという人間も山ほどいる、

 目指していたことが達成すると、そこで満足してしまって、そこから先のビジョンが見えてこないという人も多いだろう。

 世間というのはそういうもので、世間は一時的に騒いでくれるが、しょせん、すぐに火は消えるものだ。

 他で目立つ火が見えると、そっちに移っていく。世間というのはそういうもので、決して信用してはいけない、モンスターなのだ。

 スポーツで有名になると、

「自惚れるな」

 というのは難しいだろう。

 自分にも自信が持てるようになるのが一番なのだが、まわりがちやほやしてくると、自分を見失ってしまう。誰も窘めてくれる人はいない。しょせん、他人事なのだ。

「他人事だというのであれば、放っておけないいのに」

 と思うのだが、なぜ、責任ももてないくせに、勝手に持ち上げるのだろうか?

 これを無責任と言わず、何といえばいいのだろう。

「世間なんてそんなものだ」

 という一言で、その後の人生が決まってしまう。

 ぐれなかったとしても、学校では落ちこぼれ、一旦失った自信を戻すことはほぼ不可能だろう。

 しかし、それでも、

「自分でやる気になれば、何だってできる」

 などという、実にお花畑のようなことをいう輩もいるが、そんなやつほど、おだてる時は徹底的におだてて。引きずり落とす時は、先頭に立って、引きずり落とすようなことをするのだろう。

 それを分かっているので、世間に対しては、誰が合わせようなどとするものか。

「世間体というものがあるでしょう?」

 とよく言われるが、心の中では、

「世間体? あんなくそのような世間に対して何を示せばいいんだ? 自分を犠牲にしてまで世間に媚びを売るなんて、そんなバカバカしいことはないだろう」

 と思っているが、結局は何も言い返すことができず、そんな自分を情けないと感じるしかないのだった。

 どれほど、歯を食いしばったことだろう。言い返しもできない自分が世間に逆らってもどうなるものではないということは分かっているくせに、逆らうこともできない自分が世間に屈服しているようで、これおそ、ジレンマというものなのかも知れない。

 とにかく、世間というのは、無責任で成り立っている。世間というのは、その結果に対して、まったく責任を取ろうとしないのだ。そもそも、世間には、責任などという言葉が存在しないのではないかと思うのだが、それは個人の集合体が世間であるからだ。

 持ち上げる時も、世間の代表として皆がちやほやする。だからm違和感があるのだ。持ち上げるなら、持ち上げる人個人でやるものだろう。しかし、持ち上げられた人には、誰が誰か分かっているわけではない。持ち上げる人は個人だと思っているが、実際には世間の中の一人でしかないのだ。

 では、引きずり下ろす時はどうなのだろう?

 世間で引きずり落としてはいるが、ここも、世間の代表としての誰かが引きずりおろしているだけなのだ。だから、そのせいで引きずりおろされた人間が何か犯罪を起こしたとしても責任の所在がハッキリとしない。

 世間という架空の存在は、存在しないということを理由に、責任がない。かと言って、個人で引きずり落としてはいるのだが、実際には、世間という後ろ盾があるからできることだ。

「形はあるが、実態のない世間というものに、すべての責任を押していけてしまえば、何だってできるんだ」

 と思っているのかいないのか、しかし、結果的には、そういう風にしか見えないのだ。

 引きずり落としたことで、その人の人生が狂ってしまったとしても、誰も責任を取ろうとしない。

 下手に、同情などをしたものであれば、自分が責任を負ったかのように見られてしまう。それこそ、すべてを自分に押し付けて、皆逃げようとしているのだから、自分だけが貧乏くじを引くわけにはいかない。だから、誰も彼のことを、

「かわいそうに」

 と思ったとしても、ただ自分だけで感じるだけで、まわりに悟られないようにしている。

 責任を押し付けられてはたまらないからだった。

 まるで、苛めの傍観者のようではないか。

「苛めは悪いことだ。助けなければいけない」

 とは思ってみても、

「迂闊に助けてしまうと、自分が今度はまわりからのターゲットにされてしまい、運命が変わってしまう」

 と感じる。

 これも、以前に読んだおとぎ話のようではないか。何千年もその場所に根を晴らしておいて、ずっと誰かが来るのを待っている。相手を言いくるめて入れ替わることで、自分がその場から逃げ出すことができる。

 他人など、構っていられないのだ。自分さえよければそれでいい。

 世間体を気にする人は、この。

「自分さえよければそれでいい」

 という考えを嫌っている。

 いや、嫌っているように見えるだけだ。

 まわりに合わせることで、自分への責任を回避したいという考えが先にあるのだろう。

 目立ちたいという感情を押し殺し、その他大勢でいいという実に面白くも何ともないそんな人生を自分で選ぶのだ。

 本当は目立ちたいと思っても、

「出る杭は打たれる」

 という言葉があるから、出ることもできない。

「よほど自分に自信があることを武器にすれば目立つこともできるはずだ」

 という考えもあるのだろうが、

「待てよ。今はいいかも知れないが、スポーツ選手のように、何かの原因で、自分に自信があるものが世間で通用しなくなると、もう自分には武器はない」

 と思ってしまう。

 確かに一つのことに秀でて、その才能を生かすというのが、実に魅力的な生き方だとは思うが、それに失敗した時、自分に何が残るというのだ。

 その一つのことのために、他のことを犠牲にしてきたのだから、秀でたことを失った時点で、他のことは、そのほとんどにおいて、

「落ちこぼれ」

 ということになる。

 それを自分よりも世間の方が分かっているだけに、実に厄介なことだ。

「こんなの、面白くも何ともない」

 そんな人生が待っているだけだった。

 これを理不尽と言わずして何というだろう?

 世間というのは、一体何によって作られているというのか。それこそ、理不尽というもので作られていると言ってもいいだろう。

 そんな世間に対して、

「世間体が」

 と言っている人たちは、世間体というものを本当に知っているのかが疑問に思う。

 ただ、訳も分からずに、世間体というものを拡大解釈し、ただ単に、

「恐ろしいものだ」

 と、その理由もその存在価値も分からずに感じているのだから、それこそ、たちが悪いというものではないだろうか。

 理不尽という言葉も、曖昧でよく分からない。

「自分の意に反して。起こったことが自分に対して悪いことだったりする」

 というのを、理不尽というのか、それとも、

「誰かに対して自分を犠牲にしてでも助けてあげようと思ったことが、勝手な思い込みであり。相手はさほど困ってもいないのに下手に首を突っ込んだことで、自分自身が底なし沼に足を取られて逃げることができなくなってしまった」

 という。そういう話なのか、ハッキリとは分からない。

 だが、平野は、後者のような気がして仕方がない。

「世間体という言葉が、誰かのためにと言い換えられるのかも知れないな」

 とも感じた。

 その誰かのために、やったあげたことが、自分を陥れることになったのなら、それは本末転倒である。

 しかし、その本末転倒なことがいかに情けないことであるかということを考えると、世間というのは、本当に何もしてくれない。何しろ、実態のないただの影のような存在だからである。それを思うと。何をどう考えればいいというのか、分からなくなり、恨みの矛先は、

「世間というもの」

 に向けられることになるだろう。

 逆に実態のないものに怒りの矛先を向けるということは、誰かを恨むわけではない分、いいのかも知れない。

 世間全体から受けている圧力を、誰か一人に押し付けたとしても、それは、自分のストレスの解消になるわけでもない。

 そのことを分からず、一人だけを恨んでしまうと、その感情は理不尽と言われてもいいのではないだろうか。

 その思いが集団となって現れると、苛めというものになる。苛められる方は、誰でも良かったのだ。世間という広いものに対して反抗するよりも、一人にターゲットを絞って苛める方が、苛め甲斐があるし、反応が分かるだけに、ストレス解消にもなる、

 苛められた側も、

「理不尽だ」

 と思う。

 こうやって、理不尽という、ザワザワが、世間体という虚空の中に蔓延していくのであった。

 だが、果たして世間というものだけをターゲットにして攻撃していいものだろうかとも思う。その個人にも何か問題がないということも言えないだろう。だが、世間を擁護するのも攻撃するのも世間であり、それに一喜一憂して振り回されるのが個人であるという構図が出来上がっているのであろう。

 後出しじゃんけんであったり、理不尽さを無責任にも自分の責任としない考え方こそ、世間としての、

「負のスパイラル」

 なのかも知れない。

 不満があっても、何もいえない風潮というのは、苛めを受けている人を見て見ぬふりをするという風潮に似ているのかも知れない。

「苛めに関しては、苛める人間が一番悪いのは確かだが、黙って見て見ぬふりをしている連中も同罪なんだ」

 と言われている。

 それを同じ理屈であれば、悪を悪として言えない世間、あるいは世間体というものは、そのもの自体が虚空の存在であるということの証明のようでもある。

 理不尽だと考えるのは、きっとそういう無責任な世間の中にいる連中が一番の原因ではないだろうか。自分の意見をハッキリさせないのは、日和見的なところがあるからなのだろうか。それとも、

「黙っていなければ、次の苛めのターゲットには、自分がされてしまう」

 という考えから来るものなのだろうか。

 世間体というものを考えていると、虚空であるということを考えると、まるで、悪事を引き置けてくれる受け皿のようにも感じられた。しかし、それ以上に、世間体という言葉を言い訳にして、自分が平均的な人間であり、まわりに溶け込めるということを匂わせているように思えてならない。

「人は一人では生きてはいけない」

 という大前提の下に、よく世間の親たちは、

「皆から可愛がってもらえるような子供でいなさい」

 とよく言うではないか。

 子供というのは確かに、

「可愛がられてなんぼ」

 という意識が強い。

 それはきっと、

「親同士のマウントの取り方」

 に影響があるのではないだろうか。

 母親になると、まず世間との親子としてのかかわりは、普通であればm、

「公園デビュー」

 というものから始まるのだろう。

 最初は誰でも一人で子育てをしている。父親が手伝ってくれる場合もあるが、それはあくまでも、

「親として」

 の関わりである。

 しかし、父親は仕事もあれば、社会とのかかわりは、母親の知らないところで結構あったりする。そっちに必死になって、子育てに構っている場合ではないということも往々にしてあるだろう。

 だから、子育てはほぼ母親の仕事だ。

 まあ、それを言ってしまうと、

「男女平等の観点から、そのセリフは聞き捨てならない」

 などという人もいるだろう。

 しかし、実質的には母親が育てるのが一番しっくりくるのであって、子供にとっても、それが一番であろう。

 何しろ、男性にはお乳を出すことができないからだ。

「そもそも肉体として絶対的に違うのに、男女平等などありえない」

 と思っている人も多いだろう。

 ひょっとすると、男女差別を口にする人の中には、この言葉を十分に理解している人も多いのではないだろうか。

 とにかく、母親が最初に母親として世間と関わるのは、やはり、

「公園デビュー」

 なのであろう。

 公園デビューとは、赤ちゃんをベビーカーに乗せて散歩する時、公園にいる他のお母さんたちとコミュニケーションが取れるかという、子供が主役ではなく、母親たちが主役なのだ。

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